第25話 一か八か
アスンシオンを発った列車は翌日ボリビアのスクレに到着した。
駅に着いたのは昼前だった。まだテントの準備までは時間があるので、ジェロニモに連れられて郵便局へ向かった。すごく大きなバッグを担いでいたから理由を尋ねると、「すぐ分かるよ」と彼は笑顔で答えた。
郵便局には、団員の家族からの手紙や荷物が局留めで沢山届いていた。ジェロニモは窓口で受け取ったエアメールや荷物を一つずつバッグに詰めた。
「各場所で公演の日程が決まってるから、それに合わせてみんなの家族が母国から送ってくれるんだ」
家族と離れて生活している団員の寂しさや心細さ、遠くの国から我が子を思う親の気持ちに思いを馳せた。もしサーカスでパフォーマーとして頑張っている家族がいたとして、私が彼らの親兄弟であったら、怪我や病気をしていないか、仲間と上手くやれているか、ちゃんとご飯を食べれているかなど心配が尽きないだろう。
そんなことを考えていたら、無性に家に電話をかけたくなった。母の声が聴きたかった。
郵便局を出てジェロニモにお金を借り、公衆電話から家に電話をかけたが繋がらなかった。留守電のメッセージすら流れない。電話が故障してでもいるのだろうか。
私の手紙が届いていること、母や祖母が元気でいてくれることを祈った。
スクレ、ラパスでの3日間ずつの公演を終えた後はブラジルのサンパウロに向かった。その次はリオ、ブラジリア、サルバドール等ブラジルの主要都市を2週間以上かけて巡った。ブラジルでは多くの都市でサーカスの動物使用が禁止されているので、動物たちにとっては長い休暇となった。その間も列車にすし詰めにはしておけないので、許可を取って夜間や早朝に会場の外で場所を確保してテントの中や外を散歩させたり、身体を洗ってやったりトレーニングをさせる。もちろん逃げないように厳重な注意を払いながら。
サン・ルイスに着く頃には、綱渡りが半分くらいまでできるようになっていた。
そうこうしているうちに季節は秋から冬に移り変わり、5月半ばになると朝方や夜の冷え込みが少しずつ厳しくなってきた。車窓の外を通り過ぎる景色もうら淋しく、木々からは落ち葉が散って、山間部の畑や田んぼは色を失って干からびている。
ショーを重ねるたびクラウンとしてサーカスに出たいという気持ちは高まるばかりだったが、ピアジェに反対されることを見越して動けずにいた。だがサン・ルイスでの公演の時には、気持ちは抑えきれないレベルにまで達していた。
その日の夜の公演で、クリーの綱渡りを観ていたら自分もやりたくなった。どういうわけかこの時の私の脳みそはまたたびをもらった猫のような興奮状態で、どうしても綱渡りをやってみたい! という気持ちを抑え切れなかった。
私服のデニムのサロペット姿のままスタッフ用の階段を駆け上がり、ぽかんとする団員たちの目も気にせず通路を走り、アーチ型の入り口から外に飛び出し半月型の台の上に立つ。観客たちが呆然として私を見ているのがわかる。それもそのはず、突然宙空のステージに、私服姿の青年が現れたのだから。
目の前にはロープが向こう岸に向かって伸びている。練習では失敗していたけれど、今日は何だかできるような気がした。これから何が起こるのか、あの人物は誰なのか? 観客の驚きと戸惑い混じりの視線が、一斉に上空15メートルの私に注がれている。
「おい、小僧!! 何をやってる!!」
下からピアジェが叫ぶのも無視して、私はロープの上を歩き出した。
練習した通りゆっくりと、両腕を広げて片脚ずつバランスをとりながら前に踏み出していく。観客のざわめきも、ピアジェの「こら、やめろ!! 降りろ!!」という怒鳴り声も私にとってはBGMのようなものだった。
