2.すずめ

*****


 俺には付き合っている女子生徒がいる。同じクラスの女性で、名はすずめという。恋人として許容した理由は簡単だ。顔の造りも身体の発達具合も問題ではなく、名前が可愛らしいからということだけで己の中で筋が通った。性格は最低の最悪だ。スクールカーストの上位――あるいはトップという時点でお里が知れる。だが、俺は特にその旨、気にしなかった。俺に向けてくれる笑顔は本物だった。ベッドの上で喘ぐ様子も本物だったように思う。しかし、もうお別れだ。俺は転校を決めた。つまるところ、すずめを見捨てるのは困難な判断ではなかったということだ。


 放課後の2-A。


「転校って、はぁっ!?」すずめは切れ長の目をさらに鋭くした。「なによ、それ。いよいよ教室でセックスとか思ったのに、なによそれ!!」


 下品なセリフで捲し立てるのはどうだっていい。ただ、相手を蔑むような金切り声は好きにはなれない。


「すずめ」

「なによ!!」

「おまえには俺よりもっとふさわしい男がいる。だから、そうしたほうがいい」

「私があんたのこと、本気で好きじゃないって言うの?!」

「そうだ」

「そんなこと!!」

「そんなこと、あるんだよ」


 するとすずめは「……あんたは誤解してる」と低く濁った声を出して。それから「私はあんたが好きなの!!」と叫んで細いカッターナイフを取り出した。ブレザーの右ポケットにいつも忍ばせていることは知っていた。臆病なのだろう。なにかの折に攻撃できるよう、あるいは自らを守れるよう、携帯しているのだ。


 ――俺は微笑んだ。


 すずめがカッターナイフを自らの手首や首筋に押し当てたのなら、俺は考えを改めていたことだろう。ただ、素直に、きっちりと、すずめは俺に向かって突っ込んできてくれた。制するのは簡単で、ナイフを叩き落とし、腰に右腕を回し、ぎゅっと抱き寄せてやる。すずめはぽろぽろ泣き出してしまった。


「あのね、雅孝」

「なんだ?」

「あたしね? じつはね? ほかに好きなヒトができたの」


 俺は少しだけ、目を見開いた。発言があちこち行ったり来たりととっちらかるのはいつものことだ。すずめの話はいつも脈絡がなく、突拍子のなさを含んでいる。俺はすずめのそんな「女の子らしいところ」については興味深いと感じていて、だから一緒にいることも良しとしていた。


「あんたは私にはもったいないの」

「そんなふうには思わないが、良かったじゃないか」

「そんなことないよ。そんなの、ダメじゃん? だから、あんたを殺して、私も死のう、って……」

「幸せになってくれ」

「えっ」

「どうか幸せになってくれ」

「……ねぇ、雅孝。最後にキスして……?」

「するわけないだろう?」

「だよね」


 すずめは笑ってみせてくれた。



*****


 父に河川敷に呼び出された、水曜日の十七時のことである。仕事があるはずなのだが――俺は細かいところまでは知らないのだが、父なる男は高給取りだ。でなければたびたびシャンパンを空けたりはできないだろう。そうでなくとも高級外車とかクルーザーなどと――。


 父は先に来ていて、短い草の上に腰を下ろしていた。「おう、まあ座れ」と父は笑みつつ言い、俺は指示に従った。父の隣に座った。


「いろいろ済ませてきたか? おまえのことだ。恋人くらい何人もいたんだろう?」

「ほんとうにそんなふうに思われているのであれば非常に心外だ」

「違うのか?」

「ああ。たった一人だけいて、その彼女にはほかに好きな男ができたそうだ」


 父は大笑いした。


「あっはっは! そうか! 雅孝、おまえはフラれちまったのか!!」


 べつに腹は立たないし、その事実のどこが悪いのかもわからない。


 父は両手で腹を抱えて一通り両足をばたつかせたのち、俺のほうを見た。


「なあ、雅孝、おまえはどうしてフラれたんだと思う?」

「決まっている。俺に魅力がないからだ」

「それ、悔しくないのか?」

「悔しくはないし、この先もそう感じることはないだろう」

「だったら、おまえはかわいそうな奴だ」

「父さんならそう言うとは思ったが」


 右のデコピンを食らった。

 避けようとおもえば避けられたのに――。


「とはいえ、俺は責任を感じてる。母さんもだ」

「それはもう聞いた。だから先を問おうとも思わない」

「ほらな。おまえはなんだかんだで優しいんだ」

「俺は父さんにも母さんにも感謝している」

「おまえはとびきりだ。とびきりだからこそ、その人生もとびきりであっていいはずなんだよ」


 父が言わんとしていることはわからなくもない。

 ただ、その意見を受け容れる必要はないと考える。


「転校はする。現状、それだけで十分だろう?」


 父がにこりと笑った。

 見たこともないような穏やかすぎる微笑だった。


 父が左腕を回して俺の左の肩を抱いてきた。

 なんの意図があるのかと思っていると――。


「俺たち、スキンシップは多いよな」

「そうだな」

「そして、それがお互い、嫌じゃない」

「そうだな」

「ただ父さんは思うんだ。現状、おまえになにも与えてやれていないんじゃないかってな。仮にそのとおりだとするなら、それはとても罪深いことだ」

「だから、そんなこと――」


 おまえは全部、父さんより上だ。

 父はそう言った。


「さすが、俺と母さんの息子だ。俺たちが望んだとおりの――いや、俺たちが望んだ以上の存在がおまえなんだ。でも、おまえには、ガキには絶対的に足りないものがある。なんだかわかるか?」

「経験だろう?」

「そうだ。だから、できるだけ、あるべき方向くらいは示してやりたい。それすら罪深いか?」


 そんなことはない。

 父もそれくらい、わかっている。


 俺はすっくと立ち上がった。


「父さん。会社に戻るのか?」

「戻らんさ。俺は偉いからな」

「だったら帰ろう。母さんの顔が、妙に見たい」

「明日は内見だ。どうする?」

「明日は空手だ」

「二時間やそこらだろう」

「いや、それ以上の時間、道場にいることにする」

「どうして?」

「なんとなくだ」


 そう。

 なんとなくだ。

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