(火曜日更新)真っ青なブルー
巨海えるな
第1話(1)
1 LOVE(0) and(&) peace(2)
――最高のセックスを憶えているか?
夜空が流れ星でいっぱいになるほんの少し前。ランスは俺に向かってそんなくだらないことを尋ねてきた。
レインボーアーチブリッジで出会ったあの女の事を思い出したのは、ランスのキャラメルシロップをたっぷり入れて味の分からなくなったコーヒーのような質問のせいだ。
メルヘンチックな名前が付けられたその橋は、昼間はその名の通り子供たちがチョコレートでベトベトにした口元をキャプテンスコットの音の出るおもちゃよりも高い服の裾で拭きながら、スノーマンのように丸々としたダディとメリーポピンズのフィギュアのようなマムに手を引かれて渡るような趣味の悪い橋だ。
だが夜ともなるとその橋はたちまち死神たちが躍るパーティ会場になっちまう。
レインボーアーチブリッジがあるサウザンドヒルの街に、俺のようなスラムで育った野良犬が立ち入れるはずもなかったが、その橋は違った。
レインボーアーチブリッジは平和を愛する金持ちたちが危ない橋を渡るデスサイズアーチブリッジでもあったのだ。
汚れきった俺達が住む湿気と熱気で年中煙の臭いが立ち込める町と、陽気な音楽と甘いポップコーンの匂いが漂う街を繋ぐその【虹の橋】は、闇が光を吸った後には【死神の橋】になるって訳だ。
ある種、当時はそれが俺達の住む世界の象徴だったのかもしれない。
俺達は虹の街に渡ることは出来なかったが、虹の街に続くその橋に死神がうろつくころに限ってはその橋の上に立ち入ることができた。
死神というが、俺からすれば昼間の甘ったるい匂いの連中のほうがよっぽど死神に見えた。確かに俺達【死神】はみすぼらしい恰好だ。片足ずつ違う靴に何日も洗っていないボロボロのジーンズ。俺の街に充満する湿気の籠った霧は工場の黒い油も含んでおり町に数時間いるだけで汗をかかずとも身体はびっしょりと濡れ、顔や腕を撫でるとギトギトの油が肌の上で伸び、撫でた後が黒ずんだ。
やつらが俺達のことを【ダウン】と呼んでいるのは知っていた。ならば俺達はアンタらポピンズのことを【アッパー】と呼ぶべきかい?
だがそんなことは俺にはどうでもよく、仲間が皮肉と感謝を込めて呼び親しまれている【アンヘル】と呼ぶことにした。
……おっと、すまない。妙に説明が長くなってしまったようだ。
要はあの町に俺はイカしたパンク映画のようなクールな想い出も、鉄が溶けるほどのアツイエピソードもない。なにもないということだけが言いたかったんだ。
俺達は奴らを【アンヘル(天使)】と呼び、奴らは夜の橋を【デスサイズアーチブリッジ(死神の鎌の橋)と呼んだ。
俺は小説を読まないが、これを哲学的とでも言うのだろうか。
俺達の町の同じ年代の連中で字を読めるのは珍しい。
いや、それどころか一生読み書きできずに死んでゆく奴だって珍しくないんだ。
だが俺には字が読めることは必要なことだった。何故なら【橋】で商売が出来ないからさ。
アンヘルの奴らは俺達の町でしか栽培できない花【PEACE】の花粉から取れる純度の高いドラッグを好んだ。
中毒性は高いが人体に有害な物質がほとんど含まれていない優れたドラッグだ。
これでトぶと高揚感と劇的な快感増幅を見込める。
要するにセックスドラッグだ。
このPEACEのおかげで俺達の町は存在出来ている。
ある種そういったわけで感謝しなければいけないが……アンヘルたちはそんな俺達のことを死神だなんて呼び、死神になりきれなかった連中をダウンと呼ぶ。
俺達はもしかしたら奴らにとって人間ですらないのかもしれなかった。
PEACEには色によってレベルと細かい効能が変わった。だから俺はそれを説明する為に読み書きが出来なければいけなかったのだ。じゃないと死神は鎌を渡してもらえない……というわけだ。
夜になるとレインボーアーチブリッジからアンヘルたち街・サウザンドヒルに入る入口は巨大な鉄のゲートに閉じられ自由に行き来できなくなる。
ゲートが閉まるのを目印にめでたくこの橋は【死神の橋】になるってわけだ。
PEACEを売りさばく薄汚れた黒い死神たちと、夜でも光り輝きそうなキラキラの服を着込んだアンヘルたちがPEACEの取引をしている。より純度の高いPEACEを求め、連中はヘラヘラと笑いながらタップダンスの如く革靴の踵を鳴らしてあっちの死神、こっちの死神に話しかけていた。
そんなある夜の事だった。
その日は朝からツイてなかったが、夜はさらにツイてなかった。
俺が対応したアンヘルの奴が妙なイチャモンをつけ、5階建てのアパートメントの最上階から地上にいる通行人に自分が落としたハンカチを拾うように叫んでいるような大声で、人ひとりほどの隙間しかない距離に立つ俺に向かって罵声を浴びせたのだ。
アンヘルのくせに値段交渉をしてきたから「できない」とたった一言言っただけだ。
たったそれだけのことに人を殺しかねないほどの激昂ぶりを見つつ、俺達にはない沸点の低さにただ溜息を見つからないようにするしかなかった。
だがそれはその日の俺から客を遠ざけるのには十分すぎる材料だった。
気の毒そうに俺を見る他の死神の連中は、次第に「商売の邪魔だから帰れ」と言った目に変わってくる。俺はそれをすぐに察したがだからといって生活が懸かっているのだ、ほいほいと帰るわけにはいかない。
売上の成績が悪ければすぐにこの橋で商売が出来なくなっちまう。
