第三章 旅の連れ合い

 馬車は明るい内にグラネラに着いた。このグラネラという町はリシェルも買い物に来ることがあったのでよく知っている。人の往来が多く、規模も大きいこの町は常に賑やかで、子供たちと来るときは迷子にならないようにずっと手を握って買い出しに行っていた。

 子供の手で両手が塞がることもあったが、今はその手はどちらも空いている。アルテナの剣はローブの腰帯に通した。グラネラでは帯剣する者は少なくないが、まだ幼さの残る少女が剣を所持しているのは珍しい。町長の待つ役場に着くまで、行き交う人の奇異の目が刺さる。リシェルは怖さを感じて、時おり剣の柄を触って気を紛らわせながら、駆けこむようにして役場に入った。

 メイツァーからの手紙を役場の受付に見せると、応接室に通された。そこで暫く待っていると、町長らしき初老の男性が腰を低くしながら入ってきた。

「いやあ、済まないね。お待たせしてしまって」

「いえ、全然」

 町長はリシェルの向かいの椅子に座る。

「事情はメイツァー様から聞いたよ。マシティアまでついてこれる護衛を所望されたけど、なかなかそういう手合いはいなくてね。探すのに苦労したよ。それで、見つかったのはいいんだけど……」

 町長は苦笑いを浮かべて、じれったく言い淀んだ。リシェルは仕方なく、自分から町長の言葉を引き出そうとした。

「何か問題でもありましたか? やっぱり行きたくない、とか」

「いやいや、そんなことは言ってない。ただ、ちょっとその護衛、普段は傭兵稼業をしている者なんだけど、ちょっとだけ鷹揚というか、自分勝手というか、扱いづらい人でね。今、酒場にいるんだけど、雇い主が来たから来てくれと言ったんだが、来てくれなくて……」

 護衛が嫌でないならば、何故この場に来ないのか。リシェルにはよく分からなかった。だが、それが大きな問題とも思ってもいない。

「ならば、私から其方に向かいましょう。その酒場は何処にあるのですか?」

 リシェルは町長から酒場への道程を聞くと、お礼を言って其処へと向かった。

 役場のある大通りから枝分かれした道を進んでいき、荒々しい喧騒が増えてくると、其処に目的の酒場があった。こういう場所に入るのは初めてだったので怖さがあったが、躊躇ってもいられないので、覚悟を決めて中に入っていった。

 扉を開けると、籠った熱気が体に纏わりつき、酒の匂いが鼻の奥に流れてくる。足が一瞬止まりかけたが、なんとか堪えて奥へと進んでいった。

 町長からは名前と見た目の特徴は聞いていた。ドライスという名で図体が大きく、かなり逞しい男らしい。だが、体の大きい男の人は数多くいたので、彼らに声を掛けて確認していくしかなかった。

 楽しそうに酒盛りをする彼らの邪魔にならないようにと遠慮がちに声を掛ける。

「あの、ドライスさん、という方ではないでしょうか?」

 振り向いた男は訝しんだ顔を見せる。

「いや、違う」

 そう言うとすぐに向き直って仲間たちとの酒盛りに戻った。

 次に声を掛けた人もドライスではなかった。その後も続々と声を掛けるも、ドライスには辿り着かない。もしかして、この酒場からいなくなってしまったのではないか、と思いながら、中央に居座る一際騒がしい集団に向かっていった。

