32.少女と猫と
*****
河川敷、河原、堤防。そんなふうに定義される場所。暇さえあればいつもそこにいる。女性陣三名はいない。揃ってジムに向かった。ストイックな連中だ。尊敬できるし、感心もする。
ウィダーを飲んでいたわけだが、からっぽになった容器をスクールバッグに突っ込む。今日も静かな一日だった。面白味には欠けるかもしれないが、それでもいいと考える自分がいる。――帰路につこう。商店街でコロッケを買って帰ろう。たまにはメンチカツもいいかもしれない。
――草の上から腰を上げようとした瞬間、いきなりヒトの気配。左隣に腰を下ろし、両膝を抱え、その膝のあいだに顔を埋め、泣き出した。小柄な少女だ。少女――だから、邪気がないから接近に気づかなかったのか。小学校にまだ上がっていないくらいではないか。少女はしくしく泣く。かまってほしいというわけではなさそうだが、唐突に隣で泣き始めたわけだ。その理由を訊かないわけにはいかないだろう。そも少女なのだ。最低限、家に送り届けるまではしてやる必要がある。
「どうした少女。なにかあったのか?」
「少女じゃないもん。エリナだもん」
「失礼した。エリナ、泣きっぱなしでどうしたんだ?」
「おにいちゃんっ!」エリナが顔をバッと上げた。「抱き締めて、おにいちゃん! エリナはいま、とても悲しんでいるの!」
悲しんでいるのは、見ればわかるが……。
エリナは立ち上がり、俺の右腕を「うーん、うーん」と一生懸命に引っ張る――立たせようとしているわけだ。止むを得ず立ち上がる。腹にぼふっと抱きついてきたエリナのことをそっと抱き締めてやった。頭を撫でてやる。この綺麗な髪の柔らかさは少女にしかあり得ない。尊い真理だ。
「なあエリナ、よく知りもしない男に抱きつくなんて真似は二度とするな。悪い大人は一定数いるんだ」
「おにいちゃんはイイヒトだってカクシンしたからこうしてもらってるの」
「わかった。理解した」俺はまだ高い空を見上げ、口元を優しいかたちにした。「さあエリナ、なにがあったのか、それを教えてもらっていいか? ぜひとも力になりたいと考えている」
*****
飼っていた――正確に言うと飼い始めたばかりの猫がいなくなってしまったらしい。保護猫であり、まだ小さいとのこと。それはもうかわいがってかわいがって、そんな最中にいきなりいなくなってしまった――。原因はなかば判明しているようだ。暑い日は暑い、そんな盛りである。エリナの母親は家中の空気を入れ換えるべく窓や戸を開け放ったらしい。玄関の戸も例外ではなかった――。逃げ出した猫はぶち猫なのにトラというらしい。痩せっぽちだから「虎のように強くなってほしい」との願いが込められているようだ。涙ぐましい話ではないか。
一緒にトラを探してやることにしたわけである。
「トラには土地勘がないんだな?」
「土地勘ってなあに?」
「この辺りのあちこちには詳しくはないんだなと訊いている」
「それはそうだよ。だってお外に出るのは初めてなんだもん」
そう、初めてなの……。
エリナはまたしくしく泣き出してしまいそうだ。
「こういうときは信じるんだ」エリナの頭を撫でてやる。「信じなければ、なにも始まらないぞ」
「トラ、酷い目に遭ってたら、どうしよう……」
「妙な想像はするな。必ず見つかる。必ず俺が見つけてやる」
「ほんとうに?」
「ほんとうだ」
――しかし、暗闇に包まれてもそれらしき姿は見当たらず、だからどうしたものかと悩んだのだが、エリナは少女すぎるくらい少女だ。もはやよくよく考えるまでもなく、すぐにでも親御さんに一報をいれなければならない。
「エリナ、お父さんかお母さんに連絡がとりたい」
「エリナ、平気だよ? パパもママもそんなに心配しないから」
その言葉の危うさに、俺は眉をひそめた。
「どういうことだ?」
車が一台通れる程度の狭い道。
ヘッドライトがエリナの悲しげな表情を照らし出した。
「どうせ二人はリコンするの」
「離婚? ほんとうか?」
「うん。だからエリナはパパかママを選ばなくちゃなの」
嘘を言っているようには見えない。
「だったら、どうして猫を? 飼い始めたばかりなんだろう?」
