三年後の空
1
時の流れは一定であっても、平等ではない。
三年という年月は、小川にとってひとつ瞬きをする間に過ぎて行った。シューは行動範囲が広くなり、家にいる時間が減ってきた。田島とは度々身体を重ねるようになったが、お互いの呼び方も変わらず、言葉でふたりの関係を確かめることもなかった。
ただ、初めて田島に背中の傷跡を見られ、指先で優しく触れられた時、小川はそれまで誰にも話していなかった真実を話した。かつての妻にも話したことのない真実を。
その日を境に、二人の関係も、小川自身の心も次の段階に向かっていた。
それでも小川は、まだ多くの人間と関わりを持つ中で、長時間仕事をすることに対しての不安は拭いきれていなかった。
そんな小川の携帯へ本多から電話があったのは、本多が市内の中学の校長になったばかりの四月初めだった。
「増田海叶。憶えているだろう?」
小川が三年ぶりに聞く名前だ。目を閉じると、海叶と共に小学校の展望台から見た空が広がった。
「はい、憶えています」
「私が勤務する学校に入って来るんだが、また補助員をやる気はないか? もちろん他にあてがあるなら無理にとは言わんが」
小川はこの時、早朝の三時間だけ倉庫で働いていたが、本多からの誘いに考え込むことなく即答した。
「いえ。やらせてください」
その返事を聞いた本多が笑顔になる。そんな気配が受話器を握る小川に伝わってきた。
「それじゃあ保険の準備が出来たらまた電話するけど、それまでに履歴書を書いてくれ。田島に預けてくれればいいから」
「分かりました。ありがとうございます」
電話を切った小川は外に出て海を眺めた。
海上は少し霞んでいて、沖に見えるはずの島影は見えない。シロツメクサが海風に葉を揺らして、丘の上まで水面の白波を運んでいるかのようだ。南から渡ってきたばかりのツバメたちは、旋回しながら羽化した羽虫の群れに突進する。
風溢れる午後だ。
今この空に凧を飛ばせば雲の上まで昇っていきそうだと、太陽に手をかざして小川は空を仰いだ。自分も高く昇れるような気がして片手を横に広げたことに自嘲し、家の中へと戻った。
哲也が「合宿」と称した小川と田島の共住スペースは今も変わらない。シューに関するルールを記した紙が数枚増えている程度だ。ただ、穏やかな春の午後であることを差し引いても、そこに漂う空気は以前よりも暖かいものになっている。
昨年度、三年生の担任だった田島の持ち物であるはずの卒業生による寄せ書きも、違和感なくリビングの壁に貼られていた。
その寄せ書きをちらりと見て、小川はキッチンに立った。
年度初めの教員は何かと忙しいらしく、田島の帰りも遅めだ。遅いとは言っても七時には帰るが、その時間に帰ってきた田島に夕食の準備を任せるのは忍びない。小川はこの日、初めて田島が小川の家に来て作った料理と同じものを作り始めた。
しかし、さすがに早く作りすぎ、五時には完成してしまった。小川は時計を眺めて腕を組み、首を斜めに傾げた。
「先に食ったら怒るだろうな……」
小川は、自分の分だけテーブルに並べられた食事を見た時の田島の反応を想像した。
「いや、別に怒りはしねえか」
田島は怒らない。怒らないだろうが、寂しげな顔をするだろう。その顔を少し見てみたいという欲求も小川に湧いたが、それを押さえてソファーに移動した。
「シュー」
姿の見えないシューの名を呼んだが、返事はない。シューもまだ帰っていないようだ。
小川はそのままソファーに横になり目を閉じた。
近頃は悪夢を見ることもなくなった。
元妻の悪夢も、ウガンダでの悪夢も。
話すことが回復に効果があることは小川も知識として知っていた。だが、大切なのは話すことではないとも感じていた。事実、医師に全てを話しても、何も改善しなかった。ただ、人間らしさを奪う薬を渡されるだけだ。
大切なのは話すことではなく、聞いてもらうことだ。聞いてもらいたい人間に聞いてもらう。それだけでいい。その後の反応は関係ない。相手に頷かれようが、否定されようが、抱きしめられようが、関係ない。
話した相手は、自分がこうして生きていると知っている。その事実が貴重なのだ。
小川の頬に、柔らかいが少しざらついた感触が伝わった。それが頬を押す力は少しずつ強くなっている。
「起きてよーう。お腹すいたよーう」
いつの間にか眠っていた小川が目を開けると、目を細めたシューの顔があった。
「おかえり。悪い、寝てた。飯はもう……」
「作ってある」と身体を起こして続けようとした小川がテーブルを見ると、そこには既に料理が並んでいた。
「並べてあるよ」
シューの前足の下に両手をやって抱き上げていた田島がそう言うと、シューの前足で小川の頬を挟んだ。そのままシューを小川に預け、冷蔵庫から自分のビールと小川のジントニックを出した。
「今日は飲むでしょ?」
「なんで?」
「あれ? 飲まない?」
小川はシューを床に開放し、ジントニックを冷蔵庫に戻そうとした田島を後ろから抱きしめた。
「飲む」
肩に回された腕に、田島が持っていたジントニックを押し当てた。
「どうしたの?」
「何でもない。……ありがとうな」
小川はそれだけ言うと、ジントニックを手に取ってテーブルに着いた。
田島は何に対しての礼なのか聞かず、ただ笑顔で小川の向かいに座ってビールを開けると、小川のジントニックに缶を軽く当てた。
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