「すみません」

 集団の中で話の中心になっている大男に声を掛けた。だが、リシェルの声は彼らの声にかき消されてしまう。もう一度、今度は声を張って大男に呼び掛ける。

「すみません。少し、よろしいですか?」

 彼らは途端に会話を止めた。鋭い視線が一斉にリシェルへと向けられる。静かになったおかげで楽に声は届くようになったが、彼らの顔は明らかな不快を示していた。

「人を探していまして、貴方がドライスさんではないでしょうか?」

 大男は露骨に嫌な顔をして舌打ちをした。

「あの野郎と間違われるなんて最悪だぜ」

 大男のグラスを持つ手に力が込められていく。

「あいつには何度も仕事の邪魔をされてんだ。あんなカスと俺を間違えるとは、喧嘩を売ってるとしか思えねえ」

 大男はグラスをテーブルに叩きつけると、勢いよく立ち上がってリシェルに詰め寄った。

「ごめんなさい。悪気があって言ったわけではないんです」

 リシェルは後退りするが、胸倉を掴まれてしまった。大男は酒臭い顔を近付けてくる。

「俺たちの世界じゃ謝罪は通用しねえ。女子供だからって見逃しもしねえ。殴り合って最後に立ってた方が正しい。そういう世界なんだよ」

 大男は拳を握り固めて、大きく振りかぶった。顔面目掛けて飛んでくる拳を、リシェルは両腕で守るしか出来なかった。顔を背けて目を瞑り、殴打が飛んでくるのを待った。しかし、大男が突然、リシェルから手を離して呻き声を上げた。リシェルは両腕を下ろして目を開けた。床に倒れる大男は鼻を抑えて、誰かを見上げている。その視線の先には逞しい男が立っていた。

「ドライス……」

 大男はその男に向かってそう言った。

「器の小ささが知れるな」

 ドライスと呼ばれた男は吐き捨てるように言うと、リシェルの腕を掴んでその場を後にした。

 強引に引っ張っていき、酒場の隅にあるドライスが食事をしていたであろうテーブルに着くとリシェルを椅子に無理矢理座らせた。

「こんな無法の場所で聞き込みなんてすんな。馬鹿を見るだけだ」

 窮地から助けてくれた人に何故か怒られた。役場に来ないから、此方から赴いたというのに。リシェルは頭の中の整理が付かずにただ呆然とドライスの顔を見ていた。想像よりも若い人に見えた。年齢は上だろうが、それでも二十代、または三十代前半くらいの見た目をしている。しかめっ面を崩さないが、元々そういう顔をしているのだろうか。ドライスの睨むような視線を受けながら、リシェルはその程度のことを考えていた。

「どうして俺を探していた」

 その問いかけでリシェルは我に返った。ドライスに会いに来た理由を、自分自身で確認するようにして答えた。

「町長さんにお願いして、旅の護衛をドライスさんにしてもらうことになっていたのです。それで、役場にドライスさんが来られないので、私の方からドライスさんがいらっしゃるという酒場にお伺いいたしました」

「じゃあ、お前がミクランの教会の」

 リシェルがいた教会のある大草原はミクラン草原と呼ばれている。教会も外の人からはミクランの教会という名で知れ渡っていた。

「はい。リシェルと申します」

 ドライスは顎を擦りながら、リシェルをじろじろと見た。

「神父からの依頼とは聞いていたが、こんな子供をマシティアに連れていくことになるとはな」

「子供ではありません。今年で十七になりますから」

 ファルーナでは十八歳で成人として認められる。それに一年足りていなかったが、リシェルはもう自分がほとんど大人であると思っていた。教会で仕事の手伝いや子供たちの世話をやっていたのも、そういう思い込みに拍車を掛けていた。

 当然、ドライスは年齢を知っても子供という認識は変わらない。寧ろ、何故そんなに誇らしげに子供であることを告げるのか分からずに困惑した。

「まあ、そんなことはどうでもいい。こっちも護衛の件は引き受ける。出発は明日の朝。これでいいだろ」

「よくありません」

 リシェルはドライスが役場に来なかった理由を知りたかった。無責任な人を頼るというのも不安でしかないので、真っ当な理由があることを望んだ。

「町長さんから、役場に来るように言われてましたよね。なぜ、来てくれなかったんですか?」

「別件だ。そっちを今夜までに片付けなきゃならない」

「だとしても、役場で顔を見せるくらいはしてくれても良いのではないでしょうか。酒場で過ごすくらいには暇なのでは?」

 ドライスは酒場の中を見回しながら、溜め息を吐いた。

「こんな臭くて飯が不味くて治安の悪い酒場で、誰が好き好んで酒盛りをするかよ。下らないいざこざを止めてやったのも、俺の仕事の邪魔にしかなんねえから止めただけだ」

 ドライスが役場に来てくれないから探しに来たというのに、それを下らないと言われるのは腹が立った。

「事前にちゃんと役場に来られない理由を町長さんに話してくれれば、私も此処には来ませんでした。あんなことが起きてしまったのはドライスさん自身の怠慢の所為です。自分で自分の仕事の邪魔をする事態を招いたってことですよ」

