異世界から現代日本へ、ワガママ社長令嬢と条件付き同棲始めます。

XIS

別れと出会い、そして杖

 セラシル第一王女が王座を勝ち取り、国の新たな王として即位された。


 この情報が世間に知れ渡るのはあっという間だった。


 そしてそれは、前代国王であるリセルド・フラーガリアが急逝し、次の国王を決めなければならないという状況が惹起してから3年という年月が経過した時でもあった。


 即位の義が行われている今、その座を狙っていた誰もが諦め、静かに王冠を身につける様を泰然として見ている。不満を持つ者、今この瞬間に場を乱そうと暗躍する者、暗殺を企てんとする者。それら一切なく、ただ誰も彼もが敵としてでも認めた最優の女王に、これ以上の醜態と悪辣は晒すべきではないと思い込まされていた。


 そしてその思いをトラウマのように植え付けた存在。


 セラシルではなく、セラシルに最も近い位置で朗らかな表情を浮かべる最優の騎士――レリアス・リニアード。


 王権を狙う7名の王位継承候補者に加え、これを機に王権を握ろうと暗躍していた8名の貴族を足した15名全てを赤子のように弄んだとも言えるレリアスは、だからこそ、それら15名の者を筆頭に注目を集めていた。


 なんせ各王位継承候補者と貴族の刺客に対し、それはもう圧倒的な実力差で対応しながらも、無傷でセラシルの安全を守った存在なのだから当然だ。


 王位継承候補者とて、命なければその権利は無に等しい。単純なことだが、何よりも手っ取り早くて簡単な結論だ。それ故に王座を狙った襲撃は大半がセラシルの命を狙った攻撃であり、だからこそ、その攻撃は単調で読みが当たりやすかった。


 だからということも一概の理由ではないが、レリアスは唯一の傷を負うことも無く3年の時を無傷で過ごし終え、王座にセラシルを座らせることに成功していた。


 とはいえ、何度も迫る襲撃を何度も無傷で対応して終えるなど、そんな作り話のようなことが、何の代償もなく可能なはずがない。人数差も攻撃の種類も多数あったのに、何故レリアスは全てを悉く跳ね除けることが可能だったのか。


 その答えを誰もが知りたいと垂涎の視線を向ける中、セラシルが女王陛下として即位したその日から約1週間後、答えを敵派閥含め全ての民が知ることになる。





 「レリアス!レリアス!!」


 激しく声を荒らげ、しかし怒りの声色ではなく、心配の意を込めた声色がレリアスの寝室に轟いた。


 その主は紛うことなき現国王セラシル・フラーガリアである。


 取り乱したような姿は国の頂点として似合わない。だが長年側近として我が命を守ろうと必死に尽くしてくれた存在の危機に、そう落ち着いていられる精神もなく、年齢も幼かったのだから仕方がなかった。


 「……入室早々騒がしくない?」


 齢16という、国の長にしては若過ぎるセラシル。そんなセラシルと全く同じ年齢のレリアスは、未だ一度として目上の存在として君臨するセラシルに敬語を使ったことはない。


 だがそれに文句もなく不遜として咎めることすらしないセラシルは、ただひたすらに傍に寄って手を握った。目を合わせ、無言で。


 そして握って3秒後、固まった口は動き出す。


 「……何があったの?一度として急に倒れるということのなかった貴方が、私の即位と同時のように倒れるなんて」


 「あぁ……それについては――」


 「――はい。私から説明させていただきます、陛下」


 レリアスの発言途中、まるで任されることを知っていたように、セラシルが入室してから既に部屋の中に居た唯一の人間であり、セラシル派閥を騎士団長として守護した優秀な男――フェルム・ナルグスタが言った。


