第8話 絵本

 沈んだ気分で公園を出たあと、公園前のバス停からバスに乗って市街地に出てみることにした。到着したバスの中は混み合っていて、乗車口の近くで立っていた。途中、市街地の一つ前のバス停で降りようとしたら、近くにいた中年女性に腕を掴まれた。彼女はとても険しい顔で首を振っていた。


「ここで降りたらいけないわ」


 彼女いわく私が降りようとしていたのは、ブエノスアイレス最大のスラムである『バラックエリア』と呼ばれる町の近くだったようだ。そういえば家を出る前に、祖母からバラックだけには行くなと声をかけられていたのだった。私は中年女性に何度もお礼を言い、市街地でバスを降りた。


 すぐ近くがスラムだなんて嘘みたいに、市街地は人々の明るい喧騒で賑わっている。『南米のパリ』と呼ばれるだけあって街のあちこちに5、6階建ての大きな洋風の建物が立ち並び、オレンジや赤、黄色などの色鮮やかで可愛らしい外壁の店が軒を連ねる通りもある。


 シドニーと同じく、アルゼンチンの4月は秋だ。歩道の脇にはハカランダの木が立ち並んでいる。天気予報で最高気温が25℃というだけあって、額から汗が吹き出すほどだ。


 途中、私と同じくらいの学生らしき男女の集団とすれ違った。グループの中の誰かが放ったジョークに、一斉に大きな笑い声をあげて笑っている。


 あんな日もあった。今更懐かしがっても二度と戻ってはこない青春だ。学業に勤しむ義務があるという点では窮屈だが、社会に出るまでの数年の余暇を楽しめる学生という自由な身分を、自分自身で捨てたのだから。


 ふと、『犬と雑貨と絵本の店』と赤いペンキで書かれた木の看板の出た小さな本屋のショーウィンドウの前で足が止まる。透明なガラスの中に一冊の横長の長方形の絵本が飾られている。その絵柄に確かに見覚えがあった。表紙の真ん中には可愛らしい茶虎の猫がいて、背景に緑の草原と湖が描かれており、草の陰からピンクの豚が顔を覗かせている。絵本のタイトルは『猫のカルメン』で、作者は『オーロラ・エルスワース』。


 オーロラが数ヶ月前に電話で、絵本がコンテストで大賞をとり、大手の出版社から出版が決まったのだと興奮気味に話していたことを思い出した。「おめでとう、夢が叶ったわね!」と返しながら、オーロラが遠くに行ってしまう気がして寂しかった。


 でも、今はこうして異国の地にいながら友人の成功を肌で感じている。これほど幸せなことはないと思う。


 小さな本屋の木のドアを開けると、中には絵本や児童書が入った白い色の本棚が並んでいた。カウンターにいたのは、60代くらいの品の良い女性だった。カウンターの奥にはコーギーが1匹いて、私の姿をみとめるなり以前から知っている友人のように駆け寄ってきてじゃれついた。犬と遊んだ後、カウンター側の本棚の前に積み上げられた『猫のカルメン』の中の一冊を手に取りページをめくった。物語はこんな内容だった。


 猫のカルメンはある日、森を散歩していたとき、白黒猫の女の子と出会う。鼻が黒くてとてもお転婆だが、賢く優しい女の子だった。二人はしばらく追いかけっこや木登りをして遊んで別れたが、カルメンは彼女のことが忘れられず、どうしてももう一度会いたいと思うようになり、ある日彼女を探す旅に出ることに決める。