 ドライスは閉口した。リシェルと視線を合わせずにちらちらと酒場にいる人たちを見続ける。正論過ぎて返す言葉もなく困っているのだろう、とリシェルは思った。どういう言い訳が返ってくるかと待っていると突然、ドライスの視線が何かに釘付けになった。

 リシェルは視線の行き先が気になり、顔を其方に向ける。

「馬鹿、見るんじゃねえ」

 ドライスの声で顔の向きを戻す。

「絶対に顔を動かすな。怪しい動きをするな。いいか、ごく自然に飯を食え。それ以外のことはするな」

 ドライスはグラスを口に持っていき、食事をしているふうを装いながら、時折その一点に視線を持っていった。リシェルは何があるのか気になって仕方なかったが、ドライスが真剣に眼差しをしていたので、大人しく彼の言うことに従った。

「それでいい。ただ飯を食ってさえいりゃ、俺の仕事も楽に片付く」

「誰かを見張っているんですか? それがお仕事?」

「見張ってるだけじゃねえ。証拠を押さえて、万が一には捕らえる必要もある」

 談笑しているように見えるからか、ドライスはリシェルの問いかけに素直に応じてくれた。

 曰く、ある商人からの依頼で、下働きの男が店の売り上げの一部を自分の懐に入れている疑惑が掛けられていて、ドライスはその真偽を確かめているとのことだ。数日に渡り身辺を探り、今日この酒場で何かの取り引きを行うという。今、監視しているのはその下働きの男だった。ドライスたちのいる席から反対にある隅の席にその男がいる。

「何の売買をするかは知らないが、あの男が多額の金を出せば、金を盗んだことが確定する」

「あの方が自力で稼いだお金だという可能性もあるのではないでしょうか」

「既に色々調べてんだ。あいつは本来ならば大金を持てるはずがない。絶対にな」

 何日も掛けて得た情報ならば、そうなのだろうとリシェルは納得した。しかし、どうにもリシェルには気になることがあった。それはドライス自身のことである。

「あまり傭兵らしくないお仕事をなされるのですね」

「金さえ払われるならなんでもする。お前の護衛だってそうだ。マシティアに行くなんて無謀としか思えないが、金払いが良かったんで引き受けた」

 この時初めてリシェルは気付いた。護衛の準備をしてくれたのはメイツァーだ。メイツァーは護衛の費用まで負担してくれていたのだ。その礼を伝えなかったのは不義理である。今度、手紙でしっかりと感謝を伝えようと胸に刻んだ。

 リシェルが自責に駆られている間に動きがあった。ドライスの顔がより険しくなり、下働きの男を見る頻度も増えた。リシェルはドライスの様子がおかしくなったので、いよいよ何かが起きたということを察した。だが、男のいる方を見ることは禁じられていたので、ドライスの顔を見て成り行きを窺うしかなかった。

 少しの間、待っていると、ドライスが唐突に立ち上がった。酒場の入り口の方まで駆けていったので、リシェルも急いで後を追った。

 そのまま外へ出て、ドライスの姿を探す。大きな体のドライスはすぐに見つかり、彼の下に駆け寄る。

「もう付いてこなくていい」

 ドライスは振り向きもせずにそう言った。ドライスの視線は前方にいる二人組の男に向けられている。片方は下働きの男だろう。身なりは少しみすぼらしく見えた。もう一人はしっかりとした服装をしている。その男の左手が一瞬だけ見えると、全身から血の気が引いていった。

 十年経っても忘れない。自分を攫った男の姿。忘れずにいられたのは、男の左手の爪が印象に残っていたからだ。

 薬指の爪だけが赤く染まっている。一瞬だけとはいえ、離れた場所からでもはっきりとそれが見えた。リシェルはあの男の正体が気になってしまった。大蛇に飲まれたと思っていたあの男がまさか生きていたのか。それともたまたま同じ装飾をした他人か。色々な可能性があるが、なんにせよ、真実を確かめずにはいられない。

「私も行きます」

 ドライスはリシェルを一瞥した。

「これ以上、邪魔をしてくれるなよ」

「あの赤い爪の男に用があります」

 彼らに気付かれないよう歩くドライスに付いていきながら、リシェルは応えた。

「私を攫った男かもしれないんです」

「そうだったとして、お前は何をするんだ」

 返ってきた言葉に、リシェルは戸惑った。自分は何をするか。最初に思い浮かんだそれが、振り払えずに頭の中に留まり続けた。歩みが止まり、ドライスも二人組の男も遠ざかっていく。