 それに不満のない様子のセラシルを見て、フェルムは続ける。


 「彼――レリアスは先天性の病により、四肢を初めとした体の自由を失いつつあり、そしてそれは現在臓器にまで及び……」


 そこで一度口ごもる。フェルムはこの先をセラシルに伝えると決めて3年だが、それでも長年共に背中を預けてきた騎士として、伝えることが苦しかった。どうしても助かる道を模索し続けたかった。しかしそれも不可能と知った今、下唇を数瞬噛んですぐに口を開いた。


 それを黙って見守るセラシル。次第に覚悟の顔つきに変わり、同時に破顔の準備をしているようにも見えた。


 「既に……この先助かる未来は潰えた状況にあります」


 「……それは……つまりどういうこと?……この先レリアスはどうなるの?」


 「簡単に言えば……死ぬってことだな」


 これ以上は自分の口から言おうと、もうハキハキと喋ることすら許されなくなった体とはいえ、無理をしてでも伝えるべきだと必死に力を振り絞って伝えた。


 普段から陽気で不気味で何を考えているか分からないと言われ続けた未知の男が、ここに来て気遣いを見せた。その瞬間を惜しむ暇もなく、その発言がもう受け入れているように感じたセラシルは、不思議だからとその発言に対して問う。


 「……死ぬ?そんな話は一度も聞いていないわ」


 「知ったら……お前は多分今よりずっと前に悲しんで……今頃最初の脱落者として名を後世に残すことになってただろ」


 多情な16歳故に、同い年であり最も信頼できる相手が、実は16歳まで生きることが難しいと言われたなら、きっと今この瞬間はなかったと確信しているレリアス。それくらいに、セラシルのことは熟知しているということでもあった。


 「それは……そうかもしれない。でも、先天性の病気が今急激に変化するなんて、そんな都合のいいことあるの?」


 「……それは俺の演技が天才的だったってことだな」


 「今まで……ずっと耐えてた、と?」


 「……不思議じゃなかったか?」


 「え?」


 レリアスは長くないことを知っている。自分の体なのだから当たり前だ。だからこそ、今が打ち明ける最後の時だと悟って伝えようと言う。


 「何故俺が、どんな敵からもお前を守れたのか不思議じゃないか?」


 「……不思議よ」


 「その答えが今の俺の状態だ。正確には、こうなった代わりに手に入れたものが、だけどな」


 そう言って深呼吸してレリアスは続ける。


 「俺は生まれた瞬間から、脳の処理速度が普通の人間と比べて何十倍も……何百倍も速かったんだ。言ってしまえば、時が止まったと錯覚するくらいに周囲の事柄が遅く見える処理速度を持ってた。集中した時限定だけどな。だから相手の動きを完全に見切れたし、どんな人数相手でも常に最適解の行動ができた。でもそれは同時に、この世に存在してはならない才能だったんだろうな。俺は生まれた瞬間から最強として君臨することを代償に、今こうして短命という運命を背負うことになった」


 普通なら有り得ないことだ。集中すると時の流れが止まるくらいの脳の処理速度なんて。しかし、有り得た。大きな代償を持って。


 それが天秤を平等に保つ唯一で最大の代償。


 「だから、普通に考えると分かるだろ?時が止まった中で情報処理をするなら、相手がどんな動きをしたとしても対応が間に合う。この世界に非現実的な攻撃方法が生まれない限り、お前はもちろん、俺にすら傷はつけられなかったんだ。それが、誰もが持つ俺に対する不思議の答えだ」


 同時に、何故今ベッドに寝ているのかという疑問の答えでもある。


 「……そんなこと……」


 僅かな沈黙の後、この先が長くないという言葉に嘘がないと確信したセラシルは、無言の時間こそ惜しいと思って即座に会話を始めた。込み上げる想いを噛み締めて。


 「……いえ、今更何故?と疑問を問いかけても、答えは貴方らしく筋の通って正しく私を思ったことばかりが返ってくるんでしょうね。分かるわ。長い付き合いだもの」


 「……だな。分かってるじゃないか」


 笑顔で対応するレリアス。その裏にどんな苦しみがあるかは不明。しかし引っかかることがあったセラシルは問う。


 「ねぇ、怖くはないの?」


 生まれた瞬間人は死ぬ。分かりきったことでも、16という若さと80という老いでは覚悟が違う。だからこそ生まれた疑問だった。それに対し、レリアスは再び笑みを見せて言う。