「エリナがねだったの。エリナは思ったの。猫ちゃんが家族の絆を繋ぎ直してくれればいいな、って」
エリナは猫という生き物をえらく期待を寄せているらしい。
それ以前に、大好きなのだろうが。
「トラはそんなの面倒だから逃げちゃったのかな……」
「馬鹿を言え。エリナの猫なんだ。責任感があるに決まっている」
「責任感と嫌になるのとは違うと思うよ?」
小さなくせに、もっともなことを言ってくれる。
「でもな、エリナ。俺はトラがどれだけ嫌がっても、おまえのもとに取り戻してやりたいんだ」
「どうして?」
「決まっている。俺にとっておまえは、すでにかわいい奴だからだよ」
*****
パトカーの赤色灯が忙しなくなってきた。追手がかかったのだと思う。いくらなんでも自分たちの娘――小さな娘がいなくなったのだから、つまるところは必死に探してあたりまえだということだ。幼いエリナにはまだわからないのかもしれないが、愛されていないわけがないのだ、なんだかんだ言っても――と信じたい。
「おにいちゃん、パトカーとかおまわりさんとか、エリナを探しているんだよね?」
エリナは賢いから、エリナ本人もその旨、きちんと理解している。
「いま見咎められると、俺は捕まってしまうな」
「だいじょうぶだよ? エリナ、しっかりセツメイできるもんっ」
「トラを探そう」
「えっ」
「まずはトラだ」
――小さな交差点に差し掛かったときだった。エリナも俺も「あっ」と声を上げた。それは確かに小さなぶち猫だった。エリナが「トラ!」と叫んだ。トラはのんきに交差点をとことこ斜め横断している。交通量はさほどでもないのだが、この日、この時、この瞬間に限って、運悪く、乗用車が突っ込んできた。明らかに撥ねられてしまうコースだ。俺はスクールバッグを放り投げて駆け出した。後ろから「おにいちゃん!」とエリナが叫んだ。車の進行方向に飛び込む。トラを腹部に庇い、俺は車の突進を背中にもろに食らい、吹っ飛ばされたのち、ごろごろごろと地面を転がった。車は走り去ってしまった。まさに轢き逃げだが、まあ良しとした。頑丈な俺の身体はあいにく無傷だ。
クラクションがけたたましく響く。エリナが信号を無視して近づいてきたのだ。速やかに歩道へと移動。エリナにトラを抱かせてやる。トラは人懐っこい、まるで笑顔のような表情を浮かべ、「にゃあ」と鳴いた。
これにて一件落着――というわけにもいかない。
一時のこととは言え、エリナの身を預かってしまったのだ。
両親に説明する義務はあると見たほうがいい。
*****
エリナの自宅に連れていってもらった。玄関に制服警官がいて、両親と思しき二人が対応していて、彼らはエリナを認めると目を丸くした。まさにびっくりしたという表情。誰よりも先に口を開いたのはエリナだった。俺の前に立って「ダメ!」と両手を横に広げたのだ。なにが「ダメ」なのかというと、それは俺を犯人扱いするのが「ダメ!」だということだろう。俺はエリナにトラを抱かせてやった。トラはやっぱり嬉しそうに「にゃあにゃあ」鳴く。「ほら、トラは帰ってきたんだよ? パパ、ママ、トラは帰ってきたんだよ?」、エリナは満面の笑み――なのに泣いている。
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ダイニングテーブル。
俺の隣にはエリナがいて、向かいには両親の姿。
結果的に、学生手帳を提示するまでもなく信じてもらえた。エリナが全部説明してくれた。上手な説明だった。ほんとうに利発で利口な少女だ。――エリナの膝の上ではトラがすやすや眠っている。無邪気な冒険は彼に多大なる疲労をもたらしたのかもしれない。
「まどろっこしいのは嫌いなので、率直に申し上げます」俺は低い声で言う。「エリナをお渡しいただきたい」
両親はびっくりしたような顔をした。
エリナも驚いたようだった。
「高校生のガキごときがなにをとおっしゃるかもしれませんが、実現することは決して不可能ではありません。養子です。私の妹に迎えたい」
父親が目を釣り上げた――ああだこうだほざく。言葉遣いは比較的丁寧なほうだが、内心では罵倒しまくりたいことだろう。
