第6話 好きな色

 やっと片手分が終わり、きゅっと唇を引き結んで呼吸を殺していたヘンナが息を深く吸った。さて、もう片方の手というところでクローから声がかかった。


「集中してやってくれるのはうれしいんだが、さっきみたいに何か話しながらやってはくれないか?」

「あ、申し訳ありません。気合いが入りすぎてしまって無言に……じゃあ、どんなお話をしましょうか?」

「そうだな。君の、好きなつめの色とかだろうか?」

「すき、好きなつめの色ですか? 私は、特にはないんですけどね」


 つめの色は、例外はあるが大きく七つ、赤、橙、黄、茶、緑、青、紫があり、さらにそこから色の明暗によって明るい、薄い、標準、深い、暗いの5つに分けられる。

 つめの色の好みというのは、ここでは当たり前に出される話題であり、色によって就職や人間関係が有利や不利になってしまうことすらあった。例えばヘンナのような緑のつめを持つものは、穏やかでやさしいために医療従事者に向いており、逆に自己主張ができず、おとなしいために商売人には向いていないと言われた。


「自分の緑のつめは嫌いじゃありませんね。でも、どのつめの色もそれぞれの魅力があります。やっぱり、人によって魅力は変わりますから」

「じゃあ、今流行っている赤いつめについてはどうだろうか? 田舎者でも、赤いつめというだけで今では女性に声をかけられる」

「赤いつめ、そういえば話題になっているのを聞いたことがあります」


 ヘンナは問いかけながら、そっとクローの指先に手を沿わせて角度を変えさせた。クローの赤いつめはぽっと暗闇でも火が灯ったように輝くので、手全体が赤みがかった印象になる。それは悪いことではないのだが、指の血の巡りがどうなっているのか見ただけでは判別がつきにくかった。手袋越しに温度を確認しているヘンナに、クローが苦笑する。


「君はあまりゴシップとかは興味ないか? 貴族ばかり狙う義賊とかいう……」

「ああ、赤いつめの怪盗ですね。友達が好きみたいで、その記事が載っている新聞を買っていました」


 そんなこともあったと返事をしながら、ヘンナは指先まで血が巡っていることに満足して頷いた。そして、また器具を動かして甘皮を丁寧に押し上げていく。クローはその作業をできるだけ見ないようにしながら、そっとカーテンのかかった窓へと視線を向けた。


「赤いつめを持っているという情報しか明らかになっていない義賊だ。つめの色しかわかっていないのに、なぜか人気だろう。おかげで連日義賊の話題がゴシップ紙で大げさに報じられているし、ファンを名乗る者たちまで現れているな」

「そういうことなら、私の友人もファンなんでしょうか。正義の怪盗、赤いつめを光らせ夜闇を駆るみたいな見出しでしたっけ」


 犯罪者ではあるのだが、貴族ばかり狙うので町で生活する市民に被害はない。むしろ、貴族たちを出し抜いて、憲兵や警備隊を駆け回らせている謎めいた怪盗という存在に心惹かれる者も多かった。とある詩人は、見たこともないその怪盗の素晴らしい姿を讃える詩まで発表していた。正義感が強いと言われる赤いつめの持ち主ということもあってか、これは世直しだ、悪の貴族から不当に所有している金品を取り返しているのだと人々は騒いだ。長い間憲兵たちが怪盗を捕まえられていないのも、何か後ろ暗さがあるからだと噂する者もある。

 そこで、ヘンナは同じ通りで雑貨屋をしている女将から、赤いつめの怪盗にかこつけて商売したら儲かるんじゃないかと言われたのを思い出した。


「あ……じゃあ、クローさんの今日のお代を割引しましょうか。怪盗キャンペーンということで、赤いつめの方にはサービスしましょう」

「そういうつもりで言ったんじゃないんだが。君は、特に怪盗に思うことはないのか?」

「思うこと、ですか? ……わざわざ怪盗は、顔も何もかも隠しているのに素手なんだなとは思いました。泥棒は繊細な技術が必要だから、手袋をしていられないんでしょうかね」


 赤いつめだということがわかっているということは、怪盗は手袋をしていなかったということだ。夜の闇に赤いつめは目立つだろうにとヘンナは思っていた。

 そう言った瞬間に、触れていた手がぷるぷると震え始めるので一旦作業を止める。見るとクローは唇を噛みながら笑いをこらえているようだった。固定しようとしても震えるので、ヘンナは諦めて笑いが収まるのを待つために一旦器具を置いた。


「クローさん、大丈夫ですか? 動いたら危ないですから、笑いは今のうちに出しきっちゃってくださいね」

「ふっ、今のでぶり返してきた……。すまない、もうちょっと待ってくれ」

「え、何ででしょう。一応気分を落ち着かせるマッサージをしておきましょうか」


 手のひらが上になるようにひっくり返して、手首から指三本分ほどの場所をヘンナは親指で押した。そこから力を緩めて手のほうへと滑らせていて、親指と人差し指の間をまたゆっくり押す。手首から手のひらへと何度か手を滑らせて繰り返す。最初に触れたときより随分温かく、そして肌も柔らかくなっている。そうしているうちに、笑いによる震えは止まったようだった。


「それでは、再開しますよ。いいですか」

「ああ、すまない。……でも、面白い視点だ。怪盗はよほどのナルシストか、自己顕示欲が強いのか、それとも……」

「あ、だめですよ。施術中は怪盗の話題はやめておきましょう。笑っちゃったら危ないですものね」

「怪盗のせいで笑ったわけじゃないんだが、君が言うならそうしよう。じゃあ、好きな魚料理の話題にするか」


 最後の甘皮に取りかかっているヘンナに、クローがまた違った話題を振ってきた。初めの印象よりもよくしゃべる人だなと思いつつ、返事をする。


「魚料理だと、私は蒸し焼きをよく食べますね」

「蒸し焼きは魚の身がふわっと柔らかくなるな。でも、私は脂がのったのをじゅうじゅうに焼いてあるのが好きだ。端のかりっとしたとこが最高にうまい」

「でも、魚って肉よりもお高いんですよね。ついつい安い肉ばかり買っちゃうので、魚料理のレパートリーがあまりないんです。……さて、一旦終わりました」


 全てのつめの甘皮を押し上げて、クローのつめの根元には浮き上がった白い皮がはっきりとわかるようになった。さらに、これを取り除いていく必要がある。

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