 「不思議と……全くと言えるくらいにない。あるのは……この先お前の勇姿を見守ることが不可能っていう残念さ、かな」


 生まれてすぐ、15という歳を重ねて生きることは不可能と言われたレリアス。だから、レリアスは今は亡き両親に、そしてその後の育ての親に、人は15歳で天寿を全うすると幼き時から教えられていた。だから死への恐怖は薄かった。


 成長と共にそれが嘘だと気づいても、既に決然が揺るぐことはなく、受け入れて才能を存分に発揮したレリアスは、死ぬことに微塵の恐怖もなかった。


 特に今では、15という年を1年も重ねて生きているのだ。もう長生きしていると勘違いしているくらいには、十分な時間を生きた感覚なのだ。


 あるのは未来を失う寂しさだけだ。


 「……そう。出会った時から異質だとは思っていたけれど、そんな裏話があるなら、普段の無関心な様子も今の覚悟も無理ないわ」


 「だろ?天才少年って言われても、この先短ければ喜べる気もしないからな」


 そんな普通の会話中も、実は次第に苦しみが強くなっている。今日が命日と知っていたが、死に際がこうも近づいてくるように感じるのは、レリアスにとって不快に感じさせる唯一の概念だった。


 (……限界……か)


 呼吸が難しい。笑顔が引き攣る。手足が言うことを聞かない。その他昨日まで普通にしていたことが、苦しみという条件をつけて動かす許可を脳から出される。なんとも心地悪い。


 「……なぁ、セラシル。これから先、長く苦しい時が続くだろうけど、それでも挫けるな。お前ならこれから先、何があっても乗り越えられるって信じてるから。俺が守って良かったと思える国にしてくれ。それが最後の願いだ」


 「えぇ。約束するわ」


 覚悟を決めたようで決めていない。演技の下手なセラシルだから、今にでも現実逃避したいその感情を無理に殺して手を握る。しかし大切な人の死を目の前にしてでも普通を保てるその精神の強さ、レリアスの最期を目下に成長を感じる一面でもあった。


 「あぁ……あとフェルム。この先は任せた。俺の穴埋め頼んだぞー」


 顔は動かせない。だから指先だけを動かして声を最大限に伝えた。するとそれに応えるよう、フェルムは片膝をついて言う。


 「ああ。――長年に亘り、我が主を命を賭して守っていただいたこと、心より感謝する」


 その丁寧にも上司から部下に対するのもとは言えぬ態度に、レリアスはただ満足気に笑った。


 「……悪くないな」


 セラシルの握った手の力が強まるにつれ、レリアスの手の感覚が失われていく。レリアスは近いのだと悟った。そしてセラシルも同じ様子だった。だから無言でレリアスの言葉を待つように目を見ていた。


 「……セラシル。頑張れよ」


 伝えると意識が一気に朦朧とする。限界が来たのだと察するには容易なことだった。そんなあやふやの中、レリアスは視界だけが微かにセラシルを捉える中で、聴覚も微かにそれを聞き取った。


 「当然よ。……レリアス。大――」


 意識が消える瞬間、胸の鼓動を確かに感じた。しかし残念だ。それがなんなのか、考える暇は当然なかった。


 ただ願ったことは1つだけある。


 もし生まれ変われるのならば、次こそは守り抜いた人間の未来を共に傍で見ていたい、と。


 その後響くセラシルの慟哭に、レリアスの鼓膜は一切反応を示すことはなかった。


 王国最優騎士レリアス・リニアード。齢16にして夭逝。しかし、遺した歴史は後世に語り継がれる英雄譚となろう偉業ばかり。能力の代償として受けた16年しか生きられないという呪いがまだ小さく感じるほどの死守であった。





