第六章 真紅の聖女

 マシティア帝国北部は小領主たちが治める土地が多々あり、それら一つをとってみれば戦力は少なく、ひとたび大きな反乱が起きれば鎮圧には甚大な労力を必要とする。その上、領主や臣下たちは堕落しきっていて、戦う意欲も薄い。解放軍はそうした支配者側の隙のおかげで生まれて、今日まで存在していられている。

 解放軍の参加者は二百人程度であり、今まで剣すら振るった経験のない者がほとんどだ。たった二百の、戦いに不慣れな者たちの集団が、数十万にも及ぶ帝国の兵を相手にしようというのだから正気ではない。リシェルはマシティアの広さ、敵の数、仲間たちの数をバスタロンゼから教えてもらった時、あまりの戦力差に言葉を失った。数字の上では解放軍に勝機は一つもなかった。

「帝国の戦力が圧倒的であることは間違いありません。ですが、現に我々はいくつもの勝利を経て此処まで来ています。小さな土地を支配している領主は油断に満ちていて、兵士たちの士気も低い。だからこそ、大した力も武器もない我々でも勝つことができ、民を解放してこられました。ですが……」

 バスタロンゼは顔を曇らせて言葉を続ける。

「そう何度も我々を勝たせてくれなくなっていくでしょう。既に反乱勢力の存在は帝国側にも伝わっているようで、警戒を強めている地域も出始めています。領主たちが結託して討伐軍でも結成されてしまえば、我々は簡単に轢き殺される。その前になんとしても、戦力を手に入れたいんです」

「出来るだけ手早く奴隷たちを助けていく、ということでしょうか?」

 バスタロンゼは控えめに首を振った。

「戦える者を仲間にしたいんです。奴隷たちを一から鍛えるとなると半人前にするのにも時間が掛かります。私は帝国の兵を仲間に引き入れたいと思っているんです」

「敵の人間をですか?」

 デッツェルリンクの館ではほとんどの兵が逃げていき、捕まえた兵も此方を蔑むような態度を崩さず、友好的な姿勢を見せる者は皆無だった。それなのに、バスタロンゼは敵側の人間を仲間にしたいという。

「普通の兵や領主、貴族連中ではありません。我々と同じく、帝国側に虐げられた者と手を組もうと考えています。これから向かうダアルブライツ公爵の領地で彼は奴隷たちに紛れて幽閉されているようです」

「彼、というのは?」

「マシティア帝国北部の治安維持軍を指揮していたザンティルという将軍です」


 ダアルブライツ公爵はマシティアの北部で最も広大な土地を支配し、それを保有し続けられるほどの兵力もある。近隣の小領主たちはダアルブライツに依存し、彼の力を頼っていた。

 解放軍はその領地にひっそりと侵入し、人目が届かない林の中に野営地を作った。林冠の隙間から星々が覗く夜、見張りの付いた天幕の一つにリシェルは入っていく。薄い布で作られた簡素な寝床があるだけの小さな天幕の中央で、ミーナは地べたにぽつんと座っている。リシェルが入ってきても、ミーナは視線を地面に向けたままだった。

 デッツェルリンクの館から、バスタロンゼに無理を言ってミーナを同行させてもらった。彼女が帝国側の人間であるために自由は与えられず、捕虜のように扱われることになり、手を縛る縄も食事の時以外は外されず、常に見張りが付くことになった。そうまでしてミーナを連れてきたのも、彼女が抱いている誤解をどうしても解きたいと思ったからだった。マリーの名誉を守ることが一番であったが、ミーナを見ていると居た堪れない気持ちにもなり、放置していたら一生、暗い思いを抱いたままになって可哀想だとも思った。

 リシェルはミーナの傍らに、同じようにして座った。相変わらずミーナは視線を地面に向けている。掛ける言葉はなかった。行軍の間にもいくら話しかけていたが反応はなく、詰まるところ、どうすれば良いのか分からなくなっていた。沈黙を続けるわけにもいかず、ミーナと話すというよりも、独り言のように無関係な話を呟いた。

「ほとんど勢いに任せて解放軍に参加してしまいましたが、私は目的があってマシティアに戻ってきたんです。マシティアにいる祖母に会いたくて、ファルーナ教皇国から国境を越えてきました。ミーナさんはディアという町をご存知ですか?」