 旅の途中、カルメンは豚のエリーゼに出会う。カルメンの話を聞いたエリーゼは、カルメンにこう言う。


「美味しいパンをくれたら、白黒猫の居場所を教えてあげるわ」


 カルメンは牧場に向かい、友達の馬のサンドにどこかに美味しいパンはないかと聞く。サンドはこう答える。


「僕の家のおばあさんは、とびきり美味しいパンを焼く名人なんだ」


「本当かい? そのおばあさんからパンをもらうには、どうしたらいい?」


 カルメンが尋ねると、サンドは言った。


「何か芸を見せればいいよ」


 カルメンはサンドに教わったとおり、おばあさんに犬がやるようなお手と、二本足で歩く技を披露してみせる。それを見たおばあさんは喜んで、カルメンに美味しいパンを一切れくれた。カルメンはそれを口に咥えてエリーゼの元へ走るも、途中意地悪な犬に見つかってしまう。カルメンはこの犬が苦手だった。


「よお、カルメン。うまそうなもん持ったんじゃねえか。俺によこせ!」


 カルメンは犬に追いかけられ、パンをドブに落としてしまう。


 がっくりとして歩いていると、木の上からスズメのチュンに声をかけられる。


「あらカルメン、元気がないわね。一体どうしたの?」


 事情を話すと、チュンは言った。


「私はその猫と友達だから、住んでる場所まで案内してあげるわ』


「本当かい? ありがとう」


 喜んだのも束の間、チュンは不安そうな顔をした。


「だけど、途中怖いワニのいる沼を超えていかなければいけないの。私は空を飛ぶから大丈夫だけど、あなたは食べられてしまうかもしれないわ。それでもいい?」


「いいよ、僕はどうしてもあの子に会いたいんだ」


 カルメンは言った。


 二人は大きなサソリのいる暑い砂漠を抜け、熊のいる深い森を抜け、ついにワニのいる沼地へ足を踏み入れた。ワニたちはギラギラした目でカルメンたちを見た。カルメンはあまりの怖さに引き返そうと思ったが、白黒猫の顔を思い浮かべて勇気を奮い立たせた。


「僕にはどうしても会いたい女の子がいるんだ。彼女に会いたくてはるばるやってきた。どうか、そこを通してくれないかな?」


「ダメだダメだ!」と若いワニが言った。


「そうだ、ここは俺たちのすみ家だ! 知らない猫を入れるわけにはいかない!」


「帰れ、帰れ!」


 ワニたちは牙の沢山生えた口を大きく開けて、2人を追い払おうとした。


 そこにワニの長老がやってきて言った。


「ワシが出すなぞなぞに答えられたら、ここを通してやろう。とても難しいなぞなぞだが、用意はいいかい?」


 カルメンはうなずいた。長老ワニはゆっくりと口を開いた。


「この世界で、一番美しいものは何だと思う?」


 カルメンはしばらく考えたあと、答えた。


「それは、愛です」


「ほほう。どうしてそう思うのかね?」


「なぜなら、愛は何にも負けることがないからです。簡単に壊れることもありません。愛があるから、大きな恐怖や、どんな困難にも立ち向かうことができる。だからこそ、愛は何よりも尊くて美しいのです」


 長老は優しく微笑んだ。そして、一言こう言った。


「ここを通りなさい。そして、一刻も早く愛する人の元へ行くがいい」


 長老は他のワニたちに、カルメンが通れるように橋を作れと命じた。ワニたちは沼の上に橋のように一列に並んだ。カルメンはワニたちにお礼を言いながら、彼らの作ってくれた緑色のでこぼこな橋を渡って向こう岸に着いた。


 スズメに案内されて、カルメンは白黒猫のいる家に向かった。家主は日本人らしく、白黒猫はこたつの中で寝ているらしかった。こたつの前にはチェリーという白黒猫のお姉さんがいて、名を名乗るようにと言った。カルメンは自分の名前を答え、白黒猫に会うためにはるばるやってきたことを伝えた。