 しかし、だから、というべきなのだろう。


 だから、何故俺がまだセラシルを守り王座に座らせたという意識を持って、今この騒がしくも大きな建物に挟まれた空間に立って居るのかが理解できなかった。


 「……確かに俺……死んだよな?夢……にしては鮮明過ぎるし……」


 明晰夢を疑うが、それならば頬に触れて反応する痛覚が的確なのも不思議だ。故に現状俺自身がどうなっているのか、それを正確無比に判断することは無理だった。


 「ってかどこだここ……王都にしては眩しいし、人多過ぎる。着てる服も違うし……」


 記憶に残る全てが、今視界が捉える全てを新鮮だと言っていた。こんなことに時を止めるほどの処理を行うことはないが、王都と比べて非現実的と言える建物からの明かりの量と数、そして路地裏のようなここから見える服装や人の数が、王都ではない何処か違う場所だと訴えていることは瞬時に把握した。


 「はぁ……どういうことだよ」


 早速懊悩。確かに生まれ変わったら、とは願ったが、意味不明な場所に意味不明なまま移動させられるようなことは願っていない。


 「まぁ、分からないなら聞けばいい――」


 「おいジジィ!!」


 まだ不明瞭なことが目の前に広がる途中。動こうとした瞬間の事だった。俺の鼓膜に裂帛の怒号のような声が届いたのは。


 後ろからだったのですぐに振り向く。するとそこでは2人の男性に、1人の男性が暴力を振るわれる寸前、いや、振るわれている最中だった。


 「わぁお。早速物騒な問題事だな」


 勘弁願いたい。俺だって謎多き今、更にトラブルを抱えたくはない。だから真っ先に考えたのは逃げること。知らない他人より自分の楽を選択する俺の考えは、生前?の時と同じだ。


 けれど、生前の記憶があるからこそ、何より強く刻まれた彼女の言葉が思い出される。


 ――他人であれ国民よ。国民1人を見捨てる人間に、私はなりたくないわ。


 背を向けた俺に、再び180度方向を変えさせた言葉。セラシルが言った無限に等しい言葉の1つ。鮮烈に覚えているからこそ、それは大切で心に留めていた言葉。


 「そうだよな。お前は見捨てない」


 ただ、セラシルがセラシル自身の意思で言った言葉。それでも俺は、自分の言葉のように背中を押されて歩みを進めていた。


 「テメェ、人にぶつかって謝罪もなしにどこ行こうってんだよ!」


 「社会人なら土下座して詫びに慰謝料くらい払うのが筋ってもんだろ?そんなことも分からねぇのかよ、ったく老害はよぉ!!」


 「い、いや、だからですね……私が貴方たちに当たったのは……貴方たちが当たって来たからで……その……」


 「はぁぁ?!出たよ被害者ヅラ。何がどうあれ俺は肩が今痛ぇんだよな?分かるか?ってことはお前が悪いわけ。それ以上は必要ねぇだろうが!」


 右足が引かれて即、鋭くも中年男性の腹部に命中する。見ていて痛そうなのはそうだが、俺にとっては利き足と重心の傾きを知れただけで満足だった。


 「あの……すみません」


 「あ"ぁ"?」


 怖っ。暗殺しようと俺の部屋に潜り込んだ貴族より怖いな……。


 初見。そしてこの世界、この国について知らないからこそ、肥大化した不安は恐怖へと変化する。故に今無知な俺は、相手が俺の知らない武器を出して、知らない法律を行使して殺しにくることを頭の中に入れて対応することを決めた。