「その程度で迷うなら、尚更に足手まといだ」

 ドライスはそう言い残して、先に行ってしまった。追いかけようという気持ちはあった。あの男が自分を攫った男であったなら、自分が受けた苦しみをぶつけずにはいられないだろう。腰に差した剣の鞘を握る。絶対に暴力で応えてはならない。非道な人間が相手でも、非道な行いで報復するのは許されることではない。教会で学んだ訓戒が頭に沁み込んでいるはずだが、それを守れる自信がなかった。自分の人生を狂わせた赤い爪の男を憎悪する感情が、心の底面に潜んでいる気がしていた。

 二人組は見えなくなり、ドライスの後姿も小さくなっていく。今、追いかけなければ確かめる機会を失う。自分が何をするかで迷っている場合ではない。リシェルはあれこれと考えるのをやめて、走り始めた。ドライスはもう路地の方へ入ってしまい見えなくなっている。

 リシェルがその路地に着くと、ドライスの姿はもう見えなかった。疎らにいる人たちに体の大きい男の行方を訊ねて、後を追っていった。先に進みながらその都度、ドライスの行方を聞き、気が付けば町の端の方まで来ていた。ドライスを最後に見た人は、彼が町の外へ出ていったことを教えてくれた。日は傾き、西の空は鮮やかな橙色に変わっていた。

 ドライスの目撃は此処で途絶えた。整備された街道を歩いていくが、夜が近付いている所為もあって人は通らなかった。ドライスや二人組が通ったような痕跡も見つけられないため、リシェルは果てしなく続く道に従って進むだけしか出来なかった。

 しかし、いくら進んでもドライスたちの影も形も見えない。このまま進むべきか、一旦町へ戻って改めて情報を得るべきかと思案していると、妙な感覚が過った。

 不安、というべきか、恐れ、というべきか、暗い感情のようなものを思い浮かべる気配を感じた。その気配は道を逸れて、木々の生える林の方から来ていた。何かが見えているわけではないが、何処を辿れば気配の下に行き着くのかが分かった。

 体が自然とその方角に向かっていた。気配の正体を知る由もない。だが、なんとなく放っておけないと曖昧に思ってしまい、林の中へと躊躇なく入っていった。

 道標もなく似たような景色が続く林を、その気配だけを頼りに進んでいくと、大きな岩壁へと行き当たった。その岩壁にはぽっかりと穴が空いていて、気配はその奥から感じられた。

 リシェルは闇を湛える洞穴の中に入る。視界は何も捉えず、暗黒だけが目の前に広がっていた。しかし、目には見えない気配がリシェルの辿るべき道を教えてくれて、立ち止まることなく奥へ奥へと進んでいった。

 気配の感覚が強くなったと感じたところで、前方から微かな光が見え始めた。炎の灯なのだろう、寂しさのある光は闇の中で揺らめき、いつ闇に飲まれるか分からない恐怖に震えているように見えた。その灯に近付き、光が強く感じられるようになっても、臆病な印象は変わらなかった。

 袋小路の開けた空間の壁に粗末な燭台が一つある。それが灯の正体だった。その灯にドライスと下働きの男が照らし出されていて、ドライスが男を壁際に追い詰めていた。リシェルに気付いたドライスが横目を向けた。

「どうやって此処に来た?」

 高圧的な物言いだったが、ドライスの表情は驚いているように見えた。

「途中までは人に訊ねながら追ってきました。町を出た後は、その……」

 気配を辿ってきた、と言っても信じてもらえないだろう。自分でも未だにそれが信じられない。だが、道のない林の中や真っ暗な洞の中を迷うことなく進んでこられたのが、気配が確かなものである証なのだろう。しかし、肝心の気配の元凶は此処にはない。近くはなっていたが、まだ奥の方にそれを感じた。

「痕跡を残したつもりはない。それに、明かりもなしに洞窟の奥まで来られるものか? 何か隠してるだろ」

「いえ、隠しているのではなくて、自分でもよく分からないんです」

 リシェルは気もそぞろになったまま応答した。気配が近付いてきていた。強く大きくなっていくそれは、却って何処にあるのか判別できなくなった。空気が重たくなったような気がして、リシェルは緊張で体を強張らせた。