緊張感を味わいながら、両手でバランスをとってゆっくり綱の上を歩いた。そうしているうちにロープの真ん中、半分のところまできた。頭は完全にハイになっていて、できるという確信だけがあった。その調子でゆっくりゆっくり足を踏み出す。
しかしそこから3Mほど進んだところでバランスを崩してしまった。両手をバタバタ動かしてみたが悪あがきにしかならない。
落ちるーー。
傾いた私の身体は背中からロープの外の世界に投げ出された。視界には窪んだテントの天井と吊り下がるジャンプ台とバーがある。そのまま降下し、ネットに身体が叩きつけられるまでがスローモーションみたいだった。
すぐそばにいた観客が笑うのが見えた。すルともう1人、さらに10人、100人と伝染し、やがてテント中に広まった。一部の人間はただ可笑しくて笑っているのだろうが、半分以上が嘲笑だと分かった。
「落ちたぜ!」
「ダセー!!」
「馬鹿野郎〜!!」
子どもの声に混じって大人の声も聞こえる。先ほどまでの無敵感から一転して、全身が火炙りになったかのように熱くなった。
立ちあがろうとするもネットに脚がひっかかって転んでしまう。背中にまた笑い声が浴びせられる。
最悪だ。調子に乗って綱渡りに挑戦したものの、無様に落下して笑われた。ピアジェはカンカンだろう。自分の行いのせいでみんなのサーカスをめちゃくちゃにしてしまった。下手したらクビになるかもしれない。やるんじゃなかった。
泣き出したいような気持ちで梯子を上がってリングを後にし、笑い声を背中に逃げるようにして控え室に戻る途中ふと思った。
もしやこれは、さらに笑いを取れるチャンスなのではないか。その考えとほぼ同時に私の頭にある考えが浮かんだ。それはすごく最高で最善のアイデアに思えた。さっきまでの恥ずかしさと後悔は嘘のように消え去って、楽しい悪戯を思いついた子どものような無邪気な感覚だけがあった。
女性用控室のドアをノックして入り、「ジュリエッタ、ちょっとごめんよ!」と断りを入れて彼女のロッカーを開け、たまたま入っていた赤毛のもじゃもじゃの巻き毛のカツラをつけた。次にテーブルに置かれていた誰かのメイク道具を拝借して、顔を真っ白に塗りたくり、口紅で両の頬に赤丸のチークを入れた。女性団員たちは唖然としている。
ルーファスが「忘れものだぞ」と穴の空いた赤いピンポン玉みたいなものを手渡した。それを鼻につけて、部屋を飛び出し通路をかけだした。途中ピアジェに出会した。
「今度は何をするつもりだ!! ショーをぶち壊しにするつもりか?!」
ピアジェを振り切りひたすら走った。悪態をつき怒鳴り散らしながら追いかけてくる男に、今ここで捕まるわけにはいかない。
ステージ裏手にかけられた梯子を上り、再び空中に設置された台の上に飛び出して綱渡りを始めた。あっけにとられる観客の頭上でわざとよろけてみせたりしながらロープの上を歩く。
ピアジェが私の後ろから綱を渡りながら追いかけてきて、「この大馬鹿坊主め!! 早く降りろ!!」と怒鳴るも、団長は私よりも先にバランスを崩して落ちる直前でロープにぶら下がった。
そのせいでロープが大きく揺れ、私の身体は再び空中に投げ出されネットの上に落ちる。続いてピアジェも落ちてくる。
観客の笑い声が先ほどよりも大きくなる。
だゆんだゆんとネットが揺れる。立ちあがろうとして何度も転ける。ピアジェも同じだ。
大爆笑に見守られながらネットに手足をかけて登っては転がり落ちる。追いかけてこようとしたピアジェもネットに足が絡まって間抜けに転ぶ。
やっとのことで起き上がり、ふざけて短距離選手のやるのより大袈裟に手脚を高く振り上げて走りながら退場する。後から転びながらピアジェも追いかけてくる。
調子づいた私はピアジェに捕まらぬよう梯子を登ってまた台に立つと、綱を渡っては落ちるという芸を繰り返した。落ちるたびにピアジェから逃げ回る。その様子を観て観客が笑う。3回目に落下した時には会場は爆笑の渦に包まれていた。