 「んだよガキ」


 「すみません横から。少しやり過ぎかと思ったので、止めに入ろうかと」


 見て見ぬふりする人間は多かった。ということは、この世界では人との決闘及び一方的な蹂躙はその当人に任せるという判断なのかとも思った。しかし目を凝らせば、見て見ぬふりをする人たちの目は怯えているようで、正義感を皆無にした瞳には見えなかった。それはつまり、してはいけないことをしていると理解するに十分ということだ。


 「止めに入る?関係ねぇのが入ってくんじゃねぇよ。それともなんだ、お前こいつの知り合いか?慰謝料くれんのかぁ?」


 見たところナイフどころか吹き矢などの武器は見つからない。しかし油断もしない。未知は恐ろしいのだから。


 「いえ、そういうことではなくて、一方的な暴力は良くないということです」


 「暴力?違ぇよ。戯れだ戯れ。お遊びなんだから何も問題はねぇ」


 「それは客観的に見た人間が判断することです。俺は少なくとも止めるべきだと判断したので、すみませんが、主の……っと、気にしないでください」


 一瞬口癖が出そうだった。セラシルという主から下された命令に従う時のスイッチオンの合図。言っても良かったが、どうにも今は痛がる中年男性の救助が優先と判断したため、行動に移して歩き出した。


 そして同時に理解もした。


 俺……脳の処理速度変わってなくね?


 「んだよ、ヤるってのか?お前1人で?」


 「そうですが、自信ないのでお手柔らかにお願いします」


 この世界の人間が体術が得意か否か。そんなことは既にどうだっていい。今の俺は慢心だとしても、脳の処理速度が異次元なのだから、その時点で拳の勝負なら負けはない。


 「良いぜぇ!お前を使ってこのジジィから金奪ってやらぁ!」


 「あっ、その前に、この世界って人を一方的に怪我させるのって法律に触れたりしますかね?」


 「何言ってんだ!お互い了承してんだから関係ねぇよ!」


 「ありがとうございます」


 セラシルといた頃は陽気な性格で、それは誰からも知られた俺の代名詞とも言えた。敵を圧倒しては騒がしく喜ぶ子供のようで、まだカッコイイに憧れる歳に似合う性格。


 それもまた演技の1つだが、相手を挑発するには最善の性格と知ってからは有効活用している。それを今利用するのは至極当然だった。


 何も考えていない素人の動き。真っ直ぐ突っ込んでまさに吶喊だけが取り柄の突進と言えるそれは、動きにしては単調故に簡単に時間停止の中で処理を終えた。


 伸びた右腕を顔に当たる寸前で避け、合わせるように下顎を左斜め上から殴り下ろす。脳を揺らすことで1人目を脱落させる。続いても同じ作業だ。目の前で仲間が攻撃を受けた。その程度しか普通処理しきれない人間の脳は、アドレナリンを出して対応することしか判断ができない。


 その通り、残る1人は血迷って蹴りを入れようと飛んだ。その時点で勝ちは決まる。スーパースローの中で、がら空きの股間に拳を打ち込むことなんて簡単だ。未来の婚約者には申し訳ないが、今は自分の悪辣を反省させるため、仕方なく下から上へアッパーで股間を潰しに行かせてもらった。いや、イかせてもらった。


 「――うっ!!てっ、テメェ」


 「まぁ、動けないなら別にこれでも良いと思って。ホントすみません」


 悶絶は不可避。何をしても、悪には代償があって当然だろう。


 「よし、ということで、おじさん逃げましょう。見たところ知り合いではなさそうなので、金輪際会うこともないとして今は逃げるのが賢い選択ですよ」


 「えっ……いやしかし……」


 「大丈夫です。おじさんには彼らからの暴力を受けた証拠が服や体に刻まれてるので、それを盾にすれば流石に執拗に追わないでしょうから」


 「……そうか。そうだな」


 今は冷静を保つことは難しい。ここが何処であれ、困惑した様子から暴力は日常から懸隔しているようだった。それは不慣れが起きた証拠でもある。ならば今この場で答えを導き出すのは冷静な判断の時と比べて劣ること間違いなし。


