26.香田がボストンに引っ越すという
*****
風間はジムに出掛けたらしい、プールに泳ぎに行ったらしい。桐敷がついていったようだ。2-A――クラスの掃除当番を終えて部室を訪れると、「そこにはサキの対抗心があるの」と香田が教えてくれた。
「香田はどうして一緒に行かなかったんだ?」
「いろいろあって」
「気になるな」
「気にしないで」
香田と並ぶ格好で椅子に座り、俺はスクールバッグから文庫本を取り出した。最近、わざとらしいくらいに涙を誘う愚かしい作品にハマっている。ほんとうに馬鹿な話だ。死ねとまでは思わないが自分自身に対して多少ならず幻滅している。ヒトを「人生、綺麗事ばかりじゃないぞ」と鼻で笑ってやるほどの人生経験が俺にはない。だからこそ、泣かせに来る作品が相手だと込み上げてくるものがあったりもする。要はまだまだ純粋だということだ――めでたい事実と言えなくもない。そういえばむかし、飼い猫が眠るように逝ったとき、めちゃくちゃ涙をこらえたことがあった。ぐしゅぐしゅと鼻を鳴らしたら負けだと思った。誰になにを負けるのか、そのへん、まったく不明だ。だが、そこには俺にとっての「根性論」なり「男の子論」が働いたのだと思う。
文庫本を開いたところで、香田が「神取」と声をかけてきた。香田が呼びかけてくる。間違いなくレアケースだ。雪でも降るんじゃないか? ――とはレガシーなジョーク。
「なんだ? 話があるならなんだって聞くぞ」
「優しいね」
「おまえが相手だと優しくもなる」
「他意は?」
「まったくない」
「じゃあ、聞いて?」
香田は話した。両親の、特に母親の意向があり、ビジネス上の利便性を考えた上でボストンに引っ越す計画があるのだという。計画自体は以前からあったようだ。
なかば答えはわかっているからこそ、確認の意味で「香田は引っ越したくないんだな?」と訊ねた。香田はこくりと頷くと文庫本を机に置き、ついに俺に顔を向けてくれた。美しすぎる顔、空色の瞳。まったくもって、ぞっとする。
「ママは強く引っ越すって言う。わたしは引っ越したくない。この場合、神取ならどうする?」
香田のほうへと椅子を向けた。
「簡単だ。あんたらは勝手にやってくれ。俺は残る。そう言うだろう」
「でも、学費とかは――」
「金銭面は大した問題じゃあない。なんとでもなる。ところで」
「なあに?」
「香田、おまえ、その件、まだ風間には話してないんだな?」
「……うん」
香田。彼女だってときには悩みまくる、あたりまえの少女だということだろう。愛おしい限りだ。
「引っ越し、したくない」香田は俯いた。「したくないの……」という声は沈んでいる。
「もしそうであるなら、なんとかして譲歩を引き出すべきだ。お母上だって、おまえが望まないというのであれば、少しくらい考えるところはあるだろう。問題は、なにを条件に話を進めるかということだが――」
「……条件、じつはある」
「ほぅ。なにをすれば思いとどまってもらえるんだ?」
それは……。
言いにくそうにしたのち、香田は顔を上げた。
「ママは骨法と暗殺術の達人。前職は殺し屋だった」
「にわかには信じがたい話だが、まあいいだろう。――で?」
「ママは自分に勝てば、私の現状を容認するって言ってる」
香田は間違いなく強い。だが、彼女に格闘のいろはを叩き込んだニンゲンがいるのだとすれば、話を聞いている限りだと、それは間違いなく母親だ。分が悪い。どう考えたってそうなる。師匠越えは簡単なことではない。
「香田」
「なあに?」
「他意なく言うが、お母上のほうが上回るわけだ。そんなこと、お母上だってご承知だろう。自明の理なんだからな。ならばなぜ、そんな無理難題を吹っかけてきたのか――あるいは別にもう一つや二つ、許しを得る方法があるんじゃないのか?」
ぱちくりと目をしばたいた香田。
「どうしてわかるの?」
「わかるさ、それくらい。俺も馬鹿ではないんでな。重要なのは論理性だ」
香田は右手を胸にやり、「神取になら話せる」と言った。
「ママはね、自分に膝をつかせるニンゲンを連れてくることができたら……そうとも言うの」
「とことん戦闘的だな、お母上は、剣呑がすぎるぞ」俺は肩を落として吐息をついた。「やはり、風間に相談するわけにはいかなかったのか?」
「れなは強いから、ママくらい強いから、きっと馬鹿みたいにピュアな潰し合いになる。そんなのわたしは見たくない」
ま、それはそうだろう。
にしても、自身の母親と親友とが戦う必要性が生じかねないとは。
結構狂っているなという思いを新たにする次第だ。
「話を戻そう。どうしてプールに行かなかったんだ? 本件を打ち明けたかったからか?」
「そうなればいいなとも思ってたけど……見て? ママの美学……」
