七月は僕の糞

谷川人鳥

便意は突然に

よく喋るうんこ


 もし君にカモシカとシカの区別をしなければならない時が来たら、その時は彼らがどんな風にうんこをするのかを眺めるといい。

 歩きながらうんこをするのがシカで、立ち止まってうんこをするのがカモシカだ。

 僕はどちらかといえば立ち止まってうんこをする事の方が多いので、カモシカタイプの人間といえるだろう。

 そんなカモシカタイプの僕は、べつに昔からこんな口を開けばうんこの話をするうんこ野郎なわけではなかった。


 あれは僕がまだ神童と呼ばれ、両親や周囲の大人たちにチヤホヤされていた頃の事だ。


 父は海外で何度も個人展覧会がひらかれるほど有名な画家。

 母は大学で音楽を教えている准教授。

 それなりに由緒正しい芸術一家の長男である僕は、その血筋に違わず幼少期から天才ピアニストとして名を馳せていた。

 久瀬朝日くせあさひという僕の名前を同年代の小さな音楽家で知らない奴なんて、きっと誰一人としていなかったはず。

 しかし盛者必衰、河童の川流れ。

 ちょっと言葉の使い方が間違っているかもしれないが、とにかく僕の名声は長くは続かなかった。


 なぜなら僕はある日を境に、ピアノがまったく弾けなくなってしまったのだから。


 指を白皙の鍵盤に乗せて、極彩色の旋律を奏でると、僕の胃腸はたちまちノイズ塗れになり、肛門が不協和音を掻き鳴らしてしまう。

 指向的過敏性腸症候群——通称OIBS。

 ピアノを弾こうとする度に腹痛で動けなくなる僕は、医者にそう診断された。

 OIBSは非常に珍しい病気で、ある特定の条件下で腹痛や下痢に陥ってしまうという症状を引き起こすという。

 過多なストレスが原因ともいわれているが正確なところは不明で、治療法も確立されていないらしい。

 ピアノが弾けなくなった僕に対して、両親は落胆こそ隠せていなかったが、表面上は優しく接してくれた。

 OIBSの発症原因の一つに心的、肉体的ストレスが予想されていることから、僕に謝ってさえくれた。

 これからは音楽の道から離れて、自分の好きな事をしなさい、そう僕に声をかける父と母の瞳がたしかに潤んでいたことを今でもよく覚えている。

 ピアノ以外に何も才覚を持たない僕を見捨てなかった両親には感謝しているし、期待を裏切ってしまったことには申し訳なさを感じている。

 でも、ついに晴れて高校一年生にまでなった僕は未だに病を克服できておらず、無能なうんこ野郎のままだった。


「それでアサヒさんはいつまで無能なうんこ野郎のままでいるつもりなんですか? そろそろ一人の男として、一皮剥ける頃なのではないでしょうか。あ、今のべつに変な意味じゃありませんからね? 誤解無きようお願いします。皮かぶりうんこ野郎のアサヒさん」


 そしてそんな僕は、実はOIBSに罹ってからというもの、ある特別な能力を手に入れていた。

 その特別な能力、あるいは特異体質と呼ぶべきものを、僕は自分以外の誰かに話したことはない。

 なぜならその音楽家としての才能を犠牲にして得た力は、あまりに異質で、下品で、常軌を逸していて、どう考えてもおいそれと他人に口外できるものではなかったからだ。


「やっと中学三年間ずっと片想いで、半ばアサヒがストーカー紛いの行為を続けてきたお相手の、郡司真結衣ぐんじまゆいさんと同じクラスになれたんですよ? さっさと告白したらどうです。そうすればきっぱりと諦めもつくでしょう。人は挫折を経て成長していくものです」


 僕の通う学校は中高一貫校のため、もう通い始めてから四年目に差し掛かる。

 今ではすっかり馴染み深くなったお気に入りの旧校舎三階のトイレの個室で、僕はいきいきと唄うソプラノを聞き流しているところだ。

 ちょうど僕の臀部の下方、つまりは便器の内側から響くこの声とは、この校舎以上に長い付き合いに残念ながらなってしまった。


「それにしても重症ですね。せっかく中等部から高等部に進学して心機一転クラス替えもしたというのに、これまでと同じ様に相変わらず昼休みはこうやって新校舎から離れた旧校舎のトイレで引きこもり。恥ずかしくないんですか? 私は恥ずかしいです」


 僕はこのピアニストとしての才能を失うという代償に対して、あまりに釣り合わなすぎる特別な能力に失望を超えて苛立ちすら覚える。

 だけどそれにも慣れた。

 諦めを多分に含んだ溜め息を吐くと、ゆっくりと腰を上げパンツとズボンを履く。

 振り返って便器の内側を覗いてみれば、そこには幾つかのトイレットペーパーと一緒にプカプカと浮かぶ固体状の排泄物、つまりはうんこが見える。


「あはは。いつ見てもアサヒさんはしけた顔つきをしていますね。まさにクソフェイスというやつです。そんなに面白い顔をしているのに、どうして友達があまりできないんですかね。面白すぎてもいけないということですか。クソもクソなりに大変なんですね。よく分かりますよ、その気持ち。だって私も——」


 ——轟々という大袈裟な音を立て、喧しく喋り続ける彼女を水に流す。

 きっと僕の頭はおかしいのだろう。

 異能というよりは異常といった方が正確かもしれない。



「うるさいよ。本当によく喋るうんこだな」



 そう、これこそが僕の特異体質。

 自ら奏でるピアノの音色を聴けなくなった代わりに、僕は自分のうんこの声を聞けるようになっていた。





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