第27話 誕生日
ブラジルのマナウスでの公演が終わって2日間の休みに入ったので、シンディとジュリエッタに遊びに行こうと提案された。その日は私の24歳の誕生日だったが誰にも話していなかった。少し寂しいけれど街のスーパーで安いショートケーキでも買い自分で自分を祝おうと思った。
シンディが行くならケニーを誘おうと探したが、どこにもいない。男子トイレの前は行列だ。もしかしてと行列の最後尾のトムに伯父の所在を尋ねたら、個室の方を指差し腹をさするジェスチャーをした。
「ピーピーみたいじゃ、ワシも限界なんじゃがな」
トムはやがて開き直ったように「決めた! 私、今日だけ女になるわ! トミー・フェブラリーと呼んでちょうだい。トイレちゃん、待っててね〜!」と気色悪い声を出して女性車両の方に駆けていった。
やがて個室から青い顔のケニーが腹を抑えながら出てきた。入れ替わりでジャンが「ヤバい、もう顔を出してる!」とお尻を押さえて個室に飛び込んた。男子トイレは戦場だ。
「大丈夫? ケニー」
「朝からずっとなんだ、薬も効かないし……参ったよ」
ケニーはため息をついた。
試しに動物車で馬たちの診察をしていたホタルに相談したら、「私は動物専門だからね……」と首を傾げたものの、「そうだ」とポケットから青い謎の箱を出してケニーに渡した。『青玉はら薬』と表に書いてある。
「コレ飲んどきゃ治るわ」
「ありがとう、ホタル」
そこに爽やかな空気に包まれたトムがスキップで戻ってきた。元気なおじいさんだ。
「あ〜、スッキリした。どうなるかと思ったわい。女子トイレ空いててよかった」
「本当にピンチの時以外はやめてね」とホタルに釘を刺されたトムは、「ワシは今日からトミーじゃ」と戯けて振り付けつきで不思議なメロディの歌を歌い出した。
「何で知ってんの、その曲」とホタルが尋ね、「ファンなんじゃ」とトムが答える。日本のアーティストなのだろうか。
「知ってるよ、彼女いいよね」とケニーが頷いて、「お前さんもトミーファンか、奇遇じゃの」とトムがにっこり笑う。ホタルは「日本にいた頃よく街で鳴ってたわ」と懐かしそうに言った。やがて3人は謎のシンガートミー・フェブラリーの話題で盛り上がり始めた。後でYouTubeで調べてみよう。
「あ、そうそう、シンディたちが探しとったぞい」
トムに言われハッとした。ケニーはお腹の調子が悪いから部屋にいると言うので、私は2人と合流して観光に繰り出した。
アマゾナス州の州都であるマナウスは、大きな川とジャングルに囲まれた大都市だ。
ジュリエッタがピラニア釣りをしたいと言ったので、3人でアマゾン河クルーズに参加した。お金のない私を気遣ったのか、2人がツアー代を出してくれた。
ボートには他に10人ほどの観光客が乗っていた。ガイドは中年の饒舌な男性だった。真っ黒なネグロ川と茶色のソリモンエス川が混じり合うことなく十数キロ続く様には驚かされた。2つの川は温度や水質、含まれている土の量等が違うために混じり合わないという。
湿った泥と水の匂いと、木々や草の濃い香りが漂ってくる。ガイドは黙ることなく喋り続けている。
「ピラニアは焼いて食べると美味いよ。でも俺の友達は2人くらい指を食われたから、気をつけてくれよ!」
早口すぎて話があまり入ってこない。
「あのガイドさんいい男ね」とジュリエッタがシンディに囁きかけたが、シンディは首を傾げた。
「年上がタイプなの?」と訊くと、「そうね、ベネディクト・カンバッチや岩合光昭さんみたいな人がタイプよ」とジュリエッタは答えた。
「カンバーバッチでしょ」とシンディがクスクス笑い、私もつられて吹き出した。カンバーバッチと岩合さん、そしてあのお喋りガイド。皆タイプが同じとはとても思えない。怪訝な顔をしている私に向かってジュリエッタは「好きになった人がタイプってやつなのよ」と補足した。
アマゾン川には浸水樹という木が生えている。雨季と乾季で水位が大きく変わり、森が沈むのだという。シドニーやブエノスアイレスでは見られなかった光景に息を呑む。
