第36話 デビューへ
クラウンデビューはグアテマラのグアテマラ・シティでの公演の日に決まった。それまで残された時間は1ヶ月余り。
相方のルーファスとスキットの脚本をつめに詰め、皆のショーの間を繋ぐためのジャグリングや傘回し、綱渡りなども必死に練習した。
公演の合間にスキットの練習を観てもらえるレベルに漕ぎ着けるまで必死にこなした。その間もピアジェは睨みをきかせているが、ルチアの件が相当応えたのかよほどのことがない限り口出しはしてこない。
自分とは真逆の気質の詩になりきることは所作や言動に気を配るという点で難しかったが、同じくらい新鮮で楽しかった。
練習は休日や観光の時間を返上し夜遅くまでやった。ジャグリングのボールとクラブの基本技は大分押さえられていたので、道具をある物に代えて練習を始めた。
デビューまで1週間を切ったとき、トレーニングルームでクラブジャグリングの練習をやっていたら、後ろから「頑張ってるわね」と話しかけられ驚いてクラブを落としてしまった。
「ごめんなさい!」
ルチアが慌ててクラブを拾ってくれた。集中しすぎて人が来たことにも気づかなかったのだ。
「大丈夫だよ」
ルチアは手に提げていた袋からパックの牛乳とドーナツを取り出して見せ、「少し休憩しない?」と訊いた。
ルチアに連れられ停車した列車の屋根に梯子を伝って上り星空を見た。雨季のコスタリカでこんなに綺麗な星空が見えることは珍しいらしい。
ドーナツをかざし小さな穴から夜空を覗いてみる。
「こうして見ると天窓から見てるみたいで、余計に綺麗じゃない?」
「そうね、すごく綺麗ね」
ふと、私は誰かとずっと前に同じやり取りをしたような気がした。夢の中で? いや違う。感覚があまりにもリアルだから、きっと誰かと本当に話したのだ。
もしかしたらオーロラだったかもしれない。そう思い当たった瞬間、水槽の底に並べられたビー玉みたいに心の奥に沈んでいた記憶が、鮮やかに濃度をもって浮上してきた。
確か中学のときの野外学習のときのことだ。同じ班になった私たちは夜テントを抜け出して、緑の草の茂る丘の上に腰を下ろした。オーロラはタッパーに入れた手作りのドーナツを持ってきていて、1つを私にくれた。木苺ジャムの練り込まれたホワイトチョコレートのかかったドーナツは、木苺の甘酸っぱい風味がきいていて、生地もサクサクしていて最高に美味しかった。
オーロラは右目を瞑り、まだ口をつけていないドーナツを空にかざして言った。
「子どもの頃肺炎にかかって入院したの。病室の天井には四角い天窓があって、夜にそこから見える星を眺めるのが楽しみだった。普通に夜空を見上げるよりも、天窓から見える夜空はすごく綺麗に思える。まるで狭い空間に宇宙が閉じ込められているみたいで」
「あなたは感性がすごく豊かなのね」
オーロラの感じ方は私にはないものだった。彼女はいつも私が思い付かないようなことを言った。ときに突拍子もないアイデアだったりするけれど、ささやかなことを美しいと感動できるオーロラのことが羨ましいと素直に思った。
その話を聞いたルチアは「その子は人と違う感性を持った子なのね、あなたと同じで」と微笑んだ。
「あなたって全然男の人って感じがしない。なんていうか、可愛すぎるのよ」
「そうかい? 可愛いだなんて照れるな」
「ふふっ、そういうところよ」
ルチアのくれた牛乳を一気飲みしたあとドーナツを一口齧り、右目を瞑り夜空にかざしてみる。穴から星空がペンキのように溢れ出たみたいだ。
「オーロラは特別な子だよ、誰も気づかないようなことに気づくんだ。いつもびっくりさせられた。羨ましかったよ、小さなことに美しさや幸せを見つけられる彼女のことが」
「ねぇ、ネロ」
空を見ながらルチアの声を聴いた。
「何だい?」
少し冷たい湿った風がルチアの髪を揺らす。彼女の憂いを帯びた横顔を見る。この頃彼女は元気がなかった。元気がないねと声をかけても、何でもないわと答えるだけだった。
「ずっと考えてたことがあるの。私は……あなたの友達の代わりにはなれないかしら?」
彼女の言葉の真意が図りかねた。ルチアがオーロラの代わり? 私にとっては2人は全く別の人物だ。確かにルチアの雰囲気や眼差しや表情がふとしたときにオーロラに似ていてハッとすることがあるけれど、彼女たち2人を同一視したことはなかった。
「オーロラはオーロラ、君は君だよ。代わりだなんて……」
「それは分かってるんだけど……。あなたの側にいられるなら、彼女の代わりでも幸せだなって」
「それはどういう……」
「そのまんまの意味よ。私、あなたが好きなの」
「えっ……」
彼女の緑色の透き通った目が真剣に私を見たとき、彼女の『好き』の意味を知った。友達としてではない、もっと特別な感情なのだと。
「初めて会ったときから、あなたには特別なものを感じてた。深いところで通じ合える気がしたの。こんな気持ちになったのは初めてよ」
