RE‐ACTION

1

「場所、分かりにくかったかな……」

 五月の中頃、まだ客もまばらな店で独りお茶を口に運んでいる。飲み会の開始時間まではまだ五分あるが、幹事の自分以外まだ誰も来ていない。

 その女は、バッグにいつも入れてある二つの手紙のうちのひとつを取り出し、何となく眺めた。


 いつからこんなに面倒くさくなったんだろう?

 文字を書くのも面倒。

 息をするのさえ面倒……なんて、言ってみても、息は止める方が面倒か。

 何日目かな、ご飯も全然食べてない。

 あのピザが最後だ。

 ああ、ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 小川先生とはもう、仕事でも関係なくなる人だからと、利用してしまいました。

 好きでもなんでもないのに。

 嫌われているのも分かっていたのに。

 でも、結局何も変わらなかった。

 やっぱり面倒なだけ。

 小川先生に謝るまでは、と思っていたけど、これで謝ったことにして下さい。

 本当にもう、全部が面倒で。


 字の大きさもバラバラで、並びも歪んでいる。そして何より汚い字だ。女が何度読んでも腹が立つだけのその手紙をバッグに収め、代わりに短く音を出したスマートフォンを取り出した。

「何よ、もう……」

 上司の一人の仕事が終わらず、残りのメンバーでその仕事を手伝っているから少し遅れるとメッセージが届いていた。スマートフォンをお茶の入った湯呑がひとつだけ置かれたテーブルに投げるように置き、もうひとつの手紙をバッグから取り出す。子供の字だが、こちらの手紙の方が、その女の姉が書いたものよりも何倍も丁寧に書かれている。特に「『海叶』の『海』は、海のように広い心。『叶』は、夢が叶うように、とお父さんが考えたそうです」という一文を読むと顔が自然と綻ぶ。ささくれだった心を元に戻そうと封筒からその手紙を出した時、店のドアが開いた。

 自然とドアの方に女の顔が向いた。

「ただいま……」

 入ってきたのは女が待ちわびている同僚たちではなく、カバンを肩から下げた丸刈りの中学生だった。

「あれ、あの子……」

 女にはその中学生に見覚えがあった。毎朝同じバスに乗っていた中学生だ。

「海叶、今日は早く帰ってこいって言ったろ? 予約入ってんだからさっさと着替えて手伝え」

 店の主人がその中学生に、仕事する手を休めることなく言った。

「補習があったから……。ごめんなさい」

 海叶は店の中を見ることなく二階へと姿を消した。

「海叶……。あの子が?」

 その女は取り出したもう一通の手紙を読むことなく、バッグに戻して席を立つと、カウンターに向かって歩き出した。

「あの、すみません」

 女に声を掛けられ、海叶の伯父である店主は手を止めて笑顔で応えた。

「はい、何でしょう?」

「あの……、いまの子、増田海叶君?」

 その言葉に店主は眉根を寄せた。

「海叶が何かご迷惑を?」

「あ、違うんです。あの、私、海叶君が四年生の時の担任だった塚田の妹で、塚田莉乃りのっていいます」

 二人の会話を横で聞いていた女将が、塚田の妹と名乗った女に近づいた。

「あなた、何が言いたいんです? 海叶が何をしたっていうんですか? 聞けば前から病気だったって言うじゃないですか。それとも、その病気も海叶のせいだと言われるんですか?」

「おい、やめろよ」

 食って掛かった女将を店主がたしなめるが、女将が莉乃を見る目つきは変わらない。

「何もそんなこと言ってないじゃないですか。……姉が生前海叶君のことを気に掛けてて。亡くなった時も遺書と一緒に……。ちょっと待ってください」

 莉乃はそう言ってバッグから封筒をひとつ持って来た。

「これ、海叶君から姉に向けた手紙です。……だから、単純にどんな子だろうってずっと思ってて」

 手紙を渡された女将が、その文字を確かめた。確かに海叶の書いたものだった。

「あの子、こんなこと書いてたのね」

 海叶の伯母である女将が手紙に目を通していると、音もなく海叶の手が伸びてきてその手紙を横から奪い取った。

「校長が書けって言ったんだよ」

 海叶はそう言って紙をクシャクシャに丸めた。

「何するの!」

 声がした方を海叶が見ると、毎朝バス停で挨拶を交わしていた女性の顔があって、目を丸くした。

「なんで?」

 なぜここにいるのか。なぜ自分が書いた手紙がここにあるのか。様々な疑問がその一言になって海叶の口から零れた。

「塚田先生の妹さんなんですって」

 それを聞いた海叶は、降りてきたばかりの階段を、再び駆け上がり始めた。

「海叶君、待って! 小川先生ってどんな人なの?」

 莉乃から出てきた思わぬ名前に、海叶は振り返った。

「どんなって……。裏切り者だよ。……なんでアイツのこと聞くんだよ?」

 海叶は階段の中ほどから下に吐き捨てるようにそう言った。

「手紙にも書いてあったんだけど、姉が亡くなる前にね、電話でこう言ってたの。『わざわざ海叶君の手紙持って来てくれた小川先生に酷いことしちゃった』って」

 それを聞いた海叶は固まった。海叶は塚田が死んでいたことも知らされていなかった。そして、小川はやはり海叶が書いた手紙のことを知っていた。知っていて、転校先の学校に来てほしいという願いを無視したのだ。海叶の視界にゆっくりと影が降りてくる。

「なんでアイツは……塚田は死んだの?」

「分からないの。遺書はあっても、理由まではハッキリ書いてなくて……」

 塚田が自殺したということも当然知らない海叶は、塚田の死因について聞いたつもりだった。事故か病気か。まさか自殺だとは思わなかった海叶は、言葉が見つからずにそのまま二階へと姿を消した。

「海叶!」

 伯父が階段に向かって叫んでも海叶からの返事はなかった。

「あの、私……」

 莉乃は申し訳なさそうな顔をしたが、女将が逆に頭を深く下げた。

「申し訳ありませんでした。お辛いのは先生の妹さんの方なのに、つい……」

「そんな。私は大丈夫ですから、頭を上げてください」

 莉乃が女将の肩に手を置くと、入り口が開いて莉乃の会社のメンバーが続々と入ってきた。

「遅くなりましたあ!」

「塚田さんごめーん!」

「お腹空いちゃったよ」

 明るい声を交わしながら入ってくる同僚たちに、莉乃は救われた。軽い気持ちで今の子供が海叶であることを確かめたばかりに、一歩間違えれば店を追い出されていたところだ。

「席はそこの座敷ですから。部長から奥に詰めてくださいね」

 同僚たちに指示を出し、莉乃はもう一度振り向いて店主と女将に頭を下げた。

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