生がふたりを分かつまで
春光 皓
前編
生とはリセット。
死とは継続である。
ここは「その後の世界」であり、ある意味、本当の余生であるとも言えるのかもしれない。
そこにあるのはただ平等に、誰の元にも「その日がいつか来る」ということだけ。
その日は突然、訪れる。
この世を謳歌する人々はみな、使命のように胸に刻まれた、「その日」を一つの目標に生きている。
夢、理想、希望、未来。
そこから枝分かれするかのように実る、苦しみも悲しみも、喜びも幸せさえも、行きつく先は決まっている。
『絶対』という言葉ほど、あやふやで不明確で不透明なものはない。
『誓い』という言葉ほど、儚く脆く、繊細で尊いものはない。
そして、その言葉を補うのは、いつも『信じる』という根拠のない感情である。みな平等に縛られながら、不自由に行く手を阻まれながら、窮屈な幸せの中で、目に見える真実を信じている。
あの先に、その向こうに。そこにある光は、自分に向かって差し込むことを信じて。
今日も想いを馳せながら、目をつぶる。
前触れも予兆もなく、唐突に始まり動き出す――あの扉を開ける、その日のことを。
◆
スマートフォンを触る時、朝食を取る時、キーボードに手を置き、文字を入力する時。幸介はどんなに些細なことをする時でさえ、指輪を見つめては頬を緩ませていた。
「お前、また一人で笑ってんのかよ。一体どんな思考回路してんだか」
先輩の
「良いじゃないですか。まだれっきとした新婚なんだから」
「新婚ったって……あれからもうすぐ一年が経つんだぞ? いい加減、地に足つけて――」
「俺がここに居る以上、まだ続くんですよ」
柳瀬の言葉を遮るように、幸介は強い意思を込めた視線を向けながら言う。
幸介の気持ちを汲み取ったのか、柳瀬はそれ以上、何も言わなかった。代わりについた長いため息が、事務所を漂う弱めの暖房に乗って、温もりを損なわないままに流れていった。
幸介は再び指輪へと視線を移し、口角を上げる。指輪を見る度に蘇る、小さな記憶。夢のように訪れて、風の如く去って行った、「奥叶」との記憶――。
――四年前。
「ここに来たのはいつ頃ですか?」
唐突に声を掛けられた。突然の出来事に、幸介は思わず肩を竦ませ、慌てて振り返る。
そこには見知らぬ女性が立っていた。彼女は両手を力強く握り、緊張の面持ちで幸介のことを見ている。どこの誰だかはわからないが、今まですれ違ってきた人たちと纏っている雰囲気が違うことだけは明らかだった。
「えっと……どちら様?」
「あ、突然すみません。私、
「奥」を名乗る女性はこちらの反応を窺うように、口元だけで笑みを作り、大きな瞳で瞬きを繰り返している。
名前を聞いただけでは不信感を拭うことは出来ない。しかし、それでも幸介の目に彼女が悪い人とは映らず、こちらからも探りを入れることにした。もしかすると、彼女も今の自分と同じ状況なのかもしれない。
「五十嵐幸介です。奥さんは……あれ、なんか変な感じだな」
幸介の気持ちを察したのか、奥は微笑みながら応える。
「ふふ……結婚してるみたいってよく言われます。『叶』で構いませんよ。結婚もしていませんし」
「すみません。叶さんも、何処か違うところからこちらに?」
「えぇ。実は先程こちらに来たばかりで――」
「え? 私もです。もう何が何だか……」
幸介は興奮のあまり、叶の言葉を最後まで聞かずに言葉を重ねていた。叶は幸介の圧に驚いたのか、大きな瞳を更に見開いたが、すぐにまた優しい表情に戻った。
「じゃあ五十嵐さんも――」
「私も幸介で構いません」
「では……幸介さん。あなたもあの扉から?」
「記憶はありませんが、おそらく。周りに何もありませんでしたし」
「ですよね、私もなんです。それで、取り敢えず歩いてみたら一つだけお店があって……。もしかして、幸介さんもあのお店で家の地図を渡されたところですか?」
幸介の予感は当たっていた。どうやら叶も「あの」体験をしているらしい。
「まるで一緒の状況……のようですね。そうです、私も自宅を目指しているところで」
叶は「そうなんですね」と呟き、ズボンのポケットに手を入れると、折りたたまれた一枚の紙を取り出して広げた。その紙はここから目的地までを描いた地図となっていて、その地図を顔の横まで運ぶと、叶の笑みが
二人は並んで歩き、これまでの話をしながら自宅を目指す。つい数分前まで真っ白で、何も見えなかった世界が色味を帯び、人の数も次第に増えていく。そして、二人は地図が示す場所の前で歩みを止めた。
「こんな偶然ってあるんですね。まさか、家がお隣だったなんて」
「本当ですね。なんだか、こうなることが決まっていたみたい」
「また、お話ししたい……なんて、すいません。図々しいことを」
つい口から出た言葉に、幸介は何とも言い難い羞恥心を覚えた。直ぐに視線を逸らすと、痒くもない後頭部を指で掻く。
「もちろん、私ももっとお話ししたいと思っていました」
「ほ、本当ですか?」