怒り狂うピアジェから逃げるようにリングを去り、未だ止まぬ笑いの余韻を背中に受けながら控室に戻る通路を駆けた。私の心はこれまで感じたこともない爽快感に満たされていた。最初綱渡りに失敗した時は羞恥と絶望で目の前が真っ暗になったけれど、今の感情は真逆だ。人を笑わせるのはこんなに気持ちがいいのか。
同時に強く感じた。やっぱりクラウンになりたい。人前に出る恥ずかしさや失敗への恐怖以上に、ステージの上で皆を笑わせたい、あのショーの一員になりたいという気持ちが、取り返しのつかないレベルに大きく膨らんでいた。生まれて初めての気持ちだった。
「この馬鹿野郎!! 一体何のつもりだ!!」
髪を乱し、タキシードもよれよれになったピアジェが控え室に入ってきて杖で私の肩を叩いた。鋭い痛みが走る。団長の顔は勝手なことをしでかした私への怒りと受けた恥辱への羞恥心で真っ赤になり、身体はわなわなと震え額には青筋が浮いている。
「素人がアーティスト気取りで綱渡りなぞしおって!! 私はお前のせいで恥をかいたぞ!! これでウケなければどうするつもりだったんだ?! 私たちの努力は全部水の泡になる!!」
顔を真っ赤にして怒鳴りつけるピアジェをジャンが止める。
「まぁまぁ、団長。ウケたんだからいいじゃねぇか。俺は好きだぜ、彼のクラウン」
ジャンが私のカツラの上に手を置いた。
「こいつがクラウン?! 悪夢も甚だしいわ!!」
ピアジェは私の胸に人差し指を突き立てた。
「またあんな勝手なことをしてみろ。お前はクビだ、クビ!!」
首を手で切る仕草をしてピアジェがいなくなった直後、ぷっとアルフレッドが吹き出して、それに釣られて周りにいたジャンやアルフレッドなど男の団員たちが笑い出した。
「いやぁ、見ものだったよ! まさか君がクラウンに化けて、ピアジェとコントをやるなんてな!」アルフレッドが涙を拭う。
「傑作だよな」とジャンが同意し、「笑い事じゃない、俺なら殺されてたぞ」とミラーが呆れたようにため息をつく。
するとルーファスが腕組みをして真顔で言った。
「お前、クラウンに向いてるかもしれんな」
「本当?!」
「ああ」
私の心の中では、さっきの出来事で決定的になっていた。何がって、クラウンをやってみたいという気持ちがだ。思いつきで綱渡りをしてみたが、綱から落ちるという失態を演じた後クラウンに化けたことで想像以上に笑いをとれた。ルーファスがクラウンが太陽と例えていた理由が分かった。クラウンがステージにいるだけでサーカス全体の雰囲気がガラリと変わる。テントが笑いに溢れる。今までになく心が満たされ高揚していた。この興奮をまた味わいたかった。
「やろうかな、クラウン」
私の言葉に、一同「え?!」と声が上がる。
向いていると言ったルーファスでさえ半分以上本気ではなかったみたいで、「おい、マジか」と真顔で聞いてきた。
「マジだよ。こう見えて運動神経には自信あるんだ」
「うちのクラウンはジャグリングや綱渡りもできなきゃならんし、笑いをとるための寸劇なんかも自分で考えてやらなきゃならん。ここのメンバーは、サーカス学校で基礎からトレーニングを積んだ奴らばかりだ。運動神経だけでどうにかなる問題じゃない。何よりサーカスは危険と隣り合わせだ。生半可な覚悟でできるもんじゃない」
ルーファスが険しい顔で説得するも、私の心は決まっていた。ずっとクラウンは憧れの存在だった。クラウンが舞台に出てくると、会場全体が明るくなる。皆の視線がクラウンに集まり、テントが笑いに溢れる。幼い頃からずっと、サーカスクラウンを演じてみたいと思っていた。
ずっと自信がなくて迷っていたけれど、今日で心が決まった。今まで何かを本気でやりたいと感じたことなんて一度もなかった。中途半端だった自分が、クラウンになら本気になれる気がした。もちろん簡単じゃないことはわかっているけれど、どんな努力だってするつもりだった。
