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 山の斜面は雨でぬかるんでいる。苔むした丸太は、充分足もとに注意しなければ滑りそうだ。滑ったとして、傾斜は緩やかで滑落するような心配はないが、着ている物は無事に済みそうもない。駐車場で待機する教頭を眼下に、小川はゆっくりと展望台を目指した。所々、ぬかるんだ土に小さな足跡が残っている。

 尾根を越えて、小路は緩やかな下りになった。それと同時に視界も開ける。目の前に展望台というよりも祭りやぐらのような建造物が現れ、その向こうには麓の街と、遠く海が見えた。

「海叶君」

 展望台の向こうに足を投げ出して座り、手すりに両腕をのせて胸を預けている小さな影が、小川の声に反応して振り向いた。

「だれ?」

 無視されるのではないかと構えていた小川だったが、子供らしいあどけない表情で振り向いた海叶を見て、ひとつ安堵の息を吐くと笑顔を浮かべた。

「さっき教室で会っただろ? 小川雄太だ。よろしくな。……そこはキミ専用の場所かい?」

 海叶はそれに首を横に振っただけで答えると、再び眼下の景色に目をやった。

「それじゃあ、俺も上がらせてもらうよ」

 小川がひと言断海叶に対して許可を得るように口にし、二メートルの高さの展望台へ上がる梯子を上った。

 展望台の床は鉄道の枕木を利用していてしっかりしている。明け方の雨を吸った古い枕木は、郷愁という名の独特な香りを放っていた。

 展望台の広さは四畳半ほどだ。海叶は最初に一度振り返ったきりで、展望台に上がってきた客には興味を示さなかった。小川がゆっくりと近づいて海叶の隣に腰を下ろした。

 小川が海叶の横顔を覗き込むと、その視線は眼下の景色を見下ろすというよりも、まっすぐ自分の目の高さで遥か彼方を見つめていた。

「空を見ていたのか……」

 小川も海叶を真似て、視線を正面に向けた。白くかすむ街並みの上に、所々青空が覗いていた。

「僕の名前、『凧』って意味なんだってさ」

 正面に僅かに見える青空へ視線を向けたまま、海叶が言った。

「やっぱりそうか。そうじゃないかとは思っていたよ」

「ほんと?」

 海叶は一瞬目を輝かして小川を見たが、目が合うとすぐにまた視線を戻した。

「ああ。音は空を飛ぶ『カイト』で、漢字は『海』と『叶う』。漢字の方はどんな意味なんだい?」

 小川も海叶にならって視線を空に向けたまま聞いた。

「知らない。漢字はお父さんが決めたんだ。だから知らない」

「そうか。ま、そのうち知る時がくるかもな」

 海叶の両親は、海叶が小学校に上がる前に離婚している。母親が薬物に手を出したのはその後だ。

「別に……」

 別に知りたくもない。海叶はそう思っていた。小川もそれ以上会話を広げようとはしなかった。深く考えて口に出した言葉でもない。今日初めて会った子供の名前に対する興味に、心の動きが制約されるはずもない。

 しばらく静かな時間が過ぎて行った。ついさっき聞こえた一時間目の終了を告げるチャイムも、ノイズ交じりのラジオから聞こえてくる異国のメロディーのようだった。

 この日初めて顔を合わせた二人の世界に存在するのは、木々の葉を揺らす風の音と、小鳥の地鳴き程度だ。甲高い子供たちの賑やかな声も、この場所にいる二人には現実離れした音に聞こえていた。

 その二人のいる展望台の手すりに、新たな客が現れた。キジバトだ。

 海叶はその姿を認めると、ポケットの中からビニール袋に入ったパンを取り出した。そのパンをちぎって枕木の床に投げると、キジバトはバサリと二、三度羽ばたいて手すりからパンめがけて降りた。

 海叶は、胸をクックと鳴らしながらパンをついばむキジバトの姿を静かに見つめている。

「いつもパンをあげているのかい?」

 小川に海叶は黙って頷いた。もう一度パンをちぎって、最初に投げた位置よりも少し自分に近い位置にパンを投げた。そのパンに気付いたキジバトがパンの傍まで来たが、それを食べることなく飛び立った。