 ミーナは答えなかったが、リシェルは言葉を続ける。

「祖母に会うために一緒に旅をしてくれた人がいるんですが、国境を越える時にはぐれてしまいました。彼とも合流しなければなりません。無事でいてくれればいいんですけど」

 ドライスは光の矢に連れられて何処まで行ってしまったのだろうか。探したい気持ちはあったが、手掛かりはない。屈強な人だし、戦いの知恵も豊富だから、帝国の兵や魔獣に遭遇しても遅れは取らないだろうが、彼にとってマシティアは勝手の分からない異国の地。その上、罪もない無辜の民には苦しみが与えられるような場所ではドライスにも苦難が降りかかることだろう。心配は絶えないが、それで足を止めていては誰も救えない。今は帝国に苦しめられて命を脅かされている人を救うことに注力し、その先、その最中でドライスも見つけられるように希った。

「彼は何度も私を助けてくれたし、戦う術も教えてくれてました。とても恩のある人です」

 ミーナにもそういう人はいるのか、と聞こうとした時、ふとデッツェルリンクの館にいた男を思い出した。ミーナに命令を下していた男、イルヴァニス。ミーナと主従関係にあったようだが、彼が何者なのか気になり、それをミーナに問う。

「イルヴァニスという人は貴女の主人なんですか?」

 ミーナは顔を僅かに動かした。垂れ落ちる髪の隙間から、冷たい視線がリシェルに届く。

「そうでなければ、私を囮になどしない」

 久しぶりに聞いたミーナの声に驚いたが、リシェルは怯まずに会話を続けようとする。

「彼とはどうやって出会ったのですか?」

「化け物を殺した所を見られて、拾われた」

 化け物、つまり魔獣をミーナが殺したという。彼女の体捌きは間近で見ていたから、戦う力は持っていることは知っていたが、それはイルヴァニスに出会う前に既に完成していたということなのか。それにしても、魔獣を殺せるほどの実力を持っていることには驚愕を隠せない。家族を失くしたミーナがどんな経緯でそんな力を得たのか、それも知りたかった。

 リシェルが疑問の数々を顔に見せていたため、ミーナは言葉を待つ間もなく、一つずつ答えていった。

「生きていくためならなんだってしたっていうだけ。何もせずに死ぬよりは生き延びるために命を賭けるくらいのことは易い。誰かのおかげでこうした生き方しか出来なくなったんだよ。閣下は私の力が使えるものだと思ったから傍に置くことにしたんだろう。まあ、実際に危機を脱する手段になったんだから、十二分に利用できたんじゃないの」

 他人事のように呟くと、顔を背けてまた黙りこくってしまった。イルヴァニスが何者なのか聞こうとしても、ミーナはもう何も話してくれなくなった。それでも諦めずに、会話の糸口を見つけようと画策していると、天幕の外から声が届いた。

「リシェルさん、来てもらってもいいですか?」

 バスタロンゼに呼ばれたので、退出しなくてはならなくなった。名残惜しいが、打ち解ける切欠は見えてきた気がする。リシェルはミーナに「おやすみなさい」と告げると天幕を出ていった。

 バスタロンゼに引き連れられていき、焚き火の傍に座る。焚き火の周囲には何人かが座っていた。静かな夜風が吹き、木々は枝葉をざわつかせる。炎は微かに揺らぐだけで、盛んに薪を燃やし続けた。バスタロンゼはリシェルの座る場所の反対側に回り、腰を下ろした。

「先程、斥候が帰ってきました。彼からの報告だと、やはりザンティル将軍はヴァルマの城塞に幽閉されているようです」

 ダアルブライツの領地に意味もなく入ったわけではない。捕縛した小領主たちを尋問して、ダアルブライツ領内のヴァルマという地にザンティルがいることは分かっていた。解放軍はヴァルマを目指して進行していたのだ。

「ザンティル将軍やその麾下にあった兵士たちが捕まっていて、民のほとんどは城塞に隣接する町で常に監視されながら強制労働をさせられていると。反抗するものや逃げ出そうとするものが城塞の牢に閉じ込められて、死に至るまで拷問を受けているらしいです」

