息子は父の父

「本当にいいのかい」



 家庭内での夫の口癖はこれだ。お仕事で疲れ果てて昼寝をするのさえも、私に許可を求めようとする。私がいない場合はそれこそ家事の代わりをし、たまに遊んでいるかと思えば息子と一緒にゲームとかをやっているだけ。

 平たく言えば、自分のために何かをする事はない。


 そんな夫が、職場では自由人かつ職人気質とか言う奇妙な形容詞で呼ばれているのは私も知っている。まるで別人だ。職場でこそ緊張して家ではくつろぐのが普通じゃないのかと親や同級生に聞いた事もある。相手は困った挙句、人それぞれだしとか言う当たり障りのない言葉で片付けられた。


「あのね祐介、お父さんは疲れてるの。少しは休ませてあげて」

「うん」


 祐介が陸上を頑張るようになったのは、私のせいかもしれない。家事でなければ息子の面倒を見るのが日課になっている夫を強引にでも休ませねば、いつか壊れてしまう。ぶしつけだがせめて祐介が一人前になるまでは頑張ってもらいたいし、祐介のためにもいい父親でいてもらいたい。

 だからあの子は外に出るようになり、陸上と言う趣味を見つけた。

 それこそ、親がそんなに構う必要もない、ただ走るだけの競技。もちろん本格的に入れ込めばそんな簡単な話でもないが、陸上競技の順位ってのは実に分かりやすい。走るならばタイム、投げるならば距離。順位なんかは相対的であり、何ならずっと最下位でも成長を感じる事はできる。素晴らしい話だ。

 だが、息子はあまり夫にタイムの事を自慢しない。代わりに私に向かって今日は何秒早くなったとか何回走ったとか言って来る。その話を聞かされるのは嫌いではないし、むしろ楽しくもある。ありきたりだが息子の成長が楽しい。

 そして夫は、もっと楽しもうとしている。息子の成長を我が事のように喜び、自分の手で褒美を与えようとする。ただあくまでも物ではなく、行動で。

 それこそさっきのように。もちろん宿題を一緒に見てやる事もある。

「えっと、これって…」

「そこはこうして、ああして……」

 優しい笑顔をしながらうなずくその姿は頼もしく、夫であり父であるそれだった。




 そんな人間が服を買いに行くとか聞いた時は少しだけ感心し、帰って来てすぐにため息を吐いた。


「全部部屋着じゃない、トータルいくら?」

「一万円でお釣りが二千円出たからついでに買って来たよ」

 四着のファストファッションな服と、妙に豪勢そうな四つのケーキ・一個五百円。

「自分のは」

「いいんだよ、僕甘いの苦手なんで」

 その後息子と一緒に必死に説いて四つの内二つをそんな事を言い出す夫に押し付けた。そしてとりあえずケーキを口に運んだが、味がいまいちわからない。息子さえもなんとなく流れ作業的に口に運んでいるだけで、まずいとさえ言わない。

「すごくおいしいよ」

 いや、半分ほどなくなった所で初めてそう言ったが、一年生の時桃太郎の学芸会で犬の役をやった時よりもずっと下手くそな演技でそう言われても説得力などない。その時たかが小学三年生だった存在に何を期待しているのかと言う話だが、正直物悲しい。


「あなたのやってるのはご機嫌取りって言うの。そんなにも祐介に嫌われるのが嫌なの」


 だから後でそう説教してやったが、夫は素直に首を縦に振るばかりだった。

 しかも言うまでもなくお金の出どころは小遣いと言う名の自腹であり、ある意味家族の共通の財とでも言うべき所に自腹を切る理由は多くない。ましてや、息子のご機嫌取りなどに。

「あの子の方が雑なんだから、毎日毎日陸上とかって走り回っていれば汚れなければ何かの間違いですよ」

「女の子とかパパ臭いってよく言うしさ」

「あの子は男の子ですよ。私がおばさん臭いって言われるんです」

「じゃあ君の」

 話を変えようとしてもこの調子だ。あなたいい加減にしてくださいなんて言えるはずもない。結局万札を財布に押し込んで黙らせたが、それから少しばかり祐介は夫から遠くなった気がする。

 何と言うか、夫の顔色を読んで動く事を覚えてしまった。その分よく言えば聞き分けの良い子、悪く言えば嫌な大人になってしまったとも言える。

 その代わりのように私にはよく甘えるが、それもそれで困る。息子には未だに、パパの服の袖が汚いと言ったことが原因だと教えていない。ケーキを食べる様子からしてなんとなく察しているだろうし、気付いていなければそっちのが幸せだろう。




「今は特にないよ」

「ならいいんだ」


 私だけでなく息子にも申し開きを求める姿に、一家の主の威厳はない。毛布を掛けながら座布団を枕にする姿は疲労困憊と言うより、心底からの安心を感じるそれだった。

 私と、息子の了解を得て、ようやく。

 

 この顔を見るだけで、私はやるせなくなれる。

 まるで、今まで許されていなかったかのように。

 もちろん夜眠るときもそうなのだが、正直自分で自分を急き立てているように見えて痛々しくも感じる。


「ちょっとゲームやってていい」

「いいけど音は小さくしてね」


 祐介は自分の部屋にゲーム機を持ち込むべく、音を立てないまま歩く。昼間のパパはとか言う昔の歌は知っているけど、実際昼間の夫はかっこいいのかもしれないし、祐介が憧れるにふさわしいのかもしれない。しかし、その姿はどうしてもこれとは重ならない。

 いびきの代わりのように立てる寝息は異様なほど安らかで、邪魔する理由もないから聞いているととても幸せになって来る。もっとも私はその隙に料理洗濯買い物を済ませねばならないのでほとんど聞く暇のないBGMだが、少しばかり惜しい。


 私は、昔からこの寝息を知っている。

 心底から安心し、許されたと感じた人間の前でしかしないような寝息。それこそ生まれて来たばかりの祐介が私の腕の中で立ててくれたような、心を安らかにする寝息。ただその代わりのように祐介はそのままおむつを濡らしてしまう事も多く、その度に苦笑いしながら私や夫がおむつを替えていた。ああもちろんおむつ離れに成功してからも祐介はこんな寝息を立てていたが、夫のこれは受け継いでいない。

 と言うか、絶対に受け継いでほしくない。



「うちのお父さんはとてもりっぱなおしごとをしています。ぼくらがたのしくあそんでいるおもちゃを作ってくれたのがおとうさんで、そんなおとうさんがぼくは大すきです。それからお休みの時は、おりょうりを作ってくれたりいっしょにゲームであそんでくれたり、おかいものにもつれていってくれています。そんなおとうさんがだいすきです。

 ですけど、おとうさんはお外でまいしゅう五回もおそくまでしごとをしているのでたぶんすごくつかれているとおもいます。ですから、おとうさんは少しぐらいおひるねしていてもいいとおもいます。でもおとうさんはいやがります。そんなおとうさんは、だいすきだけどちょっとふあんです。」


 授業参観日に読まれた祐介の作文である。


 そんな作文を書かせるのが私の夫だった。



 夫はこの時有給休暇が取れないとか言って来れなかったのは残念がっていたが、本当にまったく正確な作文で先生が取り上げたのは一種の才能だっただろう。もちろん夫の事だから三者面談にも毎回のように出ては担任と触れ合い実情を掴んでいたのだろうが、その際にも妻として夫の過労と言うかワーカホリックぶりを夫の前でぶちまけた事もある。

 夫はそんなぐらいしか言わなかったが、担任の先生はうなずきながらも顔が引きつっていた。


 —————あれが、わかりやすい世間一般の答えだ。

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