最初にガイドに続いてジャングルを探検した。すぐ側では泥混じりのような茶色い濁流が何もかもを飲み込もうとするかのようにごうごうと音を立てている。
熱帯雨林の中はヤシやバナナなどの木々やモンステラなどの珍しい丈の長い大きな草が茂っていた。90メートルの高さを持つ巨木もあった。
ナマケモノを見つけ、ガイドの手を借り腕に抱いて記念撮影が実現したシンディは感激していた。
人の手が加えられていない、幾多の未知の生命が息づく自然に触れるのは神秘的な感覚だった。こんな場所にずっと留まっていたら、普段とは異なるインスピレーションが湧いてきそうだ。
ジャングル探検の次は再びボートに乗り込みピラニア釣りに出かけた。竹竿に肉をつけた糸を垂らしていたら、ピラニアは意外に簡単に釣れた。ジュリエッタが命懸けで50センチ近いピラニアを釣り上げたのにはびっくりした。
「危うくピラニアの餌になるところだったわ」とジュリエッタは汗を拭った。
私もピラニアを数匹釣ったが、皆まだ子どものようなので指を噛みちぎられないよう気をつけながら川に返した。
釣ったピラニアは焚き火で焼いて食べられる。味は案外あっさりしていて美味だった。魚にかぶりついたジュリエッタが「あち!! 口の中が火事だわ!!」と叫び、「急いで食べるからよ」とシンディが苦笑した。この2人は本当に仲良しだ。
腹ごしらえをしたあと岸辺にある先住民の土地に行った。居住区立ち入り禁止とのことで、入るのを許されている岸辺の小屋に入った。小屋の中には鳥の羽や魚の骨などを使ってとても精巧に造られた民芸品が飾られていた。ジュリエッタは魚の鱗でできた謎のお面を、シンディはトゥッカーノという黄色い長い嘴で黒い羽のを持つ鳥の木彫り人形を買っていた。ちなみにトゥッカーノは熱帯雨林に住んでいるブラジルの代表的な鳥だという。私は悩んだ挙句ピラニアの剥製を買った。
クルーズの後は3人で街のバーに繰り出した。最初は3人で窓際の丸テーブルを囲んでいたが、ジュリエッタが好みの男性を見つけカウンター付近で楽しそうに立ち話していたので、私とシンディだけで打ち明け話をした。そこで私は思い切ってシンディにケニーの印象を聞いてみることにした。
「シンディ、ケニーのことをどう思う?」
シンディは小首を傾げ、「優しそうよね」と答えた。
「他には? その……異性としてはどう感じる?」
シンディはそうねぇ、と顎に人差し指を当てて考える素振りをした後、「嫌いじゃないわ」と笑顔で頷いた。
「本当?!」
「うん。私、禿げてて太った年上の人が好きなのよ。あと、優しい人ね」
これをケニーが聞いたら小躍りして喜ぶに違いない。世界は広いし女性は星の数だけいて、その分好みというのは多様だ。ケニーをタイプと思う人がいても何らおかしくはない。帰ったら早速伝えなくては。
「ケニーの優しさは折り紙付きだよ。彼と付き合ったら絶対幸せになれる、僕が保証するよ」
シンディは「まだそんなに先のことなんて考えてないわ」と苦笑いして首を振った。
「見た目も好きだし、凄くいい人そうだから話してみたいわね。いつか機会があればね」
カクテルグラスを空にしたシンディに私は気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、君は何でサーカスを始めたの?」
「友達がカナダのキッズサーカスにいて、見学に行った時にすごく身体の柔らかい男の子がいてね。私もやってみたいなって思ったの」
「そうなんだ」
「ずっと新体操をやってたんだけど、人と競うのが好きじゃなかったの。友達と敵対心を燃やしあってギクシャクしたりするのがどうも苦手で……」
「僕もそうだよ。習い事でも勉強でも、誰かと競うことが当たり前になると楽しくなくなってしまうんだ。それで何も続かなかった」
「分かるわ、嫌よね。友達でもライバルになるのって」
小学校の時にやっていたサッカーも、中学まで習っていたバレーもそうだった。普段は仲良しの友達同士でバチバチと火花を散らしあって、発表会に出られる枠を奪い合う。バレエは好きなのに、ピリピリ空気に耐えられなくて結局やめてしまった。皆みたいに大会で勝ちたいとか、負けたくないという気持ちもなかった。そんな感じだから、どの習い事も長く続かなかった。