「でしたらご両親、お二人にお伺いしますが、そこまで失うのが嫌なのであれば、どうして娘さんのことを第一にお考えにならないんですか? 伺いましたよ? 子は
「そ、そんなの綺麗事だ。私だって、妻と何度も話し合って――」
「ですから、だったらどうして猫を飼ったのかという話です」
「猫くらい、いいだろう? べつに、大した金がかかるわけでもないし」
俺は最近ではいっとう怖いであろう目つきでもって、父親を睨みつけた。
「いまの発言は取り下げろ」
「は?」
「訂正しろと言ったんだよ、このクズのカスのゴミ野郎がっ」
「なっ」
「エリナに罪はない。トラにもだ。悪いのはあんたたちだ。そして、俺なら一人と一匹のことをあんたらよりずっとうまく愛することができる。確信だよ、これは」
「な、なにを偉そうに! 子どものおまえに大人のなにがわかって――」
母親が「あなた!」と大きな声を発し、両手で夫の左腕にすがりついた。
「悪いのは私たちよ。その意見だけは、一致したでしょう?」
「だ、だが――」
「私はやり直したい。あなたのこともエリナのことも愛しているから」
愛している。女房がそう言うということは、きっと夫に他の女ができたとか、もっと言うと夫の不倫のような関係が、不仲の原因なのだろう。
俺は大きく息を息を吐いた。
「俺はなにもあなたがたからエリナを奪いたいと言っているわけではありません。そのへん、おわかりいただけると助かります」
すると口を利いたのは母親だった。
「チャンスを、もらえない……?」
「チャンス?」
「ええ、そう。エリナのこと、大事にするから、ううん、いまよりずっと、大切にするから。ね? あなた、そうよね?」
自らの妻にそう訊かれた夫は、嗚咽をこらえるようにして、右手で口元を覆った。娘に――エリナに「パパ」と呼びかけられると、いよいよダムが決壊したように、涙を溢れさせた。
もはやエリナを含めたエリナの家族はなにも言わなかった。
それで良いのだと思う。
速やかに俺が辞去したことは言うまでもない。
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さまざま考慮してエリナの母親には連絡先を教えていたのだが、後日、LINEでメッセージが送られてきた。
『エリナが会いたいと言っています。ごめんなさい』
「ごめんなさい」というあたりに誠実さを感じ、俺はエリナと会うことにした。
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――ホームグラウンドと言っていい河川敷――短い草の上でエリナと会った。エリナ一人での行動を心配したのだが、右を振り向くと少々離れたところにきちんと母親が立っていた。とても丁寧なお辞儀をしてみせた。大人に頭を下げられるとほんとうにバツが悪い。
俺の左隣に座ったエリナはぐいっと身体を寄せてきた。
「ぶち猫のトラは元気だよ?」
やっぱり「ぶち猫のトラ」。あるいはそれは俺を笑わせるためのとっておきのジョークだったのだろうか。だとしたら、やられたな。実際、俺は笑ってしまい、エリナの左の肩を抱き、エリナのことを「きゃっきゃ」と喜ばせてしまった。
「おまえに訊くことじゃない。でも、訊きたい」
「おまえじゃないよ、エリナだよ?」
「ああ、すまない。おまえの言うとおりだ。エリナ、家族はうまくいきそうか?」
するとエリナは「おにいちゃんは偉そうだよね」と笑った。俺は少々戸惑い「偉そうか。そうなのか……」となかば残念な思いに駆られた。
「あはははは」
「なにがおかしい」
「だっておにいちゃん、マジメすぎるんだもん」
「真面目であることだけが、俺の唯一無二の美点美徳だと考えていたんだが……」
ありがとう。
ありがとうね?
そう言って、エリナは左腕になおいっそう絡みついてくる。
「ほんとうによかったの。私はほんとうによかったの。だからありがとうね? おにいちゃん」
エリナが涙を流し始めた。泣いている彼女の耳元で「なにも心配するな」とささやいた。
芽生えていたのは間違いなく少女への「愛」だった。
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