「難しくたって危険だって構わない、やってみたいんだ。今まで人に流されるまま生きてきて、大学も中退して、やりたいことなんて見つけられなかった。でもここに入ってみんなのショーを見ているうちに、クラウンとして一緒にやりたいって思ったんだ。こんな気持ちは初めてなんだ。皆に迷惑はかけない、死ぬ気で努力するよ」
「その意気だ!」とジャンが背中を叩いた。
「お前が本気でやるってんなら、俺は全力でサポートするぜ!」
「ああ、君なら良いクラウンになるよ。僕が保証する」
アルフレッドも励ましてくれたが、唯一ミラーだけは不安げだ。
「親父が許すかな……。さっきもカンカンだったし……」
「もし無理だって言われたら、俺がアイツに直談判してやる。せっかくやる気んなってるんだ。未経験からクラウンをやってみようなんて、なかなか決意できるもんじゃねぇ。仲間の夢を応援できねぇで、テメェの夢が叶えられるかってんだ!」
ジャンが言った。
「そうだそうだ」「応援してるぞ!」と他の団員たちからも声が上がる。応援してくれる仲間たちの様子に胸が熱くなった。
「本気なんだな? とりあえずやってみようなんて半端な気持ちじゃ続けられんぞ?」
念押しするみたいにルーファスが訪ねてくる。
「本気だよ、僕は誰よりもすごいクラウンになる。君たちの気持ちを無駄にしないためにもね」
皆の想いを裏切りたくない。どんな練習でも挑戦していくのだ。レオポルドが火の輪をくぐったみたいに、命懸けで挑むつもりだ。
「アヴィー、本気か?」
サン・ルイスでの最終公演の翌日、観光で向かったセー教会の前でケニーにクラウンの話をしたら予想通りの反応が返ってきた。真っ白なお城のような外観の教会は、午後の陽射しを受けて一際神々しく佇んでいた。
「本気よ、誰がなんと言おうとやるつもり。もし団長ががダメだって言っても直談判しにいく」
「その気概は素晴らしいけど、もし怪我をしたりしたら大変だ。命の危険だってある」
ケニーからしたら心配の他に保護者的な責任を感じているのだろう。止めるのも頷ける。だが私の気持ちはそう簡単には動かないレベルに固い。何より仲間たちに背中を押されておいて、今更撤回なんかできるはずもない。
「その時はその時よ。私、こんなに本気で何かをやりたいって思ったのは生まれて初めてなの。例え世界中の人に反対されたってやるつもり」
決意の固さを感じ取ったらしい。伯父は観念したようにため息をついた。
「君がそんなに本気なら、僕はもう何も言わないよ。だけど、これだけは覚えておいてくれ。何か困ったことがあったらいつでも僕を頼れ。頼りにならないかもしれないけど、僕は君の味方だ」
「ありがとう、ケニー!」
感極まって抱きつくと、「全く君って子は、これだから放って置けない」とケニーは苦笑した。彼が私の伯父で、すぐ近くにいてくれて本当に良かった。
「それとケニー」
私はずっと胸の内にあったことを訊いてみることにした。
「シンディとご飯にでも行ってきたら?」
途端にケニーは真っ赤になった。
「むっ、無理だ! 彼女を誘うなんて……。それに、僕のような奴に彼女が振り向くはずがない」
「そんなの分からないじゃない」
「僕はこの通りカッコよくもないし、頭も禿げてる。何だか前より腹も出てきた気がする。彼女はすごくキラキラしてて、明るくて楽しくて才能だってある。所詮僕には手が届かない相手さ」
ケニーはため息をつき項垂れた。
「僕はずっと君たちのようなキラキラした人たちが羨ましかったんだ。どんなに努力したって、僕はそうなれない。一生日陰で生きていくんだ」
「卑屈になっちゃダメよ」
ケニーの背中を叩く。いてっ、と短い声が漏れる。