競争社会に馴染めない子どもというのは、存外沢山いるのかもしれない。母には「あなたはもっと向上心を持ちなさい」とか「友達に負けちゃダメ」「飽きっぽいわね」などと呆れられていた。今まで話しても理解してくれる人がいなかったから、シンディが同じ経験をしていたことが嬉しかった。
「私たちにはサーカスがピッタリだと思うわ。誰と競わなくてもいい、自分の技をひたすら磨いて極める。それだけじゃなくて、仲間と力を合わせて一つのショーを作り上げる。私はサーカスに出会えて本当によかったと思ってる」
子ども時代の習い事の話をしていたらジュリエッタが小走りでやってきて、満面の笑みで折り畳まれた紙ナプキンを見せた。
「彼の連絡先ゲットしちゃった〜! ねぇ聞いて、彼音楽家なんですって! 明日デートに行こうって誘われちゃったわ」
「おめでとう! 上手くいくといいね」
「良かったじゃない」
祝福を受けたジュリエッタは上機嫌でドリンクをもう一杯奢ってくれたが、シンディはどこか浮かない顔をしていた。
ジュリエッタがトイレに立ったときシンディが呟いた。
「彼女が傷つかないか心配だわ」
その言葉の意味について私は深く考えなかったが、後でここでとらなかった行動について深く後悔することになるのだった。
18時を過ぎたあたりでシンディが「そろそろ帰る時間ね」と言った。お腹が空いて何か軽く食べたかったけれど、2人が何故か急いでいる様子で言い出せなかった。
給料が出たら2人に奢らないといけないなと考えながら、私は夢見心地のほろ酔い状態で2人とジョークを交わし大笑いしながら夜の街を歩いて帰った。
列車に乗る前、ホームでジュリエッタに「そうそう、ケニーが後で食堂車に来いって言ってたわよ」と言われた。
ケニーが食堂車で何の用だろう?
何か手料理を振る舞ってくれるとか? ケニー、料理できたっけ?
怪訝に思いながら食堂車に乗り込んだ途端、全ての電気が消え辺りは闇に包まれた。
「何? 停電?」
こんな時なのに電灯を持っていない。暗い場所で一人になるのは不安だ。焦っていたらパッと突然電気がつき、パンッパンッという破裂音がしたかと思うとカラフルな紙吹雪と細いテープが襲ってきた。
びっくりして辺りを見渡すと、三角の帽子をかぶってクラッカーを持ったケニーとジャン、ルーファス、アルフレッド、トム、ミラー、ジュリエッタ、シンディ、ルチア、ヤスミーナ、クリーにホクの笑顔があった。車両の中央の通路のキャスター付きの台の上には中央にチョコレートソースで私の名前とハッピーバースデーの文字の書かれたホールのショートケーキが置いてあり、テーブルにはグラスのワインとチキンやパスタ、ピザの他に、水餃子や野菜炒め、ロブスターのバター炒めなどの外国の料理が並んでいた。
ジュリエッタが歌うバースデーソングに合わせて皆が合唱する。そこで初めて、私のサプライズ誕生日会が開かれているのだと認識した。
「誕生日おめでとう、ネロ!」
歌が終わりシンディが笑顔で言うと、周りの団員たちもおめでとうと声をかけてくれた。
「君が誕生日だってジュリエッタに教えたのは僕だ。そしたら盛大にやろうってことになって」とケニーが微笑んだ。
「皆がパーティーの準備してる間、気づかれないようにあなたを連れ出さないとと思ってね」とジュリエッタがウィンクし、シンディが「せっかくの誕生日だから、思い出作りしたかったしね」と頷く。
「厨房借りて皆で料理したんだ、腕が鳴ったぜ」とジャンが得意げに白い歯を覗かせ、ミラーが「ジャンはパスタを茹でただけだろ」と突っ込む。
「ロブスターはホクが作ったんだ。この餃子と炒め物は私」とクリー。
今日シンディとジュリエッタが私を連れ出してくれたのも、奢ってくれたのも、私の誕生日を祝うためだったのだ。彼らの思いやりに瞼が熱くなった。まだ会って間もないのに、私の生まれた日を祝ってくれている。シドニーにいたときお金持ちの友達の盛大な誕生パーティーに行ったことがあった。高いだけで大して美味しくもないお酒や大音量の音楽、冬なのにプールに飛び込む誰だか分からない他校の生徒たちに辟易したけれど、今日私のために催されたのは、今までで一番幸せな誕生パーティーだった。