「よく分からない、で済むようなことじゃないが、話す気がないのなら後で問い詰めてやる。まずはこいつを連れて帰る。証拠も手に入れたからな」

 ドライスは、はち切れんばかりに膨らんだ革袋を手に持っていた。それが、男が商人から盗んだ金なのだろう。男はドライスに壁際に追い込まれて身動きが取れなくなりながらも、革袋を恨めしそうに見ていた。

「返せよ。それは俺の金だ。その金がないと取り引きが出来なくなる」

 ありったけの勇気を振り絞って言ったのか、声が震えていた。

「金の回収が最優先だと言われているんだ。言い訳をしたいのならお前の主に言え」

 ドライスが男の腕を掴んだ。その瞬間、男の背後の壁が破裂したかのように砕けた。飛び散る礫と共に、気配が形となって現れるのをリシェルは感じた。二本の足で立つ、大きな熊のような見た目の獣が砕けた壁の中から出てきた。

 熊は人間のように長い腕を振るい、目の前にいた男を弾き飛ばした。腕の先には鋭利な爪が五本伸びていて、そこから血が滴り落ちていた。地面に倒れた男に近付くと、両腕の爪で何度も男の体を突いた。

 異様な外見と自然に悖る残虐な行い。それはまさしく魔獣だった。リシェルが感じていた気配はこの魔獣から放たれていた。

 大蛇の魔獣以来の二度目の魔獣との遭遇。死を齎す存在がまた目の前に現れた。あの時と同じ恐怖と緊張感がリシェルを襲っていた。

 魔獣は男を弄ぶのに満足したのか、爪に付着した血を舐めとりながらリシェルを凝視してきた。横たわる男がマリーと重なって見えた。あの悲劇をなぞっているかのように錯覚し、マリーの死の瞬間を思い出した。生暖かい血の感触と、命が消えた体の重さ。固まっていく顔。

 浮かび上がったその光景に、リシェルは現実を忘れていた。魔獣はリシェルに狙いを定めて、二本の足で駆けてきた。魔獣に迫られているのに気付かず、リシェルは虚ろな目で横たわる男を見続けていた。

 腕を強く引っ張られて、正気を取り戻した。魔獣の爪がローブを掠めて空を切る。リシェルを引いて魔獣の爪から救ったのはドライスだった。ドライスはリシェルを放すと同時に、リシェルの腰に帯びた剣を鞘ごと抜き取った。

「借りるぞ。お前は逃げろ」

 リシェルの返答を待たずにドライスは魔獣と相対した。柄を握り、鞘から刃を抜こうとするが、抜けない。ドライスは驚愕して剣に視線を落とした。

 その隙を魔獣は逃さなかった。薙ぎ払うように腕を振り、ドライスを爪で引き裂く。ドライスは寸前で鞘を盾にしたが、その衝撃には耐えられずに弾き飛ばされてしまった。

 ドライスと共に飛ばされた剣は宙を舞い、リシェルの足元に落ちる。聖神アルテナの力が宿りし剣。その使い手はリシェルだけだ。この状況を打破すべきはリシェルである。リシェルはアルテナにそう言われているような気がした。

 蹲るドライスに魔獣は追い打ちを掛けようとしている。ドライスは避けられる状態ではない。助けられるのは自分しかいない。リシェルは剣を拾って鞘から抜く。剣の振るい方も、戦い方も知らないので、大胆に魔獣へと突進していった。

 刃先を魔獣に向けて精一杯に両腕を伸ばして突き刺す。細身の刃はするすると魔獣の腰に入っていく。刺さった感触が全くなかったが、魔獣はその一突きで苦しみ、刃を抜こうと藻掻いた。リシェルは柄から手を離さないように力を込めた。力を込め過ぎたのか、腕があらぬ方向へと振られる。握り損ねたかと思ったが、柄はしっかり握られたままだ。刃も折られることなく残っていて、付着した血が滴り落ちている。魔獣に目を遣ると、刃によって付いた傷が横に広がって、体を貫いていた。夥しい血が流れ、魔獣は呻きながら倒れた。