「中に入ってもいいけれど、彼女に失礼なことを言ってはダメよ」


 チェリーはカルメンに忠告をした。


 カルメンはこたつの中に入った。電気こたつの中はとてもあたたかかった。こたつの真ん中では、あの時の白黒の鼻の黒い猫の女の子がすやすやと眠っていた。カルメンは彼女を起こしては悪いと思い、彼女が起きるまで隣で眠ることにした。旅の疲れのために、カルメンはぐっすり眠った。目を覚ますと、白黒猫は先に起きていた。彼女はカルメンに向かって微笑んでいた。カルメンは彼女とまた会って話せることがとても嬉しかった。


「他の猫たちは私が寝ているのを起こして自分の気持ちを告げて、恋人になって欲しいと言ったわ。だけどあなたは違った。あなたは私を起こさないで、ただ隣にいてくれた。きっとあなたは、すごく優しい人ね」


 白黒猫はプラムという名前だった。カルメンはプラムに、彼女にどうしても会いたくて遠くからやってきたのだと伝えた。彼が山を越え、砂漠を越え、ワニのいる湿地を渡ってきたことを知った彼女は、余計に心を動かされた。


「私と会うためだけに、あなたは危険を犯して遠くから来てくれた。本当にありがとう。あなたこそ、私が待っていた人だわ」


 カルメンはこれを夢ではないかと思った。試しに自分の前足の肉球を齧ってみたが、ちゃんと痛かった。


 その後、二人には5匹の子どもが生まれた。カルメンとプラムは歳をとるまで、大家族で幸せに暮らした。


 頬を涙が伝った。誰に見られないように、慌てて手のひらで拭う。オーロラがイギリスに行って以来、感動して泣くのは久しぶりだった。


 オーロラはいつの間にかすごい人になっていた。でも、そのこと自体に驚きはあまり感じない。オーロラはきっと世界を代表するような絵本作家になるだろうという、確信めいたものがあったからかもしれない。彼女らしい素敵な物語だった。彼女は子どものときからずっと言っていた。「悲しい話ではなくて、誰かが笑顔になれるような話を書きたいの」と。きっと彼女はこれからも、世界中の人々に絵本を通して希望を与え続けるのだろう。


 夢を叶えた友人のことを、心から誇らしく思った。同時に自分が情けなかった。勉強が負担だからと簡単に大学を中退し、好きでもない場所で暮らし、今までと同じように他人に同調して流されるがまま生きていくであろう自分が。


 そっと絵本を閉じてレジに持っていく。レジの初老の女性に作者と友人なのだと伝えると、彼女はぱっと顔を輝かせた。


「あら、そうなの? 彼女の絵本は、大人も子どもも楽しめる素敵な作品よね。こんな絵本を書ける作者さんは、きっと素敵な人ね」


「ええ、すごく面白くて素敵な子よ」


 本当に、オーロラは私の友人にはもったいないくらい素敵な人だ。彼女に会えていなかったら、私の人生は最高に単調で退屈だったに違いない。シドニーの街でつまらない男たちに囲まれ、両親の喧嘩をする声と母親の愚痴を聞き、学校に行けば休み時間と体育や美術なんかの時間以外は好きでもない勉強を続ける。そんな単調で憂鬱な日々でもオーロラという存在がいたから、毎日を楽しく過ごしていられたのだ。


 家に帰ったら彼女に電話しよう。そして、絵本の感想を伝えるんだ。私はいつの間にか軽くなった足取りで、店を出た。


 夕飯のあと、オーロラに電話をかけた。呼び出し音が鳴る。電話をかけたのは2ヶ月ぶりだった。彼女の声を聴くのが待ち遠しかった。


 7コール目にようやく彼女が電話に出た。


『久しぶり、アヴィー』と懐かしい声が耳に流れ込んでくる。


「久しぶり、オーロラ!」


『出るのが遅くなってごめんなさい、今までエリーゼにシャワーを浴びさせていたの……』


 オーロラの声は憔悴しきっていた。彼女の家にはエリーゼというメスの豚がいる。絵本に出てきた豚だ。前にオーロラは私宛のメールで仔細に語ったことがある。エリーゼにシャワーを浴びさせるのがいかに大変で、体力と根気のいる作業なのかということを。