「ありがとう、皆。こんな素敵なパーティーを開いてもらえて、お祝いしてもらえて、僕は世界一幸せだよ」
感激のあまり泣き出した私をジュリエッタが抱きしめてくれた。
「あなたと私が出会えたのはきっと何かの縁よ。これからもよろしくね」
「僕の方こそ、君にはたくさん助けられてるよ。このサーカス列車に乗ってなければ皆に会うこともなかったし、やりたいことも見つけられなかった。本当にありがとう」
「何かお別れみたいね」とジュリエッタが言い、皆が笑う。
「さあ、食うぞ。腹が減ってたまんねえや!」
ジャンの言葉とともに皆がテーブルについて賑やかな宴が始まった。同じテーブルに座ったケニーが、同室のトムやルーファスと打ち解けて喋っているのを見てほっとした。そういえばルーファスはケニーと同年代だったような。案外気が合うんじゃないだろうか。
「ネロ、こっちに来て!」
ルチアに呼ばれて車両の奥に行くと、ルチアが後ろに隠していたプレゼントの包みを渡してくれた。
「これ、プレゼントよ!」
開けてみたらクラウンの赤い鼻と、クラブ、ボール、ディアボロなどの新品のジャグリング道具が入っていた。
「今日、ヤスミーナと一緒に買いに行ったの。これから役に立つかと思って」
「嬉しいよ、本当にありがとう!」
お礼を言われたルチアは恥ずかしそうにはにかんだ。
「喜んでもらえて嬉しい」
「ネロ、こっちで写真を撮りましょう!」
シンディに呼ばれて写真撮影に加わった。赤い鼻をつけた私を見てルチアは「よく似合ってるわ」と笑った。
シャッターの音が響いた時、この一瞬は二度と訪れないんだと強く感じた。毎日を、一秒一秒を大切に、ただ精一杯生きたいと。こうしておけばと後から後悔するようなことは、もうしたくない。
これからも数え切れないよろしくやおめでとう、さよならを経験するんだろう。でも彼らとの出会いとこの経験を忘れることはない。例え歳をとって他の何もかもを忘れてしまったとしても。
その夜夢を見た。
小学5年生の時にオーロラが校庭の木に登って降りられなくなってしまった仔猫を見つけ、私が助けた時の夢だった。
オーロラが止めるのも聞かずに木に登った私は、枝の上でミーミー鳴いていた茶虎の仔猫を捕まえセーターの中に入れた。たちまち学校は大騒ぎになり、全校の生徒プラス担任の先生も校長も木の周りに集まってきた。やがてオーロラ含むクラスメイトの何人かが体育で使うマットを持ってきてくれた。
「アヴィー、この上に落ちて! 怪我をしないように気をつけて!」
オーロラの声が下から聞こえ、猫を潰してしまわないように気をつけながら背中から落ちた。身体が浮いて落ちていく感覚、枝葉から覗いた青空が遠くなり、やがてボスっという音とともにマットの上に落下した。
仔猫を助けた私が英雄に映ったらしい生徒たちからは拍手が送られたけれど、校長と担任からはこっぴどく叱られた。途中でオーロラが、「私が悪いんです、彼女に仔猫が木の上にいるって教えたから。アヴィーを怒らないでください」と庇ってくれた。オーロラはちっとも悪くない。だって木に登るのを決めたのも、騒ぎを起こしたのもこの私なんだから。この仔猫だって、ただ楽しくて自分の恐怖耐性なんて考えずに木登りをしていただけだ。
オーロラは泣きながら叱られて項垂れている私を抱きしめた。
「アヴィー……私がその子を助けるべきなのに、あなたを危険な目にあわせてごめんね。無事で良かった。そして、仔猫を助けてくれてありがとう」
「ううん、いいの。あなたもこの子も怪我をしないで済んだし」と私は助けた仔猫の首をかいてやった。
仔猫を手渡されたオーロラは、すごく優しい顔をして仔猫を撫でた。
「この子の名前はツリーね!」と言ったら、オーロラは涙に濡れた目でそうねと微笑んだ。
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