「海叶! もう帰って来なさい!」

 キジバトを飛び立たせたのは、休憩時間に入って様子を見に来た塚田の声だった。

 担任の塚田から声を掛けられても動こうとしなかった海叶だったが、次のひと言では、先ほど飛び去ったキジバトと同じような勢いで、飛び跳ねるようにして立ち上がった。

「海叶! 伯母さんに電話して来てもらうよ!」

「嫌だ!」

 まるで脅迫だ。小川は溜息と共に立ち上がった。

「海叶君、慌てるなよ。雨で滑りやすいから」

 海叶は小川をちらりと見たが、すぐにプイっと前を向き、梯子を使わずに展望台から両手を広げ飛び降りた。落ちて行く身体に置き去りにされた柔らかい髪が、風を受けながら遅れて地面へと向かう。

「子供は皆飛び降りたがる……」

 小川は自分の幼少期を思い出して笑うと、飛び降りたい衝動を軽く抑え込み、梯子で降りて海叶の後ろに追いついた。海叶の前では塚田が時折振り返って海叶が付いて来ているのを確認しながら歩いている。

 滑りやすい下りの道では、上りよりも足元に気を使う。

「この先は特に滑りやすいから気を付けて……」

 海叶に向けて、そう小川が声を掛けると、それを合図にしたかのように海叶が前を歩く塚田の腰辺りを押した。

 塚田にとってはタイミング悪く、前に出した足に体重を掛けようとした瞬間だった。その足は意図した位置よりも前方へと向かって動き出し、つま先はやがて上空へと向けられた。小川が慌てて手を伸ばすような時間もなく、塚田は足ではなく尻で一段丸太の階段を降りた。

 海叶の方を向いて立ち上がった塚田の顔は、羞恥と怒りでみるみる紅潮していった。今尻で降りた段差を今度は足で上り、海叶に詰め寄って彼を見下ろした。

「何するの!」

 キンキンと甲高い声が森の中に響く。小鳥の声は聴こえなくなっている。

「海叶君、謝りなさい。怪我はないようだが、頭でも打っていたら大事おおごとだったぞ」

 小川がそう言うと、海叶は俯きながらも口を開いた。

「ごめんなさい」

「あ、謝って済むと……!」

「塚田先生!」

 謝罪の言葉など聞く耳を持たないといった態度の塚田を、小川は制した。

 塚田が小川を睨みつけた隙に、海叶は塚田の脇をすり抜けて、時々滑りそうになりながらも山の小路を駆け下りて行った。

「海叶!」

 塚田の呼びかけを無視して、海叶は二人の視界から消えていった。

「申し訳ありませんでした」

 頭を下げた小川を塚田は無言で睨んでいる。

「私が間に立って歩くべきでした」

 自分ならば不意を突かれて押されたとしても、無様に転んだりはしなかった。小川はそう思ったが、当然それは口にできない。

「小川先生が謝られることじゃありません」

 それでも不機嫌なのを隠そうともしない塚田の心の内は小川にも見えていた。叱りつけるのを制されたのが気に食わないのだ。

 だが、どうやら小川が気付かなかった不機嫌の原因もあったようだ。

「小川先生……海叶と何をされていたんですか?」

 ジャージの繊維の奥まで入り込んだ泥を払うのを諦め、慎重に坂を下り始めた塚田が口を開いた。

「特に何も。横に座って一緒に空を眺めていました」

 それを聞いた塚田は一瞬立ち止まった。立ち止まっただけで振り返りはしない。

「それだけ?」

「ええ」

「そうですか……」

 その小川の行動が良かったのか悪かったのか、塚田は口にしようとしなかった。海叶が教室を抜け出して展望台に上がるのは日常的な行動だ。今後も何度となくあるだろう。今後のためにも小川は、その対応の良し悪しを確認すべきだと感じた。

「まずかったですか?」

「別に……。小川先生は、海叶が問題行動を起こさないように見ていてもらえばそれで」

 小川は「問題行動」という言葉を聞いて、表情を険しくさせた。

「授業を放棄するのは構わないんですか?」

「今は他の子供たちの妨害をしなければ充分です。急に普通の子供と同じになんてなれませんから」

 当然普通の子供ではないから小川のようなボランティアを雇っているのだろうが、塚田のその言い方には望まないものに対する嫌悪が込められていた。

「私の活動は、海叶君がちゃんと授業を受ける為にサポートすることじゃないんでしょうか?」

 その小川の質問に対する答えは、二時間目開始のチャイムに阻まれて返ってこなかった。

「教頭が教室に行ってくれています。私は着替えてきますので、小川先生はすみませんけど先に教室に行ってもらえます? 教頭に少し遅れると伝えてください」

 駐車場に降りて塚田はそう言うと、小川の返事を待たずに小走りで職員室へと向かった。

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