 刃が魔獣の腰を真横に引き裂いたようだ。肉や骨に引っ掛かったような感じはなかった。だが、自分が魔獣を斬ったという証拠は刃にはっきりと残っていた。下半身をほとんど失い、這いつくばる魔獣はまだ殺意を宿した目でリシェルを見ていた。

 とどめを刺さなければならない。そう思うと、躊躇いが生まれた。悪しき存在とはいえ、命まで奪わなければならないのは心苦しいものがある。腰から流れる血の量を見れば、放っておいてもいずれ死ぬ。ならば、わざわざもう一度、死の間際に強烈な痛みを味わわせる意味があるのかと感じた。

「殺せ」

 ドライスの声が届いた。ふらつきながら立ち上がったドライスは重い足取りで、リシェルに近付く。

「覚悟があろうとなかろうと、剣を振った以上は最後まで責任を持て」

 ドライスはリシェルの逡巡を見抜いているようだった。楽をしたい、自分が魔獣の死に無関係でありたいと、心のどこかで思っていたと気付かされた。命が尊いものだとは分かっている。それを奪うことは間違っているとも思う。でも、そうしなければならなくなったのなら、その意志を貫き通さなければならない。

 旅立つと決めた時から、そうだったはずだ。マリーに立てた誓いを思い出す。弱い自分は置いていった。まだその残滓が残っているのなら、魔獣を殺すことで再びの誓いとしよう。


 役場の近くにある簡素な宿を今晩の寝床とし、余計な荷物を其処に置いてドライスに指定された食堂へ向かう。宿から遠くない表の通りに面した場所にあるその食堂に入ると、昼に入った酒場とは違ってけたたましさもなく、強烈な酒の臭いもなかった。

 体の大きいドライスはすぐに見つかり、ドライスが陣取るテーブルに着く。料理が何品か並べられていて、ほとんどが手を付けられていたが、リシェルが着く席の方にある料理には手が出されていなかった。

「奢りだ。存外、報酬が貰えたからな。お前のおかげでもある。遠慮せずに食え」

 ドライスは手を止めずにそう促した。リシェルは食欲が湧かず膝に手を置いたままドライスを見ていた。沈黙したまま食事姿を凝視しているので、ドライスは決まりが悪くなったのか、飲み食いする手を止めた。

「なんだよ。まさか、あんなもん見た後だから食う気が起きないのか?」

 魔獣の死体と惨殺された男の死体。男の死体の方は、彼が盗んだ金と共に依頼人の下へドライスが送り届けた。なので、町に帰る道中はその死体が随行した。先導するドライスの背に死体が常にあった。辺りは暗くなっていたのでその姿ははっきりとは見えなかったが、血の臭いだけは常に感じていた。

 その臭いがまだ鼻の中にこびり付いていた。死体の姿も脳裏に焼き付いている。死を感じたままに食事をするというのは、リシェルには出来ない芸当だ。ましてや、ドライスはもっと身近にそれがあっただろうに、お構いなしに食べていた。死に対して鈍感なのは職業柄なのだろうか。

「普通はそうなると思います」

 それに食事をしに来たわけでもない。話したいことがあるから、ドライスの誘いに応じたに過ぎない。

「てっきり慣れてるもんだと思ったんだがな。聖絶士(せいぜつし)には最近なったのか?」

 聖絶士、という言葉の意味は知っていた。ファルーナ教皇直属の組織の一員をその名で呼ぶ。聖絶士は神器を使い、ファルーナや近隣の国の魔獣を征伐する役割を持つ。リシェルが魔獣を容易く斬ったことや剣が鞘から抜けなかったことから、ドライスはリシェルが神器の適合者であることを見抜き、聖絶士だと思ったのだろう。だが、リシェルは聖絶士ではない。神器を持っている経緯を、自分の過去とマシティアに行く理由と共にドライスに話した。