そう、死神の代わりなんていくらでもいるというわけだ。こんなトラブルで落ちてくる奴をアイスクリームを食べている子供の足元に集まるアリのようにじっと待っている。今俺が落ちれば、明日からこの場所には違う死神が立つことになってしまう。
そうなればもう俺の死神としての寿命はお終いだ。もうここに戻ってくることは絶望的だと言っていい。
そこでなりふり構っていられなくなった俺は誰もやりたがらない【オファー】に乗り出すことにしたんだ。つまりこっちからアプローチをかけるということ。
特に禁じられているわけではないが、先ほどの俺を見れば分かるようにアンヘルの連中は俺達のことを同じ人間だとは思っていない。だからこちらから話しかけると、連中は不快感を露骨に表しさきほどのようになりかねないのだ。
だから基本的に死神たちは待ちに徹する。
だが俺には待ちに徹すれば落ちるのみ。それだけは目に見えていた。
ある種のバクチだったが、俺は持ち場を離れるとうろちょろと死神を吟味しているアンヘルたちの誰かに声を掛けることに決めた。
声を掛けることを決めても、安易に誰彼かまわず声をかけるときっと何人からも罵声を大声で浴びせられるに違いない。流石に連続してさきほどのようなことになれば死神たちのボスによって強制的に退場させられてしまう。
声を掛けるアンヘルは慎重に選ばなければいけなかった。
そんなゾンビの中から一人の人間を判別するような困難なサーチの中、こんな場所には似つかわしくない少女がいた。
その少女は落ち着かないのを胸に当てた両手の甲で表し、綺麗な金髪の髪を首を振る度に波打たせた。
俺は無神論者だが、この一瞬だけは或いは神を信じたのかもしれない。
年中地中の暗闇に身を潜めているような俺達ダウンにとっては、それほどまでに少女の光は目に焼き付き、……いや、目を焼いてしまいそうだった。
ともかくとして、つまりはこんな場所にいるべきではない存在であった、というわけだ。
俺は周りを見渡すとその少女に気付いている死神も、アンヘルもいなかった。
PEACEを探すアンヘルと、上客を待つ死神の目には彼女の存在は視界に入っていないようだ。
ならば俺はツイているかもしれない。なぜなら何も知らなさそうなこの少女にならば言い値でPEACEを捌けるかもしれないと思ったからだ。
しかもその外見からは大声で怒鳴る姿は想像できない。
俺は思わず口元がにやけるのを止められなかった。無意識には大きくなる歩幅と、早くなる歩調。近づくにつれてその女神様は俺にとっての金づる……金のアヒルに見えてくる。
「やあ、お嬢さん。PEACEをお求めかな?」
出来るだけフランクに、警戒心を持たれぬように、柔らかく声を掛けた。
「……!」
少女は俺の言葉に対し咄嗟に振り向くと、「やあ」と俺が上げた手を掴みサウザンドヒルに向かって走り出したのだ。
「お、おい……そっちはまずいって!」
俺達ダウンがサウザンドヒルに入ることは堅く禁じられている。もしも入れば最悪の場合処刑だってあり得るんだ。
「ちょっと、あんた待てって!」
気づけばゲートのすぐ近くだった。
誤解してほしくないのだが、俺は何もこんなところまで腕を引かれたわけではない。
下心の余りこんなにもゲートに近づいていたことに気付いていなかったのだ。
「いいからついてきて!」
少女の放った声は無防備に橋の上を横切り、死神・アンヘルどちらも含め男しかいないその橋では彼女の声は必要以上に目立ってしまった。
「おいあいつを見ろ!」
結果として招いたのは、誤解。明らかに俺の手を引いていたのは少女の方だったが、彼らからすればそんなことは関係なく、ただ『ゲートの前でダウンがアンヘルの少女と居る』という物理的な絵だけで充分だった。
誤解とは「ダウンが少女を盾にサウザンドヒルに入ろうとしている」というどうしようもなく笑えないものだ。俺はそれを即座に察知した。
もう後戻りをしたところで俺は殺されかねない。どんなに弁明をしたところで、喋っている最中にアンヘルたちからの信用を無くしたくない死神の仲間によって撃たれて死ぬ。
俺は主張することも赦されず、言葉を言い終えることも叶わず、ただダウンタウンのゴミとしてただ死ぬしかない。
この場で俺が死ぬ確率はもはや確実だ。ガキのころ、仲間のチョコを咥えて逃げたネズミを仲間達十人くらいで追い詰めたっけ。
この状況の俺と言えばその追い詰められたネズミといえた。
俺の手を掴む少女は相変わらず俺を連れて行こうと手を引いている。
……あのネズミはどうしたかな。
時間にすればほんの数秒。今朝食ったパンを耳にするか中身にするかを決めるまでにかかった時間くらいの秒数。
俺達があの日追い詰めたチョコレートを咥えたネズミが取った行動を思い返してみた。
ネズミは確か……。
「きゃ!」
俺を窮地に陥れた張本人である金髪の少女。見つけた時は一瞬神かと錯覚したが、どうやら俺の受けたあの感覚は錯覚ではなかったらしい。
この少女は神だ。
女神? 笑えないな、神は神でも死神。俺達のような偽物じゃない。
本物の死神だ。
彼女を抱きかかえるとゲートに向かって俺は一気に駆け寄った。
「どうやって開けたらいい!?」
俺に抱きかかえられた死神は四角いキーを渡し、人用ゲートの横にぽっかりとスリットの入った鍵穴を指差した。
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