初めての女の子からの告白に嫌な気はしなかった。ルチアはいつも私を献身的にサポートしてくれる。練習していればタオルや夜食を持ってきてくれ、頑張ってと応援してくれる。妹みたいで可愛いと感じるし、とても優しくて良い子だと思う。でも、それ以上の感覚があるかどうかと訊かれたら違う。
「ごめん……ルチア。気持ちは凄く嬉しいよ。だけど僕にとって君は、可愛い妹みたいなものなんだ」
ルチアの頬を一雫の涙が伝う。透明な雫は月明かりに照らされ、あまりに美しく切なかった。
「そう……やっぱりそうよね。望みがないのは知ってた。でも、ただ伝えたかったの」
ルチアが手のひらで涙を拭って立ち上がり、梯子を伝って降りていく。
その背中に声をかけようとしたが、それをしてしまったら余計に彼女の痛みを増幅させるだけだと思いとどまった。
車両に戻ったらシンディに「ルチアが泣いていたけど、何かあった?」と訊かれた。
ことの顛末を話すとシンディは、「ああ、やっぱりね」と答えを予想していたみたいに頷いた。
「彼女、あなたのことすごく好きみたいだったもんね」
「気づかなかったよ、全然」
この忙しく充実しすぎた毎日のせいか、今までルチアの想いに気づくことができなかった。
「罪な人ね、あなたも。あんな可愛い子を振るなんて」
「すごく良い子だと思うし彼女のことは好きだけど、妹みたいなものなんだ」
「なるほどね〜」とシンディはポケットから電子式の水タバコを出して口に咥えた。ふぅっとシトラスとミントの匂いの煙が唇から吐き出される。
「でも仕方ないわよね、無理に付き合ったってお互いに傷つくだけだもの」
「うん……」
「私ね、付き合った人を2人とも亡くしてるのよ」
シンディの衝撃の過去に言葉を失った。『私の前から消えてしまわない人』その言葉が蘇った。
「1人目は中学のとき。初めてできたボーイフレンドだった。目立つタイプではないけど凄く優しくて素敵な子だった。彼のことが本当に好きだったわ。
付き合って一年したときに、彼が突然いなくなったの。二人で映画を観た帰り、私を家まで送ってくれた。『またね』って家の前で別れてそれきり行方不明に……。町中みんなで捜索して、一週間後に川底から遺体が見つかった。暴行されたような跡もなくて溺死って判定された。自殺の可能性もあると言われたけど、信じられなかったわ。彼は死ぬような人じゃないと思ってた。
でもあとから分かったの。彼、小学校の頃虐めに遭ってたみたいで、中学に入ってからもそのトラウマに苦しんでたんだって、彼のお母さんからお葬式のときに聞かされた。私の前では弱いところを見せたくなくて強がってたんだろうって言われた。すごく悲しかったわ、何で話してくれなかったんだろうって。話してくれたら力になれたかもしれない、何かできたかもしれないって悔やんだ。でも今なら分かるの、話さなかったのは、自分の問題に私を巻き込まないための配慮だったんじゃないかって。彼なりの愛だったんじゃないかって。彼はそういう人だったから」
「そうかもしれないね」
言葉が見つからずにいる私にシンディは軽く微笑みかけた。
「17歳のとき、サーカス学校の男友達と恋仲になったこともあるの。クラウンを目指してる凄く面白い人で、皆のムードメーカーだった。いつも言ってたわ、『僕は皆が楽しければそれでいいんだ』って。彼が言うことに私が笑っているのを見て、優しく微笑んでいるような温かい人でもあった。卒業したら結婚しようって言い合ってた。
でも卒業式の夜、彼ってば酔っ払った親友の車に乗ってどこかに行く途中、事故で死んでしまったの。運転していた子は怪我をしたけど助かった。他の3人の友達もね。彼だけが死んだの。彼の親友には何度も謝られた。共通の友達で私にもよくしてくれていたから、恨むに恨めなかったわ。
私思ったのよ、私は疫病神なんじゃないかって。だって、付き合った人が死んでしまうんだもの」
「それは偶然だよ、たまたまそうだったってだけで、君が悪いんじゃない」
シンディはただ悲しそうに笑うだけだった。
「そうね、そう考えられれば楽なんだけど……。私と付き合った人がみんな死んじゃうって考えたら付き合うのが申し訳なくて、失うことがすごく怖くて、素敵な人からアプローチされても断ってしまってたの」
「そっか……」
「あなたももしかしたら怖いのかもしれないわ、誰かと深い関係になることが。付き合えば、自分自身の痛みも恥ずかしい部分も晒さないといけないじゃない。それか、失ったときに傷つくことを恐れてるのかもしれないしね」
彼女の言うことは的を射ている。私はこれまで漠然と自分を知られることに、自分を晒け出した上相手を失ってしまうことに恐怖を感じていたのかもしれない。でも、私が誰かを本気で好きになれない一番の理由はそれではない気がする。
