変わりゆくもの

「傷はもう痛まない?」

「はい」

 

 本店のスタッフルームで、沙羅は辻村と向き合って座っていた。


「泉さんにしてほしいのは、店内のレイアウトの見直しとそれからカフェで使う茶器なんかも買いなおしてほしい。テーブルクロスとかも買い換えたいんだ」

「私でいいんでしょうか」

「君だからお願いしたい」


 迷いなく告げられた言葉にどきりとする。信頼してくれるのは嬉しい。


「うちは女性客が多いから、センスのいい女性スタッフが欲しかったんだ」

「今も十分素敵ですけど」

「もっと素敵にしてよ」


 その柔らかな言い方に、緊張がほぐれた。



☆新しい出会い 麗香視点


 憂鬱だった結婚式で一つ年下の皆川に声をかけられ、二度目のデートをした。

 見た目は少し野暮ったいけれど、よく見ると顔は悪くない。もう結婚前提ではない男と無駄な時間を過ごす暇はない。

皆川が結婚相手としてふさわしいかどうかしっかり見極めたかった。

 結婚相手選びに失敗することは、そのまま人生を棒に振ってしまうと言っても過言ではない。ただの遊びではないからには、慎重にならざるをえない。


「へぇ。税理士なんだ」


 二人で映画を見てから、夕飯にイタリアンを食べる。食べ方はきれいで育ちの良さを感じさせた。


「はい」


 地味だが悪くない職業だ。士業は世間体がいい。将来は独立するつもりだという。

 皆川は、食事のあとあまり慣れていない様子で六本木のバーに連れて行ってくれた。


「麗香さんのためにお洒落な店探さなくちゃって、頑張ったんだけどどうかな?」

「そういう気持ちが嬉しいの。ありがとう」


 いたって普通のバーだが、自分のために探してくれたと口にするところはよい。初めてのデートで女性を立てられない男も多いが、皆川はまず合格だ。

 麗香の話に耳を傾け、よく聞いてくれるのもよい。


「どうして、私に声をかけの? ほかにも女性はいたのに」

「そりゃもちろん……きれいだから」

 

 正直だ。もう回りくどいアプローチを待っている心の余裕はなかった。

 皆川と出会う前、追いつめられて誠の妻の働く店に何度か行ってしまった。

 それから誠から聞いた事故のことを、さも現場にいたような書き方で悪いレビューを書き込んだ。


 一瞬すっきりしたものの、惨めな気持ちにもなる。自分の中にこんな黒い気持ちが芽生えていることに、ぞっとした。

 不幸は人を歪ませる。幸せな人間が優しいのは普通のこと。

 自分がおかしくなりかけているのは、運がないからだ。早くこの状況を脱したい。


 ──早く結婚して落ち着きたい。


 既婚者との恋愛は、思ったより自尊心を傷つけ、心を摩耗させた。皆川の真摯な眼差しを見ていると、失った自信が戻ってくる。


「私、次付き合う人はきちんと選びたいの」

「僕は……真剣です。ふざけた気持ちで誘ってるわけじゃないので、わかってください」


 その答えは麗香を満足させる。

 ときめきや刺激はなくとも、皆川ならいい夫になるような気がした。


「まだ出会ったばかりだから、もう少し考えたいな」

「もちろん待ちます」


 鮮やかな色のローズマティーニを飲みながら、沙羅のことを思い出す。

 選んでくれた薔薇の香りはなかなか素敵だった。

 夫に裏切られているのも知らずに、麗香に花を包む優雅な笑顔。表面だけではその人が幸せかどうかなんてわからない。

 自分はまがいものではない本当の幸せが欲しい。

 

 ──私はちゃんと自分だけを愛してくれる人と結婚する。


 誰かと男を共有するなんてまっぴらだ。皆川の手の上にそっと自分の手を乗せる。

 誰かに同情されたり、不幸だと思われたりする恋愛なんて耐えられない。誰からも文句がつけられない幸せが欲しい。


「このあと、どうします?」

「もう少し、一緒にいたいかな」 


 寂しい夜はきれいな夜景にすら傷ついてしまう。けれど自分を求めてくれる人と見るのはいいものだ。夜が更けていく。


☆別れの約束


「彼氏ができたの」


 麗香がなんてことのない様子で話すのを、誠は涼しい顔で聞いていたが、内心穏やかではなかった。

 沙羅の怪我をきっかけに別れるつもりだったが、あくまで自分から別れるつもりで、麗香に切り出されるとは思っていなかったからだ。


「結婚式で声をかけられたの。泉さんも見たよね。職業も固いし、いいかなって」

「へぇ。結婚相手にはいいだろうね」


 これで麗香と別れるのが気楽になったというのと、面白くない気持ちが半々で、自分の中の身勝手さに少し呆れた。


「でもね、泉さんのこと、ちゃんと好きだったんですよ。本当は泉さんみたいな人と結婚したかった。だから残念な気持ちもあります」

「ありがとう。俺も仕事がきつい時麗香ちゃんがいてくれてよかった」


 麗香の言葉に苦笑する。

誠がいい面だけを麗香に見せられるのは、沙羅がいて、心に余裕があるからだ。仕事でプレッシャーがきつかった時期に、沙羅が不妊で落ち込んでいて、家庭まで安らげない時期があった。


沙羅には仕事の愚痴を言ったり、弱いところを見せたりしたくない。麗香とはお互い期間限定と割り切っているからこそ、気楽なところがあり、救われている。


麗香と付き合いだしてから、沙羅が両親の離婚で傷ついたことが頭をかすめたこともあるが、自分は沙羅の父親のように家庭を捨てたりはしないから別だと思っていた。

 長く続けるにはリスクもあるから麗香に恋人ができたのはいいことかもしれない。


 こっそり関係を打ち明けた同僚からは、20代後半の女は不倫相手としては地雷だと言われた。麗香の場合、婚活中の息抜きと割り切っていたから安心していたが、最近少し様子が変わってきたので心配していた。


「結婚祝いはなにがいい? 仕事でも助けてもらったし、はずむよ」

「私、一つだけ望んでたことがあって」

「なに? 最後だから聞くよ」

「いつも短時間しか一緒にいれなかったから、最後に旅行がしたいです」


 少し考える。沙羅が自分を疑い始めている。だが最後に一度だけなら……。


「わかった。都合つけるよ」


 しかし、もう新しい恋人と付き合い始めているのに、旅行がしたいとは。

 麗香の貞操観念には少し驚く。


 ──まぁ、そういう女だから楽しめたわけだけど。


 頭の中で沙羅にする旅行のアリバイを考え始めていた。


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