香田は立ち上がり、バイクスーツの上半身をはだけると、ゆっくりと一回転した。傷と痣だらけで、たしかにこれでは水着にはなれないなと思わされた。ママの美学――徹底していてすばらしい。拍手したくなる。
「香田」
「なあに?」
「なんとかしてやる」
「言い切れるの?」
「これまでの人生において、なんとかならなかったことなどないからな」
傲慢な響きを持つその一言は、香田の胸にどう響いただろう。
*****
アイルランド系なのだという。香田のお母上がそう話してくれた。なのにメインディッシュはボルシチなのだ。ダイニングテーブルについている俺は、なかなかうまそうではないかと感心した。俺の隣では香田が、なんとあの香田が縮み上がったように身をすぼませている。意外な場面だ。目に焼きつけておいて損はないと断言できる。
――速やかに話に移ろう。
促されるままに着席してしまったが、あいにくのんきにボルシチをすする気分じゃあない。
「お母上」
「カタいわねあなたは。さっきも言ったとおり。レイラでいいのよ」
「ではレイラさん、俺は――」
「わかってる。リリの『刺客』なんでしょう?」
刺客。その言葉を聞くや否や香田は顔を上げた。困ったような、あるいは慌てふためいたような表情。なにかを訴えたいようにも映る。空色の瞳をいったん俺に寄越すと、またお母上のことを見た。
「ママ、これは間違い。これは私の恋人。だけど別れるから」
この期に及んでなんだかとんでもないことを言ってくれたように思う。ここに来てなんたる物言いか。が、そこにあるのはやはり切実さと優しさでしかないのだろう。
――と。
「いいわよ、坊や。ついてきなさい。やりそうな雰囲気はあるから、やるんでしょう。リリをボストンにやりたくないなら、私をやっつけてみなさいな」
いろいろと問題を孕んだ事案であるようにしか思えないが、やるべきことだけははっきりしている。
*****
香田家地下。
いままで拳を交えてきた中で、お母上はまるきり群を抜いていた。お母上には遊んでいる気配すらある。右のローキックから懐に潜り込んで左のジャブと右のストレートばかり打ってくるのだ。まるっきり同じテンポなのに、それがわかっていても避けられない。ガードすることくらいしかできない。そのうち、食らった。右の肘打ちからの左のフック。久しぶりの感覚――効いた。歯を食いしばって踏ん張る。いろいろヤバいが絶望するにはまだ早い。
「神取、もういいっ」香田にしては幾分大きな声だった。「わたしはもういい。ボストンに行くっ」
「だから、それは不本意なんだろう? 風間と一緒がいいんだろう?」
「それは……」
「黙って見てろ」
お母上は「男らしいことね」と不敵に言って、小さく肩をすくめてみせた。
「ハンデよ。これから一分以内に私に打撃を浴びせられたら、あなたの勝ちにしてあげる」
「動かないということですか?」
「正確には受けに回ってあげるということね」
俺は握り締めていた拳を解いて、それから両手を上げた。
「無抵抗のニンゲンに襲いかかる趣味なんてない」
「どういうこと?」
「あなたが一分待つというなら、俺は一分以上待ってやろうという話です」
お母上の表情がきょとんとなった。いままで優雅で冷笑的で攻撃的でしかなかった彼女が、興味深そうに目を丸くした。
「一分後、それ以降に待ち受けているのはあなたの死なのよ?」
「本件における最適解を言語化します」
「言ってごらんなさいな」
「俺は香田のことが嫌いじゃないんですよ」
例によって右のローキックが飛んでくる。左のふくらはぎで受け、次に備える――右の肘打ちからの左のストレート。いずれもうまく防ぐことができた。チャンス。ここしかない。だが、ここぞとばかりに突き出した右の正拳はヒットしなかった。当然だ。俺が顔の手前で止めたのだから。
「振り抜けば当たったかもしれないわよ?」
「それはないでしょう?」
「かわいいわね、あなたは。そういう子、おばさんは大好きよ」
「おばさん? あなたが?」
「ええ、冗談よ。レイラって呼んで」
俺は拳を引き、一歩後ずさり、それから「香田は置いていってください」と頭を下げた――できるだけ深々と。
お母上は「ボルシチ、食べて行くわよね?」とにこやかに言った。
*****
翌日の放課後、掃除当番の役割を果たしてから部室を訪れると、誰もいなかった。黒板に大きく「今日もプールでーす!!」とピンクのチョークで記されていた。
そうか。
今日は香田も行ったのか。
きっと、うまく行ったということなのだろう。
自席に座り、窓の外を見上げる。
今日も俺を見下ろしてくる、晴天に浮かぶ白雲。
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