 「助けてくれてありがとう」


 「いえいえ。あっ、そうでした。すみません、助けたお礼としてとても烏滸がましく不躾かもしれませんが、俺、ここに来てまだ時間が浅くて知りたいことが山ほどあるんです。良ければ少しでもいいのでこの国について教えていただけませんか?」


 助けようと思った理由の1つだ。俺はこの世界を知らない可能性がある。生前?の場所は全ての国を訪れたと鮮明に記憶している。だからここがどこか違う世界なのはほぼ確信しているとして、聞きたいことはそれ故に多い。ここに居る理由も聞けるかもしれないのだから。


 そんな俺の疑問を持つような問いに、しかし中年男性は笑顔で言う。


 「ああ。お礼としてそれくらいのことなら私もできる。命の恩人かもしれない君にこの程度の恩では返しきれないだろうがね」


 「いえいえありがたいです。さて、早速ですが反撃されたら困りますし、どこか安全なとこへ行きましょう」


 とはいえ1人は意識がなく、1人は股間の激痛にもがき苦しんでいるので、きっと追いかけられることはないが。


 「それなら私の家に来るといい。突然だが君とは少ししたい話もできた。時間に余裕があるなら、だがね」


 「構いません」


 時間は沢山あるからな。


 感じている体の異変。代償として失われる命が未だあり、更には苦痛を一切感じない。それもまた気にすることだろうが、完治していると思うのも早計だろう。今はまず知ることから始めよう。


 「ではついて来てくれ」


 「はい」


 言われて後ろではなく隣へ並ぶ。身に纏う俺の服は寝巻き。比べて中年男性はピチッとした正装のよう。片手にはカバンがある。その他、周り歩く人間はカラフルで多種多様。


 建物全てが光を放ち、騒がしいくらいの声と乗り物の音は鼓膜を新鮮に刺激する。しかし初めてのこととはいえ、脳の処理が速すぎて逆に落ち着けるのは良かった。


 そうして俺は、初めてをいくつも感じて中年男性について行き、周りと比べても遥かに高い建物の中へと入って行った。


 知らない人について行くなって言われるけど……今分かった。これも結構怖いな。ってか俺、この世界で起こること大半怖く感じてるな。


 初めてとはそういうものだろうか。


 「さて、好きなとこに座りたまえ」


 「はい」


 言葉では冷静を装えても、豪奢な造りの部屋に王城で座れる貴重なソファと似た生地のソファに座ると、どうも今が特別扱いされてる気がして落ち着かない。シャンデリアなんて特にそうだ。


 「好きな飲み物はあるかい?」


 「いえ、特には」


 「なら、カフェオレでいいかな?」


 「はい。ありがとうございます」


 かふぇおれとは何だろうかと問うのは面倒だった。取り敢えず高級そうな部屋から想像するに不味いのは有り得ないと思った俺の勘を信じることにする。


 暫くして目の前のテーブルに置かれるかふぇおれとやら。色は茶色くて温度は冷たい。そこそこに興味をそそるから凝視してしまった。味は実に美味。味蕾が感じたことの無い味に喜ぶのを脳が理解していた。


 「さて、まずは自己紹介からしよう。私は音川茂おとかわしげる。株式会社オトカワの社長をしている者だ。よろしく」


 丁寧に自己紹介からとは、それはまた親切な事だ。とはいえ、名乗らないという選択肢が消えたということに関しては少々厄介であり、話を進めるにあたり楽な道でもある。


 「俺は……レリ……いえ、実は名前が無いんです。というか、そもそも俺、この国どころかもしかするとこの世界にさっき来たばかりかもしれないんです。何故この言語を使えているのかすら分からない状況で、もう頭は混乱中で。変なことを言っているように聞こえるかも知れませんが、ホントのことなのでどうか信じてくれると助かります」


