第38話 モンスター

 後日、私とルーファスの不本意な謝罪と懇願のあと、あの音声を使わないで続けるという案にピアジェは渋々OKを出した。代わりにルーファスがピアジェ隊長の雰囲気にならないように気をつけながら、台詞を変えた隊長役の声を吹き込む。


 その後も公演は盛況だった。グアテマラ、ベリーズを巡ったあとは連絡船に乗り換え、キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルトリコなどのカリブ海の島々を1ヶ月がかりで巡る。


 人々は傘回しや鞠ジャグリングをする正体不明、性別も不明の和装のクラウンに熱狂、心酔した。


 そのうち私は紙風船で傘回しをしながらの綱渡りを習得した。ハイチで披露したときは大喝采が起こった。


 子どもたちにバルーンアニマルを配る代わりに、雑貨屋でまとめ買いした紙風船を配った。この紙風船が思いの外人気を博し、大人でも欲しがる人がいるほどだった。


 カリブ海で紙風船の在庫は尽き、私はルーファスに頼んで例の日本雑貨屋に発注してもらい、次の公演地であるアメリカのフロリダまで送ってもらうことになった。


 サーカス大国であるアメリカ公演は2か月を要する。その頃には季節は11月半ばになっていた。


 ピアジェの方針に業を煮やしたクリーとシーザー、ヘイリーなど10名ほどの団員とスタッフが辞めたのは、アメリカ公演が始まる前のことだった。


 私たちの制止の声も彼らの耳には届かなかった。彼らは新しいサーカス団を作るとだけ言っていなくなった。サーカス団としては手痛いことだった。


 フロリダ公演は盛況だった。私の和装クラウン詩はたちまち人気を博し、テレビ局や新聞、雑誌も取材に来た。


 この休みの間にマスターした、鞠を帽子に隠して桜吹雪に変えるという手品を披露したために『桜のクラウン』、もしくは綱渡りの前の" Ready? "という掛け声を私の小柄さと掛け合わせ、" リトル・レディー "という渾名で呼ばれるようになった。子どもが嫌いというキャラクターながら子どもたちからも人気が出て、テントの外で私の姿を見るなり子どもたちが名前を呼んで駆け寄ってくるようになった。


 サーカスの集客は倍になり、これを好機と見たピアジェは急遽午前、昼過ぎ、夜の3回公演に切り替えた。団員たちからは不満の声が上がったが、鬼のような利益第一主義の男が考えを変えるはずがなかった。


 知名度が上がり称賛を受け嬉しい反面、違和感を感じ始めていた。クラウンを演じることは楽しかったけれど、詩を演じれば演じるほど自分自身が分からなくなっていった。


 注目を浴びながらのショーへの強いプレッシャー、怒涛の場越しのあとのショー、その数日後にはまた場越しを繰り返さなければならない過密なスケジュール、ピアジェに毎日のように怒鳴りつけられ足蹴にされ、残酷で非道な動物の虐待を目の当たりにし、辛いときも悲しいときも人を笑わせなければいけない状況。葛藤、混乱、怒り、疲労ーー。知らず知らずのうちに私の精神は蝕まれ追い込まれていった。


 眠れなくなり、不安を紛らすためにアルマンドに処方された睡眠薬に頼るようになった。だがどういうわけか薬が効いている気が全くしない。やたら甘い味がするだけだ。薬の量は増え、体調は悪くなるばかりだった。

 

 サーカスに熱狂する一方、アメリカは他国に比べサーカスの動物利用に対して厳しかった。ルーファス曰くアメリカにあった最大のサーカス団も、一番人気のショーであった象の曲芸に対して批判が高まって、象を使ったショーを中止せざるをえなくなった。それによって興行収入が激減し廃業に追い込まれたのだという。


 そのような背景もあってアメリカは諸外国以上にサーカスの動物利用に対して敏感だった。私の取材の際に動物たちの様子が映され放送されたことが批判のきっかけとなり、動物をショーのため狭い列車の車内に閉じ込め連れまわし、見せ物にするのは虐待だという批判が相次ぎクレームも来るようになった。


 ピアジェはこの思うようにいかない事態に苛立ちを募らせていた。


 悪いことというのは立て続けに起きるもので、次のジョージア公演を前にしてトムが肺炎に罹って入院してしまった。ホタルも牧場に難産の牛がいるが主治医が休診だから来てくれないかと連絡を受けて駆けつけることになった。


 だがアメリカのほとんどの州ではサーカスの動物利用が禁止されているため、動物ショーはなしになる。そのためトム不在の中興行は延期されることなく続いた。


 トムとホタルのいない間、動物たちに何か起きなければいいなという私の心配は別の形で的中することになった。


 ジョージアでの2日目の夜、私は動物たちの様子を見ようと動物車に向かった。するとコリンズと馬たちのいる車両からバチッ、バチッという鞭の弾ける音と、ギャー、ギャーとけたたましい叫び声が聴こえるではないか。嫌な予感がする。