「誰もが本の表紙だけを見て判断するわけじゃないわ。それにシンディだって、キラキラして見えるのは表面だけで、実は見えない悩みがあるかも。ケニーならそれをうまく受け止めて共有してあげられると思うの」
私だってそうだ。常に恋人がいて、周りからは楽しくて充実した人生を送っているように見えるかもしれないけれど、言わないだけで実際には沢山葛藤を抱えていた。皆が皆、イメージと同じではない。イメージと現実というのは多くの場合隔絶している。
「私なんてパパが色々やらかして両親は離婚してるし、一番仲良い友達はイギリスに行っちゃった。告ってくる人は私の外見しか見てない。大切にするとかいいながら、自分が得意になりたいだけなの。好きじゃないのに付き合う私も私だけど」
話しているうちに私まで卑屈な気持ちになってきた。まるで、これまでの人生が全て失敗で、悪いことばかりだったみたいに。
「じゃあどうして付き合うんだい? 好きじゃないのに」
「それは……断るのが申し訳ないから。あと、付き合ったら好きになれるんじゃないかって」
「それは、相手に対しても失礼なことだと思うがな」
いつの間にか私の横に来ていたルーファスが言った。彼は「あまり深刻にならないで聞いて欲しいんだが」と前置きをして語り始めた。
「俺はこの通りの小人だ。これは俺の意地悪な兄貴から聞かされた話だが、生まれたばかりの俺を見た父親は悲鳴をあげたらしい。『こんな化け物を育てるつもりか、ドブ川にでも捨てちまえ!』と怒鳴り散らした。オカルトに傾倒していた祖母は『神の罰だ』とかなんとか言って泣き叫んだらしい。
父親の家は弁護士一家で、地元でも有名な名士の家系だった。時代も時代だ、俺は面汚しと思ったんだな。だが母親だけは俺を可愛いと言ってくれた。暴力を振るい、俺の姿を見ては聞くに耐えない言葉で罵る父親から逃れて、友達の誘いでサーカスで働き始めた。それから女手一つで俺を育ててくれた。世の中の目というのは冷たいもんで、父親や兄貴と同じように俺を化け物扱いする奴もいた。だけど母親だけは俺を認めてくれた。
俺が14歳のとき流行病で母親が死んだ。死ぬ前に彼女は俺にこう言った。『お前は特別な子だよ、その小さな身体と賢い頭は神様がお前に与えた贈り物だ。いつか絶対役に立つことがある』ってな」
ケニーも私も泣いていたけれど、ルーファスはさして深刻なことでもないというように、まるで懐かしい思い出を辿るみたいに微笑みながら言葉を紡いだ。
「俺がいたサーカスには両脚がない若者もいたし、知的障害を持つ曲芸師もいた。シャバでは爪弾きにされるような連中が、リングの上では驚くほど輝いていた。彼らの姿を見るうちに、俺はこの姿を人前に晒してお金を稼ぎたいと思うようになった。それが俺の生きる唯一の道だと思ったんだ。母親が言ったように、この身体を役に立たせる方法だって。
それで俺はクラウンをやることにした。運動神経は皆無だしジャグリングも苦手だったから、代わりにパントマイムを披露した。あんまりウケなかったけどな」
ルーファスは苦笑した。
「結局そのサーカスは団員が病気や演技中の事故で死んだりで相次いでいなくなって、廃業してな。その時の団長が罪滅ぼしにとなけなしの金を俺にくれた。俺はしばらくそれで食い繋いで生きてたが、しまいに金も底をつき、野垂れ死にしそうになった。でもこんな俺を助ける人間なんていない。
道端で倒れていた時に、このまま死ぬんだと思った。身体も冷え、意識も失いかけていた時に女が俺を拾ってくれた。自分のサーカス団のねぐらのテントに連れて行き、回復するまで甲斐甲斐しく世話をやいてくれた。ピアジェの父親の代に、このサーカス団で曲芸師をしてた女だった。それはそれは綺麗な女性でな。彼女と恋人になれた時はすごく幸せだったよ。でも、何で俺なんかと付き合うんだろうとずっと不思議に思ってた。ある日彼女に理由を聞いたんだ、そしたらこう言われた」
