二章 名称不明 魂の商人

1 黒幻探偵事務所の現状について

 七月上旬。

 縁喰いと呼ばれる低級の怪異に憑かれた事がきっかけで、黒幻探偵事務所でアルバイトをする事になってからはや一ヵ月が経過していた。


「……到着っと」


 自家用車や電車で通っている大学よりも遥かに自宅から近い立地に有る事務所の入った雑居ビルへ自転車でやってきた真は、今日も大したことは何も無いだろうなと考えながら、事務所のある二階目指して階段を上る。


 あれから一か月が経過したが、怪異絡みの一件には一切関われてはいない。

 故に目的の一つだった【何者か】になれる気配は一向に無い。


 もし一か月前の自分が今の現状を見れば、まさしく何者でも無い普通の人間のままであるが故にこういう場所に出入りしていても怪異の一件に関われていないんじゃないかと思うかもしれないけれど、流石にそれだけは否定したい。

 なにしろ未熟であるが故に現状怪異と関わる事を止められている訳ではないのだ。

 止めるような事すら無いのが正解。


「おはようございます、黒幻さん」


「おはよー白瀬君。今日も穏やかな一日になりそうだねぇ」


「……少しは危機感を持ちましょうよ」


 来客用のソファに無防備にだらしなく寝転がりながら、スマートフォンを触る黒幻霞(21)に、呆れ交じりにそう言葉を返す。


 今日も穏やかな一日になりそう。

 それ即ち昨日までも穏やかな一日だった。

 

 結論だけを言えば仕事が無いのだ。

 この一ヵ月で怪異絡みの依頼が持ち込まれた、或いは首を突っ込んだ回数はゼロ。

 即ち怪異と関わりようがないのが現状という訳だ。


 即ち黒幻探偵事務所は流行っていない。


(慢性的な人不足って言っていたから、山程仕事があるんだと思っていたんだけどな……)


 蓋を開けてみれば霞が事務や経理業務を致命的に苦手としていた結果、大した量が無いのに溜まりがちというのがオチであり、ある意味人手が足りずキャパオーバーしていたのは間違いないが完全に想定とは違いすぎる。

 全国の人手不足な中小零細企業に謝ってほしい。


 そんな訳で真がこの職場でやった事と言えば、思いの外簡単だった事務と経理作業に加えて怪異についての基礎知識の勉強位。

 それを除けば精々、霞が私用で不在なタイミングに表の探偵業務として依頼が来た簡単な調べ事を一件こなした位だ。

 ……そしてこの一ヵ月で、黒幻探偵事務所という法人がこなした仕事もその一件のみ。

 そんな状態だから、霞不在でもその仕事を受けざるを得なかったのだ。


 故に持って欲しいわけだ危機感を。

 経理に携わり台所事情の把握もできている今、全く余裕じゃないのも分かっているから尚更。


「危機感、ね。まあ変に焦ったって空回りするだけなのは目に見えているからね。大事なのは平常心だよ」


 ゆっくりと体を起こしてそう言った霞に歩み寄りながら呆れ交じりに言う。


「少なくとも今そういう事を言えるのは、あの簡単な調べ事の依頼をしてくれた人のおかげですよ」


「…………なあ白瀬君。あれ本当に簡単な調べ事だったのかい? あの一件で結構な額の報酬が振り込まれていた訳だけれど」


「簡単じゃない仕事を俺みたいな素人が一日二日で終わらせられる訳ないじゃないですか。あの人が滅茶苦茶羽振りが良かっただけですよ」


「確かにそうなんだよねぇ……」


 聞いていた話だと他の所だと匙を投げられたって言っていた訳だが、この辺り近辺の探偵業者というのは適当な所しか無いのだろうか。

 そんな事を考える真にどこか納得がいかない様子で霞は言う。


「いやでもキミがざっくり話してくれた概要を聞いてもイマイチ理解が及ばない辺り、やっぱりキミが簡単だと思っているだけじゃないのかい? まあ私が単に一般的な探偵業においては素人他ならないからかもしれないけれど」


「霞さんがどうこうっていうより、直接関わるのと事後報告を受けるのじゃ理解しやすさが全然違うでしょ。立場逆なら多分俺もよく理解できてませんよ」


「そういうものかな?」


「そういうものです。それこそ俺も霞さん以上に素人なので良く分かりませんけど」


 とまあ特に特筆する事も無い終わった一件の話は此処までにして。


「それで話戻しますけど、マジで危機感持たないとまずいですよ。今回のような臨時ボーナスみたいな仕事なんて多分そうないんですから……というか今までよく廃業せずにやって来れましたね」


「一応怪異絡みの仕事は一発一発の単価が比較的大きいからね。あとはいざとなったら身銭を切ってる。先々月は知り合いの居酒屋でほぼ毎日バイトしてたから家賃諸々どうにかなったよ」


「生業として成立してねぇ……」


 そう言ってため息を吐きながら考える。

 当初、黒幻霞という恩人からは危うさを感じていた訳だが……危うさのベクトルが変わってしまった気がする。

 否、あの時感じた危うさも恐らく本物だろうから、変わったというより加わったと言った方が正しいのかもしれないが。


「……ほんと、よくその状態でのびのびできますよね」


 心の底からそんな声が溢れ出る。

 仕方ない。出さざるを得ない。


 だけどそれでも相変わらず余裕そうな口ぶりで霞は言う。


「まあさっきも言った通り空回りするからという理由もある訳だけど、実を言うと金銭的な心配はあまり無いんだ。私から余裕を感じられたならその表れだね」


「先々月完全にフリーターだった人が何言ってるんですか。いざとなったらガッツリバイトするからセーフみたいな感じですか?」


「いやいや、賄いが美味しいのと人間関係良好な事以外は結構キツいからね。いつでもおいでとは言われているけどあまりそっちのお世話にはなりたくない。それに頼らざるを得なくなったら流石に焦る。程よく焦る」


 だがしかし焦っていない霞は、ややドヤ顔気味な表情を浮かべながら宣言する。


「今月の私は違うんだ。例えしばらくの間本業が芳しくなくてもどうにかやっていける天啓が私には下りてきているからね」


 つまりあまり褒められた事では無いが、バイト以外で切れる身銭の当てがあるという事だろう。

 本業回すのに私財を投じるのは本当に褒められた事では無いのだが。

 それは分かっているが一応聞いてみる。


「ちなみにその天啓って一体なんなんです?」


「うん、丁度良い時間だ」


 そう言って霞はソファ前のガラステーブルに置かれたテレビのリモコンを手にし、画面に映像が映る。

 そこには……スタートのゲートに向かう馬の姿が。


「4番、ネオアルティメット。2番人気単勝3.5倍。この子がぶっちぎって1着だ」


 本当に褒められた事じゃ無かった。

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