 車両の扉を開いて中に入る。檻の中には団長がいて、コリンズを鞭で何度も殴りつけていた。逃げ出そうとする彼の首根っこを押さえつけ、床に叩きつけて鞭で殴る。あまりのことに言葉を失い、これまでにない激情にも似た激しい怒りが湧き出してきた。


「辞めろ!! 彼に触れるな!!」


 ピアジェの身体を横から張り倒し、コリンズを抱き上げる。コリンズの腕やお腹に痛々しい傷がついていて、泣き出したいほどの感情に襲われ全身が震えた。


「技の調教をしてやろうとしたら、こいつが全然言うことを聞かず、しまいに俺の腕を齧りやがったんだ!! この馬鹿猿め!!」


 ピアジェが私の腕から再びコリンズを奪おうとしたものだから、私はピアジェの腰に下げられた鍵を奪い、檻から逃げ出し鉄扉を閉め中に男を閉じ込めた。


「おい!! 何をする?! 出せ!! こんなことをして、どうなるか分かってるのか!!」


 怒り狂った男は扉を拳で殴りつけながら檻の中で喚き散らしている。


「この悪魔め!! お前に動物に触れる資格はない!!」


 私はコリンズを自分の部屋に連れて行った。ミラーが何事かと訊いたので事情を話したら、「酷いことをするな、親父も。彼は怪我をしてるんだろ? 手当てをしてやらなきゃいけないんじゃないか?」と心配そうに尋ねた。


 早くホタルに帰ってきてほしい。明日の朝には来ると言っていた。コリンズを一時たりともここに置いておきたくない。


 ミラーがルチアを呼んできた。彼女はコリンズの様子を見て泣き出してしまった。怯えたように震えていたコリンズは、安心したようにルチアの腕にしがみついた。


「かわいそうに、今手当てをしてあげるわ」


 ルチアはすぐに救急箱を開いて慣れた様子でコリンズの手当てをしてやった。


 コリンズはひとしきりルチアに甘えたあと、ルチアの腕の中で赤ん坊のようにすやすやと眠り始めた。ピアジェの標的となり、理不尽に痛めつけられたコリンズが哀れだった。


「ピアジェの奴め……許せないよ。どうして動物たちにこんな酷いことができるんだ? アイツには心がないのか?」


「パパは今どこに?」


 ルチアが聞いたので「檻に閉じ込めておいた」と答えたらルチアとミラーは吹き出した。


「一晩あそこに置いとくか」


 ミラーが言い、「ずっとあそこでいいよ」と私が言う。「賛成」とルチアも同意した。


 翌日ホタルが帰ってきたので事情を話したら、彼女は悲しげにため息をついて言った。


「前に、前任者から私宛に荷物が届いてね。ビデオテープにピアジェの前の動物虐待の様子が録音されてた。コリンズだけじゃなく、象や馬たちにも……」


「何てことだ……」


「10年以上前になるわね。トリュフの父親のハーレイっていう象がいたらしいの。すごく穏やかで賢い子だったそうなんだけど、ピアジェに虐待をされてたらしくて……。ずっと耐えてたけどある日公演の最中に暴れ出して、テントを逃げ出して怪我人が出た。結局ハーレイは駆けつけた警官たちに400発の銃弾を浴びせられて死んだ」


「そんな……。酷すぎるよ」


 あまりにも悲しい過去に涙を堪え切れなかった。純粋な動物が非道な人間の玩具となっていたぶられた挙句、最後には死んでしまうなんて。


「アイツはモンスターよ。あんな奴を野放しにしておけない」


 ホタルは私にある案を打ち明けた。


 ロサンゼルス公演の前、事件は起きた。ピアジェの悪行ーー動物虐待と団員へのパワハラ動画が流出し、ニュースで報じられたためにアメリカ国内は大きな騒ぎになった。やがてその事件は国外にも波紋を呼んだ。


 アメリカでの批判は止むことはなく、日に日に大きくなっていった。


 ロサンゼルスでは動物愛護団体などの運動家たちが連日サーカス団の団長の動物虐待に対してデモを起こし、動物を列車で連れ回していることへの批判も続出した。サーカステントの外で『動物虐待やめろ!』『サーカスの動物ショーは、動物の尊厳を傷つけている』『出ていけ!』などと書かれたプラカードを掲げて抗議する人間たちもいた。これはニュースにもなり、大きなムーヴメントになってアメリカ全土に拡大していった。デモが各地で起き、サーカス団は批判を浴びた。批判の矢は主にピアジェに向いた。


