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 聞き覚えのないアラーム音が耳の中で反響していた。

 ゆっくりと瞼を持ち上げたけど、ぼんやりとした視界の中で激しい陽光に網膜を焼かれて瞼を閉じてしまう。まずは床に手を這わせてスマホのアラームを切る。目を閉じたまま身体を起こして、軽く欠伸を漏らす。なんだかやけに身体が重い。寝起きというだけでは済まされないような重さだった。腕の一本持ち上げるのも億劫に感じる。風邪でも引いたのだろうか。なんとなく、喉の内側がざらついているような感覚があるし。

「あ……あっ、ああ、あー……。あ?」

 自分の声が重かった。少し喉に力を入れないと声が出せない。口から吐く息に物質的な重みが伴っているような。

 目を開けて、ぼんやりとした視界のピントが合ってくると、そこは実家の自分の部屋ではなかった。見慣れない和室の壁際に置かれた布団の上に、私は座っていた。机と本棚が置かれているだけの、六畳ほどの簡素で質素な部屋。

「どこだ、ここ……」

 男の声が聞こえた。反射的に辺りを見回すが、この小さな部屋に私以外の人間の姿はない。

 状況が不明瞭すぎて、ふと息を呑んだとき、喉の管が急にぐっと引き締まるような感覚があった。息を呑んだだけでこれほど激しく喉が収縮することなんて……。

 嫌な予感とともに、自分の喉にそっと手を当てる。

「……なんだ、これ」

 喉が妙に出っ張っていた。というか首が妙に熱くて太い。そのまま顔に手を沿わせると、顎の下辺りがざらついていた。

 これは、もしかして……。

 自分の身体を見る。色んな部位に手を押し当てて触る。胸が平たくて固い。手の甲がごつごつと骨ばっている。指先が細くて長い。拳を握るたびに手首の脈がミミズのように蠢く。腰回りが細く引き締まっている。

 そして、ズボンとパンツのゴムを一度に掴んで引っ張って、その中身のシルエットに見覚えがあることがわかると、私は布団から飛び起きた。

 家中の扉を片っ端から開けて洗面所を探す。わざわざ洗面所を探さなくてもスマホの内カメラを使えば良かったと途中で気づいたがもうさっきの部屋まで戻るほうが面倒だった。

 階段を下りてそばにあった扉を開けると、目の前に洗面台の鏡が飛び込んできた。

 やっぱりそうだ。

 私の目の前の鏡には、リョウの呆けたような表情が映っていた。

 一旦深呼吸をする。すると鏡に映るリョウも深呼吸をした。今、私が置かれた状況は理解できた。ちょっとしたイレギュラーだけど、これくらいなら容易に対応できる。

 全く見知らぬ家だったが、さっき家中を駆けずり回ったおかげでだいたいの間取りは把握できた。

 リビングに行ってみると、リョウの母親が朝食を用意していた。私はこの母親に一度会ったことがある。リョウは大学生になっても毎朝母親に朝食を用意してもらっているのか、と少し驚いたが、用意されたものは遠慮なくいただくことにした。

 リョウと私は全く同じ時間割を組んでいるため、リョウの身体になっても大学に行く時間はいつもと変わらない。いつも通りの時間に家を出て、電車を乗り継いで、駅から大学への道のりを歩いていたところ、不意にスマホがぶるぶると震え出した。

 実家の固定電話の番号が画面に表示されていた。

「……………も、も、もし、もし?」

「リョウ? どうしたの?」

「あぇっ! えっ、いや、どうしたのじゃ、ないでしょ……」

 やたらと狼狽した女の声が聞こえる。

「あっ、あのさ、ナツキ、なんだよね?」

「そうだよ。私はリョウの身体に入っているナツキだよ」

「ぼっ、僕、朝目が覚めたら、その……、身体がナツキになってて……」

「今起きたの?」

「えっ、そうだけど……」

「もう一限には間に合わないね。それって私の欠席になるのかな?」

「……ねぇ、今はそんなこと気にしてる場合じゃなくない?」

「リョウさぁ、私の部屋のもの勝手にいじったりしてないよね?」

「えっ? とっ、特には、何も触ってない、けど……」

「別に私の身体はいつもみたいにべたべた好き放題いじくりまわしてもらっても構わないけど、私の部屋のものは絶対に何も動かしちゃダメだからね。あとスマホのパスワードはリョウの誕生日に設定してあるから、今度から連絡するときはそれ使って。家の固定電話はできるだけ使わないようにして」

「え、勝手にスマホ使ってもいいの……?」

「いいよ。リョウに見られて困るものなんて何も入ってないから」

「そ、そっか……えっと、僕のは……」

 リョウは迷うように言葉を詰まらせた。私は構わず話を続ける。

「とりあえず今日は大学来てよ。直接会わないとわからないことも色々あるだろうし」

「ああ、うん、わかった」

「じゃ、またね」

 リョウが受話器を置く音を聞き届けてから、私は通話を切った。

 やはり私とリョウの身体は入れ替わっていた。入れ替わったのが肉体なのか魂なのか、どういう超常的な力が働いてこうなったのか、何らかの存在の意志がこの事態を引き起こしたのか、謎は深まるばかりで何一つ究明への糸口は掴めないが、しかしこの状況は私にとってある意味好都合でもあった。

 自分がリョウの身体を自在に操れるようになったらどれほど良いだろう、という馬鹿みたいな妄想を私はこれまでに幾度となく繰り返してきた。それが今、こうして実現している。

 懸案事項があるとすればリョウだ。リョウは自分の身体を失って私の身体を手に入れたことに困惑しているようだった。あの様子だとほぼ確実にリョウは自分の身体を取り戻そうとするだろう。しかし私はお互いの身体が入れ替わったまま生きていくことになっても別に構わないと思っている。だから私はこんなに冷静でいられる。

 男の身体になったことに意味があるんじゃない。リョウの身体になったことに意味がある。

 いつもよりも高い目線から見る通学路に心躍らせながら、朝の澄んだ空気の中を歩いていった。

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