 バカ正直に非現実的なことを告げることが正解だと思った。音川茂。名を聞いて俺の居た国とは名の違いを直感で理解した時、俺はもうセラシルの居る生前の世界とは全く別の世界へと来たことを確信した。


 だからここはこの音川茂を自分の味方として関わりを持つことを決めた。もし俺のことが受け入れられないなら、その時は姿を消してお人好し探しを始めるだけだ。


 しかし思っているより親身になってくれるのか、音川茂は疑いの目を向けることなく言う。


 「それはつまり、日本人じゃないだけでなく、この世界の人間じゃないということかい?」


 「おそらくそうです。証拠はないですが、証拠がないからこそ、俺の事を調べれば俺の過去が存在しないことも理解できると思います」


 それは最大の一手だった。俺が何かである証拠はこの世界にはきっと存在しない。突如現れたイレギュラーとして、これから作る以外ない。


 「……そうかい。記憶喪失の類でもなく、通院していて早期の認知症でもないのかい?」


 「生まれてから今までの記憶は鮮烈に覚えています。だからこそ、俺は前存在した世界と今ここで息をする世界は、間違いなく違う世界だと言えます」


 当人しか分からないことだから、証明できないことがもどかしい。伝われと、ただ神頼みなのが悩みどこだ。


 だがそんな悩みを消し飛ばしてくれるかのように、俺を落ち着かせるためか、音川茂は人柄の良さそうな相好を見せた。


 「なるほど。そう言うくらいなんだから、きっと血液検査でも指紋認証でもDNA鑑定でも全てが意味を成さないのだろうね。それはそれで困ることで、役所に君の存在を証明する手続きが必要になるだろう。それらは必要なことかい?」


 「可能ならできる限りこの世界の人間として存在したことにしていただけると助かります」


 「分かった。ではその為にまずは名前を決めよう。君について気になることは多くある。だけど悪いことではないと私の目は言っているから、詮索はしないよ。だから無理に過去について話さなくていい。非現実的なことだとしても、私は恩人の君を信じると決めたことに変更はないからね」


 最初の提案と共に、こちらの憂慮を拭うような安心感を与えてくる。きっとこの話が本当か否か信じてくれないと思った俺の考えを先読みしてのことだろう。なんとも親切で助かる対応か。


 「それはありがたいです。俺もこの世界に来てまだ未知なることばかりで、正直悩み事が減るのは助かりますので」


 「では早速、1つの悩みを解消しよう。ここは日本という国で苗字、名前の順番で記載する。私なら音川が苗字で茂が名前だ。君は苗字からないということだからそこから決めるとして、どうする?」


 「特にこれといった決め方はないので、何かランダムで決められませんか?」


 「そうか……んー……では苗字ランキングを適当に見て、これだと思った苗字にして、名前も似たようにランダムなサイトを閲覧して良さそうな名前があれば漢字を組み合わせたりして決めようか」


 「はい。そうします」


 全くどういうことか理解していないが、とにかくスムーズに決められそうなのでそこには安堵を覚えた。


 しかしまぁ、こんなお人好しが世界に存在したものだ。日本という国はそういう文化があるのだろうか。それならば少しは生きやすいのだが。


 そんなこんなで俺の苗字と名前は決められていった。そして10分後、最終的に決まった俺のフルネーム。


 「長坂七生ながさかなお。いい名前じゃないかい?」


 「はい。いい響きです」


 当然誰だと思うが、今日から俺がこの世界で生きていく上での必要な名前だ。長坂七生。漢字とやらも初めて見るが、妙に覚えやすそうな線の羅列に、この世界について知ることはそう苦難の連続でもないのかと思わせられる。