 ピアジェの代わりにテレビ局のインタビューに応じたルーファスは、ピアジェの所業を沈痛な面持ちで詫びたあとで、「大切な動物たちを守れなかったのは私の責任でもあり、本当に申し訳なかったと思っている。今後は動物たちの管理や心のケアを徹底したい。動物をショーに出し連れ回すことへの批判があるが、動物たちは皆野生動物じゃない2世や3世だから自国では法には触れない。移動の際も健康状態に気を配り、ちゃんと餌もあげて身体を洗ってやったり世話もしている。列車にすし詰めにするわけではなくてちゃんと外にも出している。虐待には当たらない」


 12月の真冬でもデモ団体が昼夜問わずテントの周りに座り込むため、ただでさえ眠れないのが余計に眠れなくなった。アルマンドのよこす薬は相変わらず全く効かないし、私の健康と精神状態は最悪だった。

 

 怒りに支配された団長はデモ団体を怒鳴りつけ、スマートフォンを向け動画を撮ろうとした1人の女性を殴りつけた。その動画もまた拡散された。


 精神を病んだ団長は睡眠薬と酒に逃げるようになった。


 結局ホタルとトム、ルーファスの会合により、アメリカとそれ以降公演予定の国々での動物の使用はしないことになった。できるはずもなかった。


 動物たちは一旦イギリスに帰され、トムの弟の運営している動物園に一時的に預けられることとなった。トムとホタルは離脱して一緒に行くことになった。


 動物たちのショーがなくなることに寂しさを感じたものの、ピアジェの餌食にならなくて済むことに安堵してもいた。

 

 波乱の中アメリカ公演は終わったものの、問題はまだ残った。


 スタッフが半分に減り、ケニーの業務量は増えた。連日の残業とピアジェからの罵倒の数々による精神的苦痛で頬は前以上に痩け、目は光を失い死んだ魚のようになった。アルマンドに安定剤を処方されているが、例によって効いている気配がないらしい。


 ケニーは体調を崩して寝ていることが増えた。そのたびにピアジェに叩き起こされ、ゾンビのように青い顔で身体を引きずって事務所に向かう。


「大丈夫?」と尋ねても伯父は「ああ」と虚ろな目で力なく答えるばかり。前は困ったことがあるたびにケニーに相談をしていたけれど、言葉を交わすことすら難しくなった。


 ケニーはこの頃、ホタルに前に貰ったという『安心丸』という小瓶に入った粒状の漢方薬を勇気を出して飲み始めたそうだ。


「こっちの方がアルマンドの薬よりずっといいや」というから私も試しに2粒貰って飲んだら、不安感が少し和らいで、その日はいつもより長く眠れた。


 やがて、皆から批判を向けられたピアジェは部屋にこもることが増えた。外に出ても批判の的となるしかない彼は自室で酒と睡眠薬に溺れ、ほとんど死んだように寝ているらしい。これはルーファスの情報だ。団員たちからも子どもたちからも愛想を尽かされ、動物たちにも怯えられ、今やピアジェの部屋を訪れるのはルーファスのみになった。


 ルーファスだって好きで行っているわけではない。すっかり役立たずの飲んだくれと化したピアジェの業務を引き継がざるをえなくなったために、1日数回業務内容の確認と許可を取りに行っているのだ。今や団長の役割もルーファスが担っている。


「ああなるともう廃人だな」とルーファスはため息をついた。


 ルーファスが代理のリーダーとなったからか、はたまた安心丸のおかげか。カナダ公演が始まる頃にはケニーの負担は大分減り、サーカス団の空気も大分良くなった。


 団長の動物虐待問題への風当たりは以前として強かったものの、カナダ公演は順調に進んだ。しかしながら、私の心はまだ不安と疑問、プレッシャーによって押し潰されそうなままだった。


 私は何者なのか? という疑問は日が経つごとに大きくなり始める。詩を演じているネロ、ネロを演じているアヴリル。最初は曖昧だったその境界がこの頃は強くなりすぎて、自分自身ーーアヴリルの感情や考えまでもが本当は誰のものなのか分からなくなりそうになるほどだった。


 リングの上にいる私は皆を楽しませることに特化した道化だ。それでいいと、それこそが私の生きる道だと思っていた。今もその考えは変わらないけれど、自分が自分でなくなるような感覚と苦痛は日に日に増してくるばかりだった。このままではアヴリル自体が消えてしまうんじゃないか? 私は前の心に戻れるのか? それを考えていたらどこまでも憂鬱で救いのないような気持ちになった。


 しかしサーカス団が問題に揺れている現在、私が踏ん張らなければいけない、これ以上皆の築き上げてきたサーカス団の人気を落とし誇りを汚してはならないと自分にハッパをかけ、リングに立ち続けた。

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