鏡で見なくとも、笑みが零れているのがわかる。その証拠に、叶は堪え切れないといった表情で、手を口に当てて笑っていた。
「ふふ……本当です。お家もお隣なんですから、『自由な時間』を、一緒に有意義に過ごしましょう」
幸介は興奮を抑えきれず、距離感のおかしくなった返事で応える。叶は先程よりも優しく微笑んでいた。
――あの日から半年が過ぎ、幸介と叶は多くの時間を共有していた。互いの家を行き来することはもちろん、ここで見る初めては、ほとんどが隣に叶が居た。叶と話す時間は何処か懐かしく、心地よく、二人の距離が近づくまで、然程時間は掛からなかった。
「不思議だよな。初めてここに来た時は全てが真っ白で、何も見えなくてさ。それこそ『自由』の意味もわからなかった」
隣同士でベンチに座り、澄んだ空を見上げながら幸介は言う。
「そういえばあそこで『自由』について、色々と話をされたものね」
気が付けば、敬語を使い合うこともない。ただ思いの丈を思いのままに口にしては、互いの胸の内で消化する。そして、そこで溶け出した想いが再び言葉となり、会話を交わすたび、二人の距離は駆け足で歩み寄っていた。
空気を閉じ込めるような優しい風に叶の毛先が揺れ、彼女の香りが幸介の鼻先に触れると、心の熱は滲み出た想いを吸収していく。
「そうだったね。でも、あの時は本当に感じたよ。自由ってなんだ? 誰の許可もなく、呼吸が出来ることか? だだっ広い世界を、永遠と歩けることか? それとも、一人の時間を持て余すことなのかって」
「いきなり身に覚えのない場所に来たんだもの、私も同じような感覚だったわ……ところで、幸介がその話をされた時、担当はどんな人だった? 私は良く言えば営業スマイルの上手な、悪く言えば人の心がないような、機械みたいな――」
「柳瀬さんって人?」
「そうそう! 正直、全然理解の出来ない話を、淡々と聞かされた気がする」
叶はそう言って、当時を思い出したかのように笑った。
「わかる。でもさ、今思えばあの人はただ純粋に、ここに居る人たちの――」
幸介がそう言った時、勢いよく翼を羽ばたかせ、広大な空を自由に飛び回る無数の鳩たちが幸介の背中を追い抜いていく。あっという間に小さくなる鳩たちを目に、幸介は決断する。
「――『自由』を伝えようとしてたのかもな。あぁやって行きたいところへ、行きたい人と、寄り添って、戯れて。誰からも口を出されることもない。あの話が本当なら、俺たちの手元に『手紙』が届くまで、どんなことをするのも自由だ」
叶の柔らかな表情が、幸介に伝染する。幸介は一呼吸置いてから、言葉を紡いだ。
「俺はそんな自由を君と……叶と一緒に歩きたい。叶――俺と結婚してください」
その言葉は一瞬、叶の感情を奪うかのように、ひと時の静寂を運ぶ。そして、再び表情に明かりが灯ると、叶は恥ずかしさを誤魔化すように髪を耳に掛け微笑んだ。
「はい。よろしくお願いします」
幸介は互いの体温を一つにするように、叶を強く抱きしめた。
◆
「ほら、そろそろ一人目の客が来る時間だろ? この仕事は最初が肝心なんだから、準備した方が良いんじゃねーの?」
柳瀬の言葉に、幸介は感情を殺して頷いた。「どうして指輪には笑うくせに、先輩の俺には笑顔の一つ見せないのかねぇ」という嫌味に気持ちばかりの笑みを溢すと、幸介はデスクに散らばる資料を一つに纏め、事務所を後にする。
応接室の扉を開けると、そこには既に、額に汗を滲ませた、四十歳半ばの小柄な男性が立っていた。落ち着かない様子で応接室のあちらこちらに視線を動かしていたが、幸介の存在に気が付くと、「あ、すみません」と姿勢を正した。
幸介は指輪以外に向けられた、柳瀬仕込みの自然な作り笑顔で出迎える。
「お待たせしました。どうぞ、こちらにお掛けください」
「す……すみません。失礼します」
男性は幸介に言われた席に腰を下ろすと、トレーナーの袖で汗を拭う。「宜しければ、こちらを」と、幸介が小さなタオル地のハンカチを差し出すと、男性はまるで名刺を受け取るように「頂戴します」と言って、額と首の後ろの汗を拭いた。
「なんかすみません……ありがとうございます」
「いえ、初めてこちらに来られた方は、皆さん同じような反応をされますから」
「そうなんですか……」
男性はうつむき加減で、首だけをヘコヘコと上下に動かした。
『総合コーディネーター』
それが、幸介の仕事である。総合コーディネーターとは、この世界に来たばかりの人間に、住む場所やこの世の理をかいつまんで説明する役割を担う。
端的に言えばそれだけの仕事ではあるが、ここへ来たばかりの人にとっては非常に重要な時間となり、今後に大きな影響を与えるといっても過言ではない。事実、幸介もここへ来たばかりの頃は叶と共に何度もここへ足を運び、世話になった。
幸介がこの仕事を選んだのも、少なからずここでの出会いが影響している。
「えー、
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