「お疲れ様」


 私はオーロラに、今日本屋で彼女の絵本を読んだことを伝えた。


『読んでくれたのね、ありがとう』


 オーロラの声はいつ聴いてもシフォンケーキのように柔らかくて、暖炉の火のように温かい。彼女の内面そのものだ。彼女はどんなことも海のような大きな心で包み込む。それが彼女の声と醸し出す雰囲気にそのまんま表れている。


「もちろん読むわよ、あなたの本だもの。感動して店で泣いちゃった。流石オーロラだよね」


『ふふ、あの絵本を完成させるまでは大変だったわ。だけどそんな風に言ってもらえるなんて、描いた甲斐があったわ』


「あんなに人を感動させられる物語を作れるなんて、友達として誇らしいわ」


 友人の成功を、こうして遠くからしか祝えないことがもどかしかった。シドニーにいた時なら、真っ先にプレゼントを買って彼女の家に向かい、おめでとうと言って渡せたのに。そして彼女の母がお祝いのたびに作る、ラズベリーソースのかかったショコラケーキをたらふく食べたのに。


 オーロラは私の心からの賛辞にお礼をしたあとで、思い出したように言った。


『高校の時にあなたがくれたCDを、妹のスノウが間違って踏んづけて割ってしまったの。どこを探しても同じものが無くて……。すごく気に入ってたのに』


 その声は今にも泣き出しそうに聴こえた。オーロラが落胆したり傷ついているのを感じると、私まで胸が苦しくなる。


 高校二年のオーロラの誕生日に、私は『スリランカ料理店で流れているBGM』というCDをプレゼントした。ほとんどウケ狙いであげたものだったが友人はいたく気に入ってくれ、夜寝る前や気持ちが落ち込んだ時に聴いているのだと嬉しそうに語っていた。


 そんなに気に入っていたものなら、もう一度手に入れて送ってあげたい。きっと彼女は喜ぶだろうから。


「こっちで同じものが売ってないか探してみるわ。もし見つけたら送る」


『だけど悪いわ、もう一回買ってもらうなんて』


「申し訳ないだなんて思わなくていいわよ。友達でしょ? 私たち」


『お金は払うわ』


「いいって、いいって」


『だけど……』


「細かいこと気にするのはナシ! とにかく探してみるわ、じゃあね」


 電話を切ったあと、慣れない環境で疲弊し切っていた心に清涼なエネルギーが宿っていることに気がついた。オーロラには不思議な力がある。声だけで人の心を生き返らせられるなんて、魔法使いか何かみたいだ。


 オーロラにはシドニーにまだいた時に電話で両親の離婚のことや退学のこと、引越しのことも全て打ち明けていた。精一杯明るい声を作ろうと努めていた私を労わるみたいに、彼女は声をかけた。


『アヴィー、無理して明るく振るまわなくたっていいわ。私にできることがあったら何でも言ってちょうだい。私はいつだってあなたの味方よ』


 私はその時泣きそうなのを悟られないように、「ありがとう! また電話するね」とだけ言って電話を切ったのだった。人一倍他人の気持ちに敏感なオーロラのことだから、私が電話の向こうで泣き出しそうになっていたことも、強がっていたことも全てお見通しだったはずだ。彼女の言葉は、他の付き合いの浅い何人かの友達の口から出る上辺だけの励ましの言葉とは違う、心からの言葉だとちゃんと分かった。だからこそ、気づかないうちに弱っていた心に響いたのだ。


 オーロラが私の味方と言ってくれたみたいに、私も彼女が困ったときに何か重要なことができる存在でありたい。彼女がこれまでしてくれたことやかけてくれた言葉に比べたら、CDを探すことなんて小さなことかもしれないけれど。彼女の力になれるのであれば、それ以上の喜びはない。

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