 帝国の悪行を聞いているだけで、リシェルの怒りは大きくなる。罪なき人々を一刻も早く助け出したいと思った。

「じゃあ、城塞を攻め落として、将軍と奴隷たちを解放するってことか?」

 仲間の一人がそう問う。

「そうしたいのは山々だが、兵の数が多い上に見張りや警備も城塞と町に常在しているという。正面突破を試みて勝てる戦いじゃない」

「けど、ザンティル将軍の助力がなければ、今後の戦いは辛くなる。どうすれば彼を救い出せるんだ?」

 バスタロンゼに視線が集まる。バスタロンゼは皆を見回しながら、策を話し始めた。一同が顔を顰める中、リシェルは真っすぐにバスタロンゼを見つめる。

 全てを話し終えると、一同は難しい顔をして思案していた。リシェルとしては、バスタロンゼの策に異論はない。自分ではそれ以上に良い策は思いつかない、というのが本音ではあるが。問題は誰がその策の重要な役目を引き受けるかだ。

 結局、誰も反論しなかった。リシェルは皆が自分を見ているのを感じた。夜は深さを増し、焚き火の炎は人影を朧気に映す。何を待っているのか、期待しているのかは分かる。デッツェルリンクの館を一人で落とした者という認識で見られている。その所業を成しえた人にしか、この役割がこなせないと思われている。しかし、皆から何を思われていようとリシェルは既に腹を決めていたのだ。

「私が皆を救い出しましょう」

 窮地は何度も越えてきた。今回もその一つに過ぎない、と思った。天幕に帰っていく軽い歩調の足音たちを聞きながら、リシェルは焚き火をじっと眺めていた。次々と人はいなくなり、リシェルとバスタロンゼだけが残った。炎の先にいるバスタロンゼに、リシェルは言葉を投げかけた。

「なぜ、ザンティルという人を仲間に引き入れようと思ったんですか?」

バスタロンゼは少しの間を置いてから答えた。

「ザンティル将軍は私の命の恩人だからです。多分、他にも彼に救われた人はたくさんいるはずです。リシェルさんは十年前にこの国を出ることになってしまったんですよね?」

 バスタロンゼには自分の身の上を話していた。リシェルは頷いて肯定する。

「その間に国は大きく荒れました。貴族領主が民を虐げた始めた他、獣に似た化け物……魔獣でしたか、魔獣が跋扈するようになり、まともな生活を送れなくなったのです。領主たちも魔獣を怖れていて、それを討伐するための軍が作られました。このマシティア北部ではザンティル将軍が率いる治安維持軍がその役目を担っていたのです。将軍は主であるダアルブライツ公爵の要求以上に魔獣の討伐に奔走し、私の住む辺境の村の近くにまで来て、魔獣を掃討してくれたのです。我が村はまだ領主の魔の手が伸びる前で、訪れた治安維持軍に我々は恐々としていたのですが、将軍たちは村で悪逆な振る舞いをすることなく、村を荒らす魔獣たちを殲滅してくれました。お礼にとありったけの金品と貯えを渡そうとしたのですが、それを断る所か食糧を分けてくれたのです。その時、将軍は言ってくれました。暫しの間、苦労を掛けるが、必ずこの国の秩序を元に戻す。それまで耐えてくれ、と。結局、それは叶わず、将軍がいなくなってすぐに、村は横暴な兵たちに占拠されてしまったのですが」

 バスタロンゼは苦笑した。あまりにも苦しい笑みだった。

「将軍が捕まったという噂を聞いた時は、やはりな、と思いました。帝国において、彼は清廉でありすぎました。おそらく民を守ろうと画策して、それで主のダアルブライツの怒りを買ってしまい、幽閉されることになったのでしょう。私は将軍を仲間に引き入れたいと思うと同時に、命を救ってくれた恩を返したいとも思っています」

 リシェルにもその気持ちは理解できた。命を救ってくれた人たちに直接的に報いる機会を、バスタロンゼは持っている。彼がザンティルに固執する理由として至極、真っ当なものだと思った。

 民からも慕われる人格者であるザンティル将軍。リシェルも彼と会って話してみたい気持ちが強くなった。まだ見ぬ義勇の将に思いを馳せて、期待と緊張を抱いたまま、その日になった。

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