第14話 愛

「お願い。別れて。それが幸希くんのためなの、わかるでしょう?」

 幸希くんが手を伸ばして、彼女の手をふりほどこうとする。けれど、しっかりと爪が私の肩に食い込んでおり、無理に引っ張られた痛みで顔をしかめると、彼ははっとしたように手を離した。

「おい、離せよ」

「やだ、別れてくれないなら離さないから」

「ちっ、こいつ……!」

「わ、私……!」

 思っていたより大きな声が出た。

「私、幸希くんのことが好きなの」

 涙がこぼれた。

「ごめんなさい、大好きなの。ごめんなさい……」

「三緒さん、何で謝ってるんだよ、謝ることなんて何も……」

「ううん。だって、やっぱり始まりが間違っていたから。だから、一緒にいちゃいけないって、幸希くんのためにならないって、頭ではわかってた。ずっと気づかないふりをしてたけど……」

「何言ってるんだよ、僕は……!」

「ごめんなさい、大好き、でも、一緒にはいられない」

「三緒さん!」

 私の両肩に食い込んでいた手がゆるみ、だらんと離れた。私は、彼女の顔も幸希くんの顔も見たくなくて、視線を逸らした。

「何も後ろめたいことのない人と、みんなから祝福されて、まっさらな幸せをつかんでほしい。それが幸希くんにはふさわしいから」

「僕のことを勝手に決めんなよ!」

 私は女子更衣室に向かって走り出した。

「三緒さ……離せよ、邪魔すんな! 離せ!」

 彼女たちが彼にしがみついて動きを封じてくれたおかげで、私は更衣室に逃げ込むことができた。きっと私がプールを出ていくまで時間を稼いでくれることだろう。幸希くんが女の子に手をあげる人じゃなくてよかった。

 着替えずに大急ぎで濡れた水着の上に服を着て、幸希くんに見つかることなく帰宅した。



 そこから逃亡の日々が始まったと言ったら大げさだろうか。仕事をやめて、アパートを引き払った。夜逃げを手伝ってくれるという業者に頼んだから、忽然と姿を消すようにして引っ越すことができた。ほかにはスマホの番号も変えたし、その他もろもろの手続きにより、かつて私を知る人たちは一切連絡がとれなくなった。


 漁港近くのアパートを借りて、漁港の市場内にある職場に勤め始めた。パートだから時給は安いけれど、どうにか生活はできている。

 新しい土地、新しい住まい。なんだか生まれ変わったような気持ちだ。


 奥さんに先立たれたという漁師さんから頻繁に飲みに誘われていたけれど、断り続けていた。するとある日、自分は遊びではなく、将来のことも視野に入れた真剣なお付き合いをするつもりです、そうはっきり言われた。良い人だし、この人と一緒になったらあったかい家庭が築けるんだろうな、そう思ったのに、やっぱり私は断ってしまった。そのときの彼の残念そうな顔と、でも妙にさっぱりと納得した顔を見て、彼も誘い疲れていたのかもしれないなと思った。

 いつまでも誰かひとりのことをずっと思い続けるのは難しい。


 夕方、仕事が終わると、売り物にならない小魚や傷のついた魚をもらって、アパートに戻る。時給は安いけれど、魚を買わなくていいのがこの職場のいいところだ。私もすっかり魚料理が得意になってしまった。


 海風の吹く町で、穏やかに日々を送っていると、これが幸せというのかもしれないという気持ちになる。何かが足りないような気がする日もあるけれど、そういうときには港に住み着いている野良猫を撫でていると、いや、これでいいんだという安らいだ気持ちになった。

 いつしか野良猫は私を見かけると駆け寄ってきてすり寄るようになった。すっかり懐かれたようだ。「これは桃さんが自宅に連れて帰る日も近いな」と、職場の皆さんは予想しているらしい。

 桃さん。それが私のあだ名である。桃井だから桃さん。なんだか不思議な感じだ。野良猫にも「梅ちゃん」というあだ名がついた。桃の子分だから梅だそうだ。

 その日も、いつものように仕事終わりに魚をもらい、そこからいくつか取り出して、職場の流し台を借りて三枚におろした。身を茹でてやってから、ブリキのバケツに入れてこんこんと叩き鳴らしながら港を歩いた。


「梅ちゃん、桃さんが来たよ」

 いつもなら物陰から黒猫が飛び出してくるのだが、今日はどういうわけか姿が見えない。

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