「随分と大胆な事を……」

 ドライスはそう呟くと、口元を片手で覆って視線をテーブルの上に落とした。

「私が神器を教会から持ち出してしまったから、魔獣が現れたんでしょうか」

「いや、関係ないはずだ。主がいようといまいと、神器の影響力は一定を保つ。魔獣の発生自体を抑える力はあるが、出るもんは出る。そのために聖絶士がいるし、手が足りないのなら傭兵だって魔獣を狩る。あの魔獣くらいだったら、腕の立つ傭兵が何人かいれば狩るのは難しくない。武器さえあれば、俺一人でもやれた相手だろう。なんせ、素人の嬢ちゃんがやれるくらいなんだからな。まあ、出てくるにしてもあんなもんが普通だ。仮に神器がミクランから消えても、他に神器が納められている場所はあるから魔獣の出る頻度はそう変わらないだろう。お前が心配することはない」

 メイツァーも他の教会の神器の力が及ぶから、神器がなくなっても平気だと言っていた。その見解を別の人からも聞くことができたので、少しだけ安心できた。

「問題は他にもあるが、一番の懸念はどうやってマシティアに侵入するかだ。国境には果てまで続く高い壁。唯一通じる門も固く閉じられて、開いているのを見たことがない」

「門番の方に事情を説明すれば入れませんか?」

 ドライスは鼻で笑った。

「お前がマシティアから連れ出されたことが真実であるかどうかは奴らには関係ない。何があろうと誰も入れないし、出さない。あそこの守りは侵入しようとする者とマシティアから逃亡しようとする者を阻むためにある。ファルーナ教皇が出向いたとしても、絶対に開けないだろう」

 では、自分はどうやってマシティアを出ることが出来たのだろう。馬車はつつがなく走っていたと覚えている。本当に自分の故郷がマシティアにあるのか疑問に思えてきた。

「だったら、私はどうやってマシティアを出てファルーナに来られたのでしょうか」

「裏でこそこそと生きてる連中なんてのは、表では知られていない独自の抜け道をいくつも持ってる。お前もその抜け道を使って連れてこられたんだろう。その抜け道ってのも、言葉通りのものだけじゃなく、醜悪な方法のこともある。俺たちがその抜け道を見つけ出そうってんなら危険性は増す。とにかく、国境沿いに行ってみないと判断が付かない」

 マシティアに行くのは一筋縄ではいかないのだろう。正規の方法では不可能、別の方法を模索しなくてはならない。それも簡単に見つかるものではない。リシェルは何があろうと故郷へ帰り、祖母に会うと決心している。だが、ドライスはただ依頼を受けただけに過ぎない。金を得るという動機だけで無謀なことを請け負うのは理にかなわないのではないかと思った。

「出来るかも分からないうえに危険を伴うお仕事なのに、ドライスさんは引き受けてくれるんですか? 嫌ならば、今からでも断ってもいいんですよ」

「一度受けた以上は途中で降りるなんて選択はしない。何があろうと依頼は完遂する。それが俺の流儀だ」

 そんな理由で、と言いかけたところで、ドライスがそれを予期したかのように口を挟んだ。

「お前から見れば薄っぺらい志かもしれないが、俺にとっては命を賭けられるほどに大事なもんだ。だから、俺からこの仕事を降りることはない。お前に切られない限りは、最後まで付いていく」

 ドライスはグラスに入った酒を一気に飲み干した。

「絶対に婆さんに会わせてやるよ。信用できないってんなら、その神器に誓ってやろうか?」

 ドライスは体を少し横に倒して、リシェルの腰にある剣を指差す。しかし、腰帯には何も下がっておらず、リシェルの何処を見回しても剣は影も形もなかった。

「お前、あの剣はどうした?」

「宿に預けてきましたよ。剣なんて街中で携帯していたら物騒ですし、人目も気になるので」

「馬鹿! ただの剣じゃないんだぞ、神器なんだ。盗まれでもしたらどうする? 今すぐ取りに行ってこい!」

 激しい剣幕で叱られ、リシェルは逃げるようにして宿に戻っていった。怒鳴られはしたが、怖くはなかった。本当に心配してくれているから、あんなに強く言ってくれたのだろう。そうした態度を見せてくれたことで、ドライスもマシティアまで来てくれる覚悟があると分かった。

 生半可な護衛でないことがリシェルを安堵させた。先行きが見えない旅だが、心強い連れ合いがいてくれる。意外と簡単に祖母と再会できるのではないかと楽観するほどだった。そうして自分が本来聞きたかった、赤い爪の男は何処へ行ったのかを聞きそびれて、遂に思い出すこともなくなってしまった。

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