新生活

アカリはミシガン州の小さな街で息子と暮らし始めた。息子の給料は少なく、友人の家族からの借金の月々の返済分と家賃光熱費を差し引くと残るお金は限られていて、生活は決して楽ではなかった。ソ連ではいつも物が不足していて手に入る物は少なかったけれど、物価は安く抑えられていてお金を数える必要はなかった。劇場や映画館、美術館などはタダ同然だったし、振り返って見ると周囲も生活レベルが同じ位で日々生活さえできていれば他は気にならなかったから、お金の心配からはある意味自由だった。それに比べアメリカは物が溢れていてる分、貧しさが身に染みた。アカリは家計が赤字にならない様、生まれて初めて家計簿をつけ始めた。夜、小銭まで数えて残額が合わないと焦ってイライラした。それに加え、アメリカの食品はあまり味がしなくて、出費を抑えて準備する手料理が不味いのも堪えた。特にソ連では大好きで毎日欠かさなかった乳製品の質の悪さには閉口した。高級な物の中には美味しい物もあったけどなかなか手は出なかった。その頃ソ連が崩壊して祖国がロシアの名を取り戻した。だからと言って全ての問題が解決されたわけではない事は重々承知していたけれど、ホームシックは悪化した。


そんな中でも、ともすると独りになりがちな息子のために、友人や知り合いを積極的に家に招待した。普段は質素な食生活だったが、人を招く時はロシア料理を振る舞った。アカリは自由時間を使って積極的に英語の勉強もした。小さい頃から読むのが好きだったから、周りに溢れている文字が何を語り掛けているのか知りたくて、それが原動力となった。雑誌や新聞の記事を辞書片手に読み始めると昔勉強したフランス語と共通する単語が多くて文法もそれほど難解ではなかったから、簡単な物はすぐ読めるようになった。でも会話は練習が必要だった。移民のための無料クラスにも通ったが、何よりも助けになったのはアメリカ人の知り合いだった。


「そうね。ある意味、私は誰もが羨む『ヨーロッパ系の外国人の友だち』だったのね。私も英会話の練習相手として随分利用させてもらってたから、思惑が一致したっ、てとこかしら。まぁ、この年になって本当の意味での友達なんてなかなか見つからないものだしね。ましてや外国の地でしょ。最初からあんまり期待してなかったわ。でも、一番の練習相手はやっぱり男の人よね。で、ちょっと私に気がある人だと余計にいいの。こちらがニコニコして話すと忍耐強く一生懸命聞いてくれるでしょ。お茶もご馳走してくれるし。ただ、お付き合いしたいと思った事はないわね。アメリカ人の男の人って何だか根拠のない自信がありすぎるの。私、そういう明るい人って苦手。」


そうして2年もするとアカリの英語は日常で困らない程になっていた。簡単な小説なら難なく読める様になっていて、図書館や古本屋で見つけたアメリカ人作家の本を手あたり次第読んだ。ロシア語で読んで好きだった本を原語で読める様になった時は喜びもひとしおだった。頼まれて、ロシア語の家庭教師の仕事も始めた。全てが上手く行き始めた様に思えた。でも、人生には試練が付き物で、借金も完済して、ようやく人並みの生活ができ始めた頃、息子の仕事の契約が切られる事になった。


急いで新たな仕事を探し、今度は隣のオハイオ州に引っ越した。新しい職場は辺鄙な場所で、都会暮らしに慣れていた二人はなかなか馴染めなかった。突然の契約解除に始まって、仕事探し、引っ越し、新しい職場へ、とかなりストレスを感じていた息子が、ある朝、胸の苦しさを訴えた。仕事を休み、念のため病院に行くと、あろう事か心筋梗塞と診断されて、即入院となった。アカリは10数年前の徴兵検査医の助言を思い出し、ドキッとした。すぐに開胸手術が必要だとの説明を聞いてアカリは気が遠くなった。でも「大丈夫ですよ、お母さん。経験豊かな医者が執刀しますから。」との言葉と肩に乗せられた手の温かみを信じて任せるより他なかった。


手術室に入る息子を見送り、息もつかずに祈り始めた。

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