二十七年前

 キャッチザモンスターが世に出たのは二十七年前。


 私たちが今の祐介と同じ小学四年生の頃だった。そのキャッチザモンスターの人気はあっという間に広まり、冴えない男の子も女の子もキャッチモンの存在を知っているだけでクラスの人気者になれた。さすがに高校大学だとそこまででもなかったようだが、その時からゲームとしての面白さに気付いていたと言うよく言えば目利き、悪く言えば通ぶった存在の中でキャッチモンは話題になっていたと私の教師時代の同僚で当時今の私と同じ三十七歳ぐらいの人に聞いた事がある。

 もちろん、子持ちの親にもその存在は波及し始めていた。私は女の子と言う事もありなんとなくゲームからは距離を置いていたが、それでもまだ出始めの頃のグッズなどは人並みに目を付けていたし、何個か買ったりもした。今それらがどうしているのかは覚えていないが、少なくともその時は私が進んで買おうとした程度には気に入っていた。




 とにかく、そんな存在を藤木譲と言う小学四年生の男児が欲しがるのは全く当たり前だった。

「そんなお金どこにもないけど」

 藤木玉枝がそうにべもなく断ると、譲と言う少年はいったん諦めた。

 ほんの数分だけ諦め、お行儀がよろしくなれば母親の心もほぐれるかもしれないと思って机に向かう。だが机に向かってお勉強してみても成果はたいして上がらず、去年までと同じように唸るだけ。配膳やらお使いやらの家事を手伝いまくるも、母親はちっとも首を縦に振らない。

 そしてその度に、テレビを含む世間から情報の洪水があふれて来る。マスコミの皆様としてはキャッチザモンスターと言う急浮上コンテンツを取り扱わない訳に行かず、普段その手の事に関心のないおじさんたちでさえも呆れたり感心したり、時には不可解だと言ったりしていた。

 思えばこの時の大人はまだ誕生して十年少々の代物を理解できず、その爆発的な存在に恐れを抱いていたのだろう。



 もっとも藤木玉枝と言う人間が抱いていたのは、もっと別の感情かもしれない。



「……」

「いつまで起きてるの」

「あと三十分だけ」


 藤木譲と言う、出来のいいとは言えないはずの息子が急に真面目になった。お手伝いを進んでするようになった上に朝から夜まで机に向かう時間も増え、成果こそ上がらないが遊びほうける事はなくなった。自分たちがあれほど言っても聞かなかったのに、急に目覚めたかのように人が変わった。

 何とかして親の気を引き、さらに自分の小遣いで買おうとしたのかその日からお菓子を食べなくなった。中背ではあるが中肉ではなくむしろやせ型だった夫はさらに細くなり、元から底辺に近かった体育の成績はさらに低下した。

 そして悲しい事にいくら頑張ってもゼロ点常連から五十点行くか行かないかにしか、夫の成績は上がらなかった。

「本当に真面目にやってるの?」

 自分なりに真面目にやっていたのに、この言い草だ。もちろん直に聞いた訳でもないが一応は成果が上がっていたはずなのにそんな事を言い触らすのだから、私を含めクラス中の人間の耳に彼女の言葉は侵入していた。それで笑う人間は笑い、眉をひそめる人間は眉をひそめた。


 そんな夫はたまたま成績優秀だった私に救いの手を求めた。と言うかだんだん弱って行くような夫を、私が放っておけなかっただけだ。

「勉強を教えて欲しいの」

「うん…」

 その時の夫は、まるで赤ん坊の様だった。自分が守らねばすぐさまくじけてしまいそうなほどに、弱々しく情けない。

 でも不思議と保護欲を醸し出され、誰かが守らねばならないとさえ思えて来た。



「それならいいんだけど」



 一緒に勉強するからの五文字で簡単に釣られた玉枝さんを半ば無視し、その日から今の夫である藤木譲は我が家を私塾として利用するようになった。レッスン代はゼロ円だ。

 くどいようだが、夫は出来の良い小学生ではなかった。それこそ一から嚙み砕いて教えねばならず、時には少しばかりいら立つ事も多かった。でも夫はとにかく真摯に私の話を聞き、何べんも何べんも同じ質問を繰り返した。そして決して文句を言わず、おおむね二時間ほどの「授業」を受ける「優等生」になっていた。

 で、成果は比較的あっさり出た。

 ほんの数回ほどの「授業」で藤木譲は五十点の壁を叩き割り、七十五点にまで行った。やるじゃないかとかこれも政美ちゃんのおかげかよとか言われたが、譲は肯定も否定もしなかった。ただあいまいにほほ笑むと言う、日本人らしい事をしただけだった。

 だがその一枚のテスト用紙は、肝心要な存在にとってはただの紙っぺらだった。



「まだまぐれじゃないとは限らないからね。この結果を続けてこそ立派なの。わかったら間違った部分をよく見なさい」



 まったくにべもない言いぐさで、自分なりの快挙をばっさりと否定した。確かに一回だけ、一教科だけではそうかもしれない。だが自分の子どもの成功によくやったの一言もないのは正直いかがなものかと思うし、顔だけでも笑おうとしないのはもう異常だった。

 そんな存在を何とかして打ち破るべく、やけに着る物が良くなった藤木譲はさらに勉強した。

 週一だったのが週二になり、私も自分自身の予習復習になるからと乗っかり、私塾から勉強会のようになって行った。

 私より成績の良かった萩野君を呼んだ事があったが、萩野君と藤木譲は同性としてのライバル意識があったのか折り合いがあまりよくなく、さらに藤木君に対しては私自身もいい印象はなかった、と言うかなくなった。彼から私や譲の本来の目的がばれる事はなかったとか、そんな問題ではない。


「これわかってなかったの?」


 ある日彼から飛び出した声。

 その調子を聞けば悪気のないのはわかるが、字面だけ見るとかなり悪気があった。


 しかもその前のテストの点数が八十五点から八十点に落ちたから躍起になっていた譲に対してこういう時はいったん基礎に立ち返れと私が言ってその通りにさせ、実際底に穴があったのに気付いてよしと思った瞬間に出た物だから、それこそタイミングとしては最悪だった。

 譲は聞こえていなかったのかどうなのかノーリアクションだったが、私はその言い草で萩野君を見放した。

「ごめんなさい、今日はここまでにするわ」

「ちょっと政美ちゃん」

「そんな気分じゃなくなって」

「ぼくなんかした?」

「譲君は何も悪くないから!」

 動揺する譲を前に目をぱちくりさせる萩野に向かってシッシッとばかりに手を振ると、萩野は頭に疑問符を浮かべながら私物をしまい込んで帰って行った。

 今は農林水産省勤めらしいけど、あんなお役人がいてこの国は大丈夫だろうかと思う程度には彼の言葉は無神経だった。


「で、ダメだったの」

「ダメ。ほら見なさい油断するとすぐ落ちるのよって」

「でもそのきれいな服は」

「最近買ってくれたんだよねお母さんが」

 とにかく二人きりになった部屋で玉枝さんの事を聞き出すと、全く想定内の答えが返って来た。それ以外ならば何でも買ってあげるからと言わんばかりの行いを平然と見せつけるその姿は、とてもまともな人間のそれに見えなかった。

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