3
休み明け二日目に予定外の時間を浪費して、ようやく家に辿り着いた頃には午後四時になっていた。小川を迎えた海風が、不規則に揺さぶられた心をようやく穏やかにさせた。
玄関の軽い扉を開ける。まだ田島が帰るまでは時間がある。小川はバスルームに直行した。
水を多めに開け、ぬるめの湯を頭から叩きつけるように浴びたが、塚田を抱いた後悔は流れ落ちずに膨れ上がるばかりだった。
海叶が転校し、塚田が休職したことで、小川の心は僅かながら乱れていた。小学校での勤務は、小川が社会に戻るためのリハビリのつもりだった。子供相手であれば、精神的な負担が少なくて済むという考えがあった。
だが、校長から予想外の仕事を与えられ、その過剰な期待に背きたいと心のどこかで願った小川は、校長の狙いを把握することなく裏切った。
小川はシャワーを浴びながら、明日からはもう学校へは行くまいと決心した。海叶が転校した今となっては、小川が辞めたからといって、誰に迷惑をかけるわけでもないと考えたからだ。
「やっぱ、まだ早かったかな……」
シャワーを止めて雫と共に溢した言葉は、排水口には吸い込まれずに、小川の心の奥に残った。
バスルームを出て夕飯の準備をしようとした時、米が切れていることに気付いた。あと三十分もしたら田島が帰ってくる時間だ。小川は携帯を手にし、田島に米を買って来てほしいとメールをした。
田島から返ってきたのは、メールではなく電話だった。
「それなら希の所で食べようよ。シューも連れて」
ほんの数日前、自分たちの家から急に帰った希のことが気になっているのかもしれないと、小川はその提案を受け入れた。小川自身も、今日はちゃんとした食事を作る気力もなかった。
六時に店で待ち合わせということになり、小川はとりあえず部屋着から着替えた。まだ家を出るには早すぎる。小川はしばらく携帯の画面を睨みつけたあと、南小学校へ電話をかけた。
校長を呼び出してもらい、ボランティアを辞める旨を話すと、思いの外あっさり了承された。ただ、明日は少しの時間だけで構わないから顔を出して欲しいと言われ、塚田とのことが知れたのではないかと一瞬体温が下がったが、単に事務的なことだろうと息を吐いた。
「考えてもしょうがねえな。シュー、海にでも行くか?」
小川がソファーで丸くなっているシューに顔を近づけて話しかけると、「ミー」と何度も返事が返ってきた。それを「イエス」と解釈して、小川はシューを乗せて車を走らせた。大きなカーブで揺れる小さな身体が転がってしまわないように、シューは必死に助手席のシートへ爪を立てて踏ん張っている。
車がビーチに到着すると、ようやくシューは緊張を解いて小川の脚に身体をすり寄せた。ビーチには影が広がり、爽やかな風が舞っている。小川がシューを胸に抱え車を降りると、どこから現れたのかシューの母猫のチョビが駆け寄ってきた。シューを下に降ろすとチョビは一度シューの身体を舐めて、またすぐに小川の方へと甘えた。
「他の子はどうした?」
小川がチョビの頭を撫でながらそう尋ねたが、鳴き声ひとつ上げずに首だけ回し、撫でてほしい部分を小川の方に向けている。
「外の人に貰われていったかな」
小川が言う「外の人」とは、海水浴や釣りでこの島にやってくる人間を指している。
元々チョビは野良猫だ。誰かが勝手に子猫を連れ去って行ったとしても、それを避難しようという考えは誰にもない。猫の親子関係はドライだ。一度離れてしまえば数分でお互いのことを忘れる。シューの興味も、チョビから石垣の間で見え隠れする真っ赤なサワガニへと移っていた。
小川はしばらく階段に腰を下ろしてその様子を眺めていた。気付けばシューと海叶を重ねて見ている自分に苦笑し、車の気配に立ち上がった。近づいて来る田島の車に手を振ると、運転席から控えめに田島も手を挙げた。
ウロウロと歩き回るチョビの行方に気を付けながら、田島の運転する車はゆっくりと小川の車の隣に停まった。
「お待たせ。良い子にしてましたかぁ?」