ーー『あなたがあんまり可哀想だから』
言葉を探しても見つからなかった。状況は少し違うけれど、私は今まで付き合った人たちに凄く酷いことをしていた。胸が痛かった。嫌われたくないからという自己防衛から告白を受けては、本当に愛せずに別れてしまう。不誠実で自分本位な行動を積み重ねてきた自分があまりに情けなくて恥ずかしかった。
普通とは違う姿で生まれたルーファスは、肉親や他人からの傷を抉られるような酷い差別と波乱の中、何度も苦しみ深く傷つきながら生きてきたのだ。到底私では乗り越えられないような苦難や葛藤を乗り越えて今があるのだ。
「酷い話だな。それで、彼女とは別れたのかい?」
ケニーが尋ねた。
「同情で付き合ってもらうなんてごめんだからな。だが驚いたことに、別れると言ったら彼女は泣いたんだ。なんで泣いてるのかと聞いたら、『最初は同情で付き合ったけど、一緒に過ごすうちにあなたを本当に愛してしまった。あなたはとても紳士で賢くて素敵な人。小さくて凄く可愛いわ。お願いだから私を捨てないで』なんて言うもんだから、参っちまったよ」
「それで、君はどうした?」
「結局やり直すことにした」
「その彼女は今どこに?」
ルーファスは低い声でつぶやいた。
「死んだよ」
「どうして……」
ショックで次の言葉を継ぐことができず立ち尽くした。
「ピアジェに無茶な技をやれと持ちかけられて、断れずに挑戦した彼女は高いところから落下して、頭を打って死んだ。彼女は頑なに落下用ネットを使わなかったんだ」
「それはどうして?」
「あとから別の仲間に聞いた。ネットなしで技に成功したら俺にプロポーズしようと考えてたらしい。そういう突拍子もないことを考える女だった、そしてそんなところが俺たちはよく似ていた」
ルーファスが鼻を啜った。
「なんてこった」
ケニーは悲しげに右手でこめかみを押さえた。
「そんな無茶な賭けをしなくたって、彼女とは結婚をするつもりだった。もっと早く言っておけばと悔やんだし自分を責めたよ。何度も絶望して死のうと思った。もうこんな俺を愛してくれる人は現れないと……。しばらくはやけになり酒を飲みまくった。パントマイムもやりたくなくなった。こんな仕事辞めてやると思ったが、仲間たちに止められて踏みとどまった。結局頭を使う仕事が楽しくなって、そっちに転向したわけだ」
教会の前ではシンディがスマートフォンを掲げて建造物の写真を撮っている。サーカスをする利点の一つはこうして色んな国の景色を目に焼き付けられることだ。
「3年くらい前にシンディがここに入ってきてな。色々と世話を焼いてやっているうちに、妹のような存在になった。俺の使命は彼女を見守ること、そしてーー」
ルーファスは小さな手を握りしめた。
「あいつにーー彼女を殺したピアジェに復讐をすることだ」
私たちの言葉を待たず、ルーファスは踵を返して教会へと歩いて行った。彼の言葉に背筋が冷たくなるのと一緒に、彼の背中がいつもよりも大きく見えた。
私は勇気を出さなければいけない。これ以上長引かせてはいけない。ルーファスだってまだ子どもの時に人前に出る覚悟を決めた。自らの身体的特徴を敢えて生かして笑い者になることに、怖さや不安がなかったはずはない。逃げ出したくもなったはずだ。言い出せなかったのは、ピアジェに批判されることへの恐怖心が少なからずあったからだ。私も覚悟を決めるのだ。明日の朝ピアジェにクラウンをやらせてくれと頼もう。心で燃えていた火はついさっきよりも一回り大きくなって、どんな懸念も恐れも全て溶かし尽くしてしまうような熱だけがあった。
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