第三章 その2

 ぼくはランドセルをおろして、父に近づく。

「ああ……帰っていたのか……」

 父は振り返らずに、手でぽんぽんと床を叩いた。座布団もクッションもないところに直接座るのは足が痛くなる。それでもぼくは大人しく父の隣に座った。

「ねえ、父さん……」

 ぼくは聞いてもいいのかどうかわからずに、途中で言葉を止めた。父さんの雰囲気があまりにも儚げだったからだ。

「これからは、お父さんと二人で一緒に暮らしていこうな」

 父は遠い目をしたまま、小さく言った。心の中で大量の疑問が渦巻く。だが、父の横顔を見ると、何一つ問いかけることができなかった。それで仕方なくうなずいた。

「うん、わかった……」

 ぼくがそう言うと、遠くを見つめたまま、手だけを伸ばしてぼくの茶色の髪を撫でてくれた。

「うん、うん。いい子だ」

 なにがいい子なのかわからなかったぼくは大人しく頭を撫でられていた。ふと父のもう片方の手に目が行く。そこには母が入った宗教団体のチラシがくしゃくしゃになって握られていた。白虹の会という太い文字で印刷された部分が歪んでいる。

 父はぼくの頭を撫でつづけながら、目は明後日の方向を見ていて、ぼくに顔を向けていなかった。

「あいつらのせいで、母さんは……」

 普段穏やかな父がだす、低く唸るような声をぼくはしっかりと聞いた。


 目を開けて起き上がると、父が頭を撫でてくれた感触が、まだあるような気がした。ゴツゴツとしたあの手が、不器用に動くその感覚が。昔のことだ。

 白虹の会のことを思い出しているうちに眠ってしまったようだ。

 茶色っぽい髪色の子供は、髪色はそのままで大きくなり、小さな子供連れて旅をするようになった。

 立派な逃亡者として。

 ふと、自分が見知らぬ部屋にいることに気がついて焦る。素早くあたりを見回して、家具や部屋の輪郭を確かめていくと、カワグチさんの家に泊めてもらっていたのだと思い出す。

 まだ夜は明けていないのか、障子から差し込んでくる光も弱々しく、暗かった。

 軋む体を起こして大きく息を吐く。

 カタンと小さな音が外から聞こえてきて、緊張が走った。体を硬直させてあたりを伺う。追ってきた男たちか? それにしては様子がおかしい。その後に続いたのは、コツコツとアスファルトを叩く杖の音。

「カワグチさん……?」

 俺は立ち上がって、そっと隣の部屋のふすまを開ける。カヨは布団のはじっこで、こちらに背を向けて寝ていた。一緒に寝ようと誘った張本人はいない。俺はふすまをそっと閉めると、素早く着替えて音を立てないよう玄関から出ていった。玄関にカワグチさんの靴はない。

 外に出ると、空はほんのりと白み始めていた。もうすぐ日の出だ。冬に向かい始めている季節の早朝は寒い。トレンチコートを着ているが、意味をなしているようには思えない。カワグチさんがどこに向かったのか……。考えなくてもわかった。俺は昨日の道順を思い出して海に向かう。あまり行きたくなかったが。

 薄暗い中だったが、カワグチさんの姿をすぐに見つけた。崖をバックにすると、人の白い服は目立つ。

 カワグチさんはご主人の遺体のそばに立っていた。ビニールシートは外されていて、遺体の全身が見える。

「どうして……そこに立っているんですか?」

 聞かなくてもわかる。だが、聞かなければいけない気がした。カワグチさんはぼんやりと海を眺めていたが、すぐに俺の方を向いた。

「カヨちゃんのそばで花になってはいけないでしょう?」

 俺はうなずいた。カワグチさんは微かに笑い、短歌をそらんじた。

「植えし植えば秋なき時や、咲かざらむ、花こそ散らめ……根さへ枯れめや」

 彼女のその笑い皺が深まった。目尻の皺も。最初、それは日の光が強くなってきたせいだと思った。

 カワグチさんはそっとため息を吐いた。

「天候が悪くて花壇の花が咲かなかった年があったの。毎年楽しみだったからすごく残念だったわ。栄養が足りなかったのね。だから、肥料を買って、花壇に蒔いていたの」

 唐突にカワグチさんの姿が歪む。頭も顔も膨らみ、丸みを帯びている部分と、尖っている部分と無数に発生した。肌が見えている場所だけでなく、服も膨らみ、歪になっている。

「その時、主人が作業中だったわたしの後ろから詠んだ和歌よ」

 人の姿とはもはや言えなくなった。

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