「そもそも、晒したいと思えるような人と出会ったことがないんだ。少なくとも、付き合った人は皆そうじゃなかった」
「あなたを受け入れられるくらい懐の大きな人がいたらいいわね」
「そうだね」
私は重要なことを今までシンディに伝え損ねていたことに気づいた。
「ケニーも前に死にかけたんだ」
「そうなの?」
「うん、自殺未遂をしてね。ずっと引きこもりで、少し前までは死にたい、死にたいって言ってた。だけど今は外に出て少しずつ立ち直ってる。彼は私が知る中で一番優しい男の人だよ、お人好しすぎるくらい良い人だ。きっと君を幸せにしてくれる。君のためなら死なずにいてくれるよ」
「……ありがとう、前向きに考えてみるわ」
シンディは微笑んだ。彼女のこの返事を今すぐケニーに聞かせてあげたいけれど、ケニーは今頃部屋で寝ているだろう。
クラウンノートを書いたあと、部屋のベッドに寝そべって考えた。
前の私なら、告白されたら深く考えずに付き合ってしまっていた。心が純粋で綺麗なルチアと付き合った人はきっと幸せになれると思う。でも今の私に一番大切なのはサーカスで、それ以外の誰かや何かに心のスペースを開け渡すことは今は考えられなかった。恋愛というのは真剣になればなるほどエネルギーが要るものだと思う。
果たして私に全てを賭けて愛せる人など現れるんだろうか。現れたとしてその人を傷つけること、自分を曝け出すことへの恐怖を超えていけるんだろうか。
下のベッドのミラーが寝返りを打つ。「ごめんなさい、お父さん……」と寝言を言いながら。
彼を悪夢から引き摺り出すために、そして自分のネガティブ思考を断ち切るために大声でヨーデルを歌った。
ガバッとミラーが起き上がり、「何だなんだ?!」と驚いた。
「うなされてたから起こしたんだ」
「そうだったのか……。それにしても、もっと別の起こし方にしてくれよ」
「分かった、今度からはビリー・ホリデーを歌うよ」
「『暗い日曜日』のことか? 余計気が滅入りそうだ」
「ルチアが列車の窓から飛び降りようとしたの、君は知ってるかい?」
「ああ、ケニーから聞かされたよ。ルチアを問い詰めて、二度とそんなことすんなと怒ったら泣かれた。アイツは子どもの頃から繊細すぎて、気持ちが不安定なところがあるんだ」
「何となく分かるよ、凄く優しい子だもんね」
ルチアを今日泣かせてしまったなんて言ったら、ミラーは激怒するかもしれない。何だかんだ、彼も妹のことが大切みたいだ。ただでさえルチアは妹気質というか、誰にでも可愛がられるような、気にかけて大切にしたくなるような魅力がある。
「優しすぎるのも困りものだよ。俺は気がかりなんだ、彼女がサーカス以外の世界に出たらやっていけんのかって」
「彼女には幸せになってほしいね」
傷つけてしまったからこそ思う。彼女は私のような半端者ではなくて、もっとしっかりした、嵐にも雪崩にも動じないほどに心が強くて広い人と付き合ったほうがいい。そんな人、いないかもしれないけれど。少なくとも母アンジェラのように、狂った人間の支配下に置かれてマインドコントロールされ心を壊すような不幸を味わってほしくない。
しばらくしてまたミラーの寝息が聞こえてきた。
列車が線路を走行する音と振動だけが暗い部屋を揺らしていた。
その後もルチアとは今まで通りの仕事仲間で、兄妹のような関係が続いた。時折彼女が見せる切なそうな表情に胸が痛くなるけれど、気にしすぎていては身がもたない。
そうこうしているうちに、デビューの日が近づいてきた。本番が近づくと、ピアジェはいつもよりもピリピリしてヒステリックになる。事務所でもトレーニングルームでも怒鳴り声が絶えず、列車内の雰囲気は最悪だ。
私はなるべく彼に会わないように、顔を合わせても極力話さないように下手に刺激しないようにして生活していた。この間のルチアのように、私を助けようとした第三者が傷つく事態を避けるためだ。それでも団長の方から声をかけてくることはある。練習をしている私に向かって「失敗したらクビだ」だの「デビューしたてだからって甘くみてもらえると思うな、観客にとってお前が新人かどうかなど関係ないんだからな」などとプレッシャーをかけてくるだけなのだが。
そんなときは「頑張ります」とだけ答え、今に見てろと心で毒づき唇を噛み締める。こいつをぎゃふんと言わせてやりたい。この男は私の士気を下げプレッシャーに負けて失敗をするように煽っているだけなのだ。だが彼に私の魂を奪うことはできない。サーカスを大好きな気持ち、クラウンを演じたいという強い想いを奪える方法があるとしたら、マクゴナガル先生の逆転時計で私がサーカスなんて知らない過去に時間を巻き戻すしかない。もしくは未来の技術を使って、サーカスもクラウンもサーカス列車も存在しない並行世界に私を飛ばすしかない。
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