平穏な日々

☆平穏な日々


「今日の味噌汁、特にうまいな」

「やっぱりわかる? 友達に勧められてお取り寄せした出汁を使ったの」


 泉沙羅は、夫の誠が変化に気づいて嬉しくなる。


 朝ご飯は一日の元気の源だから、少しでも美味しいものを食べさせたい。

仕事をしている間は、なかなか丁寧な暮らしもできなかったけれど、専業主婦になった今は家の居心地をよくすることに全力で取り組めていた。

 

 結婚7年目。夫婦仲は良好。経済的にも恵まれている。

 テレビでは、人気女優の不倫が発覚したとコメンテーターがさも大事件のように熱く語っていた。


「家族を裏切ってまで、恋愛して楽しめるのかなぁ」

「まぁ芸能界なんて特殊な世界だからな」


 素朴な疑問だったが、誠は芸能人の不倫には興味がなさそうだった。


「旦那さんのことをすっかり忘れて、楽しめるもの?」


 人間だから結婚していても、誰かに心惹かれることもあるかもしれない。だけど、結婚したまま、別の人と関係を持つなんて罪悪感で耐えられないのではないだろうか。


「まぁ、人それぞれなんじゃない。そういえば今日、遅くなるから」


 食べ終わり、ごちそうさまと箸を置いて、誠は出勤の準備をする。


「そう。また接待?」

「うん。悪いね。大きい仕事が取れそうなんだ」


 大手通信会社で営業課長をしている誠は、普段から激務で帰りが遅い。最近は特に連絡がなく午前様になることもたびたびあり、夕飯を一人で食べることには慣れていた。


「忙しいところ悪いんだけど……」

「なに?」


 聞かれて、一瞬言葉に詰まる。


「あ、ううん。何でもない。ちょっと余裕がある時家具を動かしてほしくて」

「土曜日にやるよ」


 咄嗟に嘘をついた。本当はそんなことを頼みたいわけではなかった。


「ありがとう」


 一見何もない平穏で仲睦まじい夫婦。それでも心に隙間風が吹くこともある。人には言えない悩みもある。





「え? じゃぁ不妊治療まだ次のステップに進んでないんだ? まだ年齢的に焦る必要もないけど、ゆっくりしてていいわけでもないし、誠さんが協力しないと無理よねぇ」


 今年で32才になる。絶望する年ではなく、かと言って安心していい年でもない。


 平日だが、有給を取ったからランチに付き合ってと電話を貰い、大学時代の親友の真帆と会っていた。

 ドレッシングが美味しいサラダと魚介のたっぷり入った塩味のスープパスタと焼きたてのパン。家では食べられない味の料理やおしゃれなカフェの雰囲気は、気分転換にはもってこいだ。


「次ダメなら旦那さんの検査もしましょうって言われて……それから不妊治療の話をすごく嫌がるようになったの」

「ま、わからなくもないけどさ、病院で射精しろって言われるの男性的にはプライドが傷つくだろうし」

「ちょっと! 声大きい」


 隣にいる上品そうな婦人がこちらをちらりと見た。あけすけな言葉を言う真帆を諫める。


「ごめんごめん。でもさ。沙羅だって仕事やめたり、痛かったり恥ずかしい検査を受けたわけじゃない? なら誠さんも少しくらい我慢して協力してもいいでしょ」


 できるだけ声のトーンを落として話す。不妊治療のため仕事を辞めてから、人と話す機会もめっきり減ってしまって、つい愚痴を言ってしまう。


「うん……でも、そもそも最近してなくて」


 不妊治療どころか、治療を始めてしばらくすると、そもそもセックスすらしなくなってしまった。

子作りのために義務感からするのは、苦痛なのかもしれない。30代の働き盛りは会社でも酷使されるから、体力を削られるのもわかる。


 沙羅自身もインテリアコーディネーターとして長い間働いていたが、過度のストレスや疲労も不妊の原因になると言われ、昨年退職した。

 あまりに残業が続いて、生理が不規則になったので思い切って辞めたのだ。


 誠には、自分の稼ぎだけでもなんとかなるし、沙羅には余裕のある生活をしてほしいと言われている。

 だが実際辞めてみると、暇な時間は案外人の心を蝕むのだという事実に気づく。

 働いている時よりずっと街で子供連れを見た時のダメージが大きくなっていた。


「それじゃぁいつまで経ってもコウノトリは来ないわよね。子供がいなくても幸せな夫婦もたくさんいるけど、片方が欲しいのに、片方が非協力的だと、そうはいかないし」


 真帆は、バリバリのキャリアウーマンのまま、子供を二人産んでいる。仕事も決して楽ではないのに、子育ても両立して、豊洲のタワーマンションを買い、夫とも良好な関係だ。


 人生に勝ち負けがあるのなら、間違いなく勝ち組だろう。

 沙羅のもっていないもの全て持っているだけに、比べる気にもならず、恥を捨てこうして相談できている。


「話し合わなきゃいけないんだけどね」


 もしかしたら不妊治療以前の問題なのかもしれなかった。

 誠が検査に難色を示してから、なんとなく治療のことを言えなくなっていた。それに最近やたらと帰りが遅いのも、沙羅をどこか避けているような気がしなくもなかった。


「家族になると、難しいとこはあるけど。沙羅、暗い顔してないでさ。私このあと美容室予約してるから一緒に行こうよ。多分空いてるからさ。自分に手をかけて大事にしてあげることも大事だよ」


