二王史伝 ~木犀の国と鸞鳳の番~

海山 紺

序章 二人の王

第1話 少女の憂い

 

 

「人の感情が歴史を変え、人の想いが新たな歴史を作るのだ」


 

 かつて、とある史伝を書き記した一人の文官はそう言った。

 また、感情と想いは決して同じではなく全くの別物である、と。


 彼がなぜそう定義づけたのかは、この重厚な史伝を読めば理解できよう。

 『二王史伝』――。文字通り、二人の王が紡いだ歴史を後世に語る史書である。

 その王たちは、まだ年若き少女と青年だった。

 しかし、彼女たちがいたからこそ今のような平穏な時代がある。


 平和な世の礎を築いた彼女たちは如何にして出会い、どのように想いを通わせたのか。

 史伝の一頁に刻まれた最初の歴史は、一人の少女が銀花の女王となったことから始まる。





   *****





 開け放っていた窓から清風が吹き、青藍の耳飾りを揺らす。


 耳朶じだに囁く玲瓏れいろうな響きを聞きながら、白銀しろがねの少女は部屋の中央にある卓子に歩み寄った。卓子に置かれた花瓶には、花が咲いた銀木犀の枝が何本か生けられている。その一枝を手に取り、顔に近づけると柔らかで芳しい香りが鼻腔びこうをくすぐった。


 ――今日も良い香り。


 不安と緊張で速まっていた鼓動が段々と落ち着いていき、少女――白琳はくりんは笑みを零す。


「白琳様」


 名を呼ばれ、声の主を振り返ると、新人の侍女である掩玉えんぎょくが心配そうに問いかけた。


「もしよろしければ、お茶をご用意しましょうか?」

「そうね。お願いしてもいいかしら」

「はい! かしこまりました」


 喜色を浮かべて一揖いちゆうし、部屋を後にする侍女を見送って、白琳は枝を元に戻す。


「やはり、緊張されておいでですか?」


 そこで、傍に控えていたもう一人の侍女、美曜びようが白琳に歩み寄った。

 明朗快活で愛嬌のある掩玉とは異なり、彼女は冷静沈着で落ち着き払っている。ゆえに、その声音は凪いだ水面のように静穏で耳心地が良い。侍女としての年功の差もあるのだろう。掩玉は自身と同じ十七だが、美曜は三十路手前だ。


 白琳は「ええ」と苦笑して、窓の方に顔を向けた。


「緊張というより、むしろ不安の方が大きいわ」


 本当に、わたしが王で良いのかしら。


 憂いを帯びた眼差しの先には、銀苑ぎんえんと呼ばれる園林があった。万年咲き誇る銀木犀の木々と丸池が織りなす佳景が一望でき、池の中では色とりどりの鯉たちが優雅に遊泳している。


「それに、こんな豪奢な服まで着せてもらって……」


 身に纏っている装束に目を落として、白琳は申し訳なさげに呟いた。

 華奢な体躯を包むのは、今日の即位式のためだけに仕立てられた美麗な礼服。白と青を基調としており、舞い散る銀花のなかで雄大な両翼を広げる神鳥、らんの意匠が光る。しかも、鸞の意匠は王にのみ使用が許されている特別なものだった。


 これから即位式を経て銀桂国の女王になる者とは考えられないほど、眼前の主は恐縮しきっている。やはり、好きな花の香気だけでは完全に精神を安定させることは難しいようだ。


「何を仰っておいでですか。貴女様は今日から国主となられるのです。それ相応の身なりをしていただかないと、御自身の沽券に関わります」

「でも……」


 まだ自信を持てない白琳に、美曜は彼女に気づかれないよう秘かに嘆息した。


 ――まあ、無理もないか。


 銀桂国での女王即位は史上初。歴代の王は皆男性で、女性が王位を継ぐことは無かった。しかし、この国で男尊の風潮よりも重視されているのが血統だ。初代銀桂君の血を受け継ぐ王族にのみ王位継承権が与えられ、それ以外の者が玉座に就くことは許されない。初代銀桂君が定めた掟は、七百年ほど経った今でも絶大な効力を発揮している。


 ――この方の場合、決してそれだけではないけれど……。


 重い沈黙が流れたのも束の間、扉が叩かれる音がした。


「白琳様。掩玉にございます」

「どうぞ」


 白琳が許可を出すと、「失礼致します」と掩玉が湯呑を乗せた盆を持って入室した。


「ありがとう。掩玉」

「いえ、これくらいお安い御用です!」


 掩玉から受け取った湯呑には銀花茶が入っており、液面には摘みたての小花が漂っている。銀花茶は銀桂特有の飲料で、乾燥小花と茶葉を煮出したものだ。

 茶を一口啜ると、仄かな甘みが口内に広がった。強張っていた体もほどよい温かさのおかげでほぐれ、白琳はほっと安堵の息を吐く。


「美味しい」


 血色も良くなり、柔和な笑みが戻ってきた。女官たちも互いに顔を見合わせて微笑む。

 すると、再びコンコンと軽妙な音が室内に響いた。


「白琳。入ってもいいかい?」


 聞き慣れた青年の声が扉越しから聞こえ、白琳は思わず目を見開く。


白璙はくりょうお兄様……⁉」

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