 それからというもの、俺の生年月日や様々な個人情報が決まった。もちろんしっかり調べて。


 薄々気づいていたが金持ちだった。


 そうして気づけば部屋に入って2時間半が経過して、時刻は時計の針で21時30分くらい。一旦落ち着いて、俺は結局この家で住まわせてもらうことになった。


 何から何まで感謝だが、その点に関しては命の恩人としての恩赦が大きいようで気にするなとの連呼だった。なので甘えさせてもらった。


 「何から何までありがとうございました」


 「気にしないでいい。それに、まだまだ今後もすることはあるからね」


 歳は16。いや、今日誕生日の17ということなので、それならば学校にも行かないかと、この世界について知るためにも承諾した。不安しかないが、無知の不安を天秤で比べるならば言うまでもなかった。


 「さて、ここまでして休憩もしている君に、ずっとお礼という名目で今後の為にサポートをしていたが、それを利用するわけでもなく、これはただ私1人の頼み事として聞いて欲しいことがある」


 改まって何を言うかと思えば、先程ここに来る時に言った話とやらのことだとは何となく察しがついた。聞かない選択肢はない。


 「はい。何でしょう」


 「先程助けてもらった時、君の身のこなしが私には素人には見えなかった。人を守ることに特化したような余裕と絶対なる自信。それは人並みではなかった。だからそれを見込んで頼みたい。どうか、私の娘が学校を楽しく過ごせるようサポートをしてくれないだろうか。正確には、娘の付き人として安全を守ってほしい」


 「……安全を?」


 聞くだけなら、学校を楽しく過ごせず、更には現在進行形で困っているということなのは理解した。しかし、俺の記憶では学校は付き人をつけるくらい危険な場所ではないと記されている。だから聞き返した。


 するとその反応も普通だろうと思っていたのか、音川茂は言う。


 「ああ。これは私の憶測だが、娘はどうも学校に行くことを嫌いになっているように見える。もしかするとイジメられているのではないかと思うんだ」


 「なるほど」


 これまた俺の嫌いな言葉がこうも早く異世界に来て鼓膜に届くとは。心底どの世界も人間は愚行を起こすのだと呆れるな。


 「あまりこういう事は言うことではないのだろうが、娘が通うのは俗に言う金持ち学校だ。幼い頃から英才教育を受け育つ子供が多く、その分プライドが高くイジメが起こりやすくもある学校。娘はそこで標的にされていると思っているんだ。最近の悄然はそれが理由だと私は考えている」


 「娘さんがイジメられる原因を作った可能性は?」


 「ゼロとは断言できない。しかし、娘のことは私が誰よりも理解している。だからこそないと断言に近く言い切れる」


 その眼は本物だった。人としての善し悪しを理解している俺だが、その目を信じるならば本当に娘はイジメを受ける理由を作る人間ではないということだろう。しかしそれは受け手がどう考えるかで左右すること。


 些細なことでも嫌う人間の敏感さは侮れない。


 「どうだろうか。私の一方的な頼みだが、娘をサポートしてくれないだろうか」


 頭を下げて丁寧に。


 しかし右も左も分からない今、無理に他人の娘をサポートすることは可能なのだろうか。腕を買って頼むのなら、少なくともイジメが暴力沙汰に発展する可能性を秘めていることの証明でもある。


 それを今から受け入れればどうなるだろうか。この先未来の見えない今から、金持ちたちのヘイトを買って俺が標的にされるなら、それはデメリットが大きい。


 なしだ。聞く限りでは俺の答えはなしで、未来を失う選択をしないなら、俺の口は拒否をしようと動き始めた。


 そんな時だった。後ろのドアが静かに音を鳴らして開くのを、鼓膜が捉えたのは。


 「……父さん。私は必要ないって言ってるわよね?これ以上嫌々人を私の付き人にさせないで」


 この世界で初めて見る同い年のような若い女性。娘だろう。ロングヘアを結わずに腰まで届かせたスーパーロングのヘアスタイルに、真っ黒の艶のある髪。刹那、セラシルを彷彿とさせた声色と話し方に驚きを覚え、即座に娘だろう彼女の左手に意識は向かった。


 なるほど。杖を持ってるのか。

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