 真帆の夫の愚痴などを聞いた後、半ば強引に美容室へ連れていかれた。


「うん。うん。キレイ。20代の時にはなかった色気もあるし、まだまだ女ざかりよねぇ。私たち」


 思わず吹き出しそうになるが、真帆のこういうところが好きだった。気分を明るくさせてくれる。


「自分たちで褒め合うしかないわね」


伸ばしっぱなしの黒髪を明るくして、パーマまでかけると、確かに心も足取りも軽くなる気がした。二人でけらけら笑いながら、買い物も楽しんでいると学生時代を思い出す。

 最近はもっぱらおしゃれをして遠出をすることも減ったから、いつもは着ないような華やかなワンピースを買う。


「ねぇ。真帆。私やっぱり働こうかな。家にいて誠の帰りを待つだけの日々はなんか鬱々としちゃって」

「いいんじゃない。そういえばさ。大学の辻村先輩、起業したの知ってる?」

「知らない」


 その名を聞いてどきりとする。


「なんか結構有名なフラワーデザイナーしててさ、芸能人の結婚式とかで演出したりしてるんだって。花屋さんも何店舗か経営してるの。本人はお店にはめったにいないんだけどさ、この近くだから行ってみようよ。たまには食卓に花を飾るのもいい気分だよ」


 花を飾っても、誠はきっと興味がない。でも自分のためだけに花を飾るのもいいかもしれない。


「花かぁ。自分のためには買ったことないからたまにはいいかも」

「行こう。すぐそこ」


 ──素敵なお店。


入口には、ガラス張りの扉があり、Petale Atelierという店名が書いてある。花びらをモチーフにしたアートワークでシンプルながらも美しいデザインだ。

壁は落ち着いたアースカラーで、花や木々に溢れた店内は街の中の小さなオアシスのようだ。

周囲の建物とは一線を画したモダンで洗練されたデザインの建物だった、


普通の花屋さんと違うのは中にカフェもあり、そこで花に囲まれながら優雅にお茶やスイーツを楽しめることだった。小さな噴水まである。都会の一角とは思えない。

 見たことのない複雑な色の薔薇が目に入る。美しい。


 とりあえずカフェに入って一息ついた。


「ハーブティーもこういう場所で飲むと余計美味しく感じる」

「目にも美味しいね」


 ガラスのティーカップに注がれたお茶は、薔薇の花びらを一枚浮かべ、金色に輝いている。


「はー、充実した一日だった」

「でしょでしょ。沙羅は真面目すぎるからたまには羽目を外さないと息が詰まっちゃうよ」


 小さな花束でいいと思っていたのに、つい欲張って大きなものを買ってしまった。切り花が美しいのはわずかな時間だが、その間は大切にしようと思った。

 最後に花を刈って帰ろうといい、店内を見て回っていると声をかけられた。


「あれ、真帆ちゃん。来てくれたんだ」


 驚いて振り向くと、辻村裕也がいた。経営者だからいてもおかしくないけれど、会うことはないと思っていたから驚いた。

 真帆と違って、沙羅は辻村と会うのは十年ぶりだ。

 すっきりとした上質な白いコットンシャツに、デニムといういたってラフな服装なのに、長い手足と整った顔立ちのせいで、とても垢ぬけて見えた。

 学生時代から変わっていない。というより年を取ったぶん、渋みが出て一層魅力的になっていた。


「飯田沙羅さん?」


 旧姓で呼ばれ、覚えていてくれたことに驚く。

 

「お久しぶりです」


 沙羅が小声で挨拶すると、真帆が元気よく辻村に声をかけた。


「今日は主婦の息抜きデーで、辻村さんのお店が近くにあるので、寄ったんです。すごいセンスが良くて素敵なお店だねって話してたんです」

「それはよかった。滅多に顔出さないんだけど今日は用事があったから」


 辻村が真帆と話しながら、ちらりと沙羅のほうを見て、沙羅は思わず目を逸らしてしまった。


「待って、せっかく来たからおまけ。どうせなら二人のイメージに合ったものを」


 辻村は、そう言って、真帆と沙羅にそれぞ別の薔薇を一輪追加してくれた。

 

 ──いないって聞いたから来たのに。


 辻村とは一度キスをしたことがある。

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