車から降りてきた田島がそう声を掛けたのは、当然小川に対してではない。その腕に抱かれたシューに対してだ。小川もそれは分かっていたが、小川の心にチクリと刺さるものがあった。
「もうお店に顔は出した?」
田島がシューを撫でながら、小川の顔を見上げた。
「いや、まだ」
「……じゃあ、早く行こ。お腹空いちゃった」
小川の様子がいつもと違うと感じた田島だったが、この場はとりあえず小川の腕からシューを奪うように抱きあげると、店へと駆けて勢い良くドアを開けた。ドアベルのカラコロと鳴る音よりも大きな声で、カウンターの端で雑誌を読んでいる希に声を掛けた。
「こんにちはっ」
聞き慣れた声に、希は雑誌を閉じて笑顔で振り向いた。
「いらっしゃい、亜紀。あ、シューも連れて来てもらったのね。雄太は?」
田島がそれに答えるよりも早く、開いたドアから小川が現れた。
「おい、そのまま店の中に入れちゃまずいだろ。なあ、希」
「だからって、車の中には置いとけないし、外に出してたらカラスが連れて行っちゃうもん」
駄々をこねる子供のような田島の言い様に、希はクスリと笑った。
「大丈夫よ。ただ、抱いたままじゃ落ち着いて食べれないでしょ? 哲也、キャベツが入ってた箱、ひとつ取って」
キャベツとは変な名前だと思った田島だったが、哲也が手にした段ボール箱を見て、その思いを口にしなくて良かったとひとり苦笑した。段ボールには緑のインクで大きくキャベツという文字と、キャベツの絵が印刷されていた。
「なんだ? キャベツって、猫の名前かとでも思ったのか?」
俯く田島に、小川がその心を読んでからかった。
「そこまで分かったんなら、言わなくて良かったって思ってたのも察してよ」
田島は頬を膨らませて小川に抗議したが、その顔を見てニヤついている小川を見て、それすらも分かっていて自分をからかっていたのだと気付いた。
「もういいっ。ね、何食べる?」
小川は田島をからかうのを止め、それほど豊富ではないメニューを見た。
「カレー食わないか?」
その声は小川からではなく、哲也から出されていた。
「なんだ、カレーが余ってるのか? いいよ、カレーで。最近食ってないし」
田島もそれに頷いて、シューをキャベツの箱に降ろした。
「物分かりの良い客は助かる」
哲也がそう言ってコンロの火を着けると、すぐに食欲をそそる香りが店内に立ち込めた。
小川は椅子に深く腰掛け直し、大きく息を吸った。幼い日を共に過ごした相手というのは、自分の本質を理解しているとは言えなくても、知ってくれているという安心感があった。知られていることでネガティブな感情が沸き上がっていた若い時代は、とっくに過ぎてしまっていた。それでも早々に仕事を諦める決断をしてしまったことを、旨い飯を前に切り出すのは躊躇われた。
一方で田島と希は食事の間も途切れることなく会話している。女というのは、よくもまあ話題が尽きないものだと、小川と哲也は顔を見合わせて半ば呆れていた。
「ちょっと霞食ってくるわ」
先に食事を終えた小川が、タバコの箱を握って立ち上がった。昔は店内でタバコを吸えたこの店も、今では禁煙だ。
「あ、俺も付き合う」
哲也も小川の後に続いて星が降り始めた外に向かった。
「どうぞごゆっくりー」
田島と希は声をそろえた。
二人が店を出たのを見届けると、希が田島の方に身を乗り出した。
「あのね、まだ哲也には言ってないんだけどね……」
少し照れたような笑顔で話す希が、そのあとに何を続けるのか田島にはすぐに予測できた。
「希、もしかして……」
パッと明るくなった田島の表情に、希も田島に次の言葉が伝わったと悟った。
「まだ病院には行ってないんだけどね、間違いないと思う」
田島は破顔して希の手を取った。
「おめでとう! いいな、希もいよいよお母さんかぁ」
「亜紀も雄太にねだんなよ。好きなんでしょ?」
思わぬ言葉が返ってきて、田島は自分の複雑な気持ちを言葉にできず、ただ旧友の手を握ったままその目を見つめていた。
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