悪女と呼ばれた死に戻り令嬢、二度目の人生は婚約破棄から始まる

冬野月子

01「私は確かに十九歳で死んだの」

「ヴェロニカ。君との婚約は破棄させてもらう」

 まるで光を集めたように、まばゆく輝く黄金色の髪と翡翠色の瞳。

 あどけなさを残しつつも知的で端正な顔立ちの少年は、冷めた口調でそう告げた。


「殿下!」

 ヴェロニカと呼ばれた少女の父親、フォッケル侯爵は思わずソファから立ち上がった。

「なぜです……!」

「決まっているだろう」

 少年――この国の王太子であるフィンセント・デ・ブラュネ・ハーメルスは侯爵の隣に座る少女へと視線を送った。

「そのような醜い傷がある者を妃になど、できるはずもない」


 十歳にしては大人びた、神妙な表情で座る少女。

 白い肌に宝石のような輝きと透明感のある青い瞳。はかなさを感じさせる華奢な身体に気品をまとった侯爵令嬢、ヴェロニカ・フォッケルだ。

 けれど癖のある紫がかった瑠璃色の髪の、その間から見える額にはまだ癒えきっていない傷痕があった。


 美しい少女に不釣り合いなその痛々しい傷痕は、医学に明るくない者が見ても決して消えそうにはないのが分かるほどに深いものだった。

「傷物の妃など聞いたことがない」

「フィンセント」

 黙ってやりとりを見守っていた王妃が静かに、けれどその声に怒りをにじませて息子の名を呼んだ。

「女性に対して傷物だなんて、失礼にも程があります」

「本当のことでしょう」

「仮に本当だとしても、言ってはならないことがあるのです」


「王妃様」

 ヴェロニカは口を開いた。

「お気遣いありがとうございます」

 わずかに笑みを浮かべ、落ち着いた声でそう言うと、ヴェロニカはフィンセントへ向き頭を下げた。

「殿下の申し出、謹んでお受けいたします」

「ヴェロニカ」

「お父様」

 顔を上げるとヴェロニカは父親へ振り向いた。

「殿下のおっしゃる通りです。このような傷で人前に立つ方が失礼になるかと思います」

「だが……」


「――フォッケル侯爵」

 ハーメルス国王がゆっくりと口を開いた。

「当人が受け入れると言っているのだ。それに愚息がこう言っているものを、無理に婚約関係を続けるのもヴェロニカ嬢にとってつらいだろう」

「……は」

 侯爵は頭を下げると腰を下ろした。


「ヴェロニカ嬢」

 国王はヴェロニカを見た。

「傷はまだ痛むのか」

「いいえ、もうほとんど痛みません」

 ヴェロニカは首を横に振った。

「そうか、それは良かった。これまで未来の王妃となるために勉学に励んでくれたことに感謝する。こうなってしまったことは残念だが、未来に幸あることを願っているよ」


「……ありがとうございます、陛下」

 労りを感じさせる言葉にヴェロニカはその頬を緩ませて礼を述べた。

「愚息はあとできっちりと叱っておこう。婚約解消のための書類をここへ」

 国王は傍に立つ侍従へ指示を出した。




「全く、いくら殿下といえども失礼すぎる」

 屋敷へ戻る馬車の中で侯爵は怒りとともに吐き出した。

「一方的に婚約破棄だの、傷物だのと」

「仕方がありません。本当に……この傷では」

 ヴェロニカはそっと自分の額に触れた。

「殿下は醜いものがお嫌いなのでしょう」

「醜いなど」

「それに私も、こんな傷があるのにこの先大勢の前に出るなんて……考えただけで恐ろしいんです」

「それは……」

 娘の言葉に侯爵は口ごもり、やがて深くため息をついた。


「すまなかった」

「どうしてお父様が謝るのです?」

 ヴェロニカは首をかしげた。

「外出などさせなければ良かった。もしくはもっと警護を手厚くしておけば……」

「過ぎたことを悔いても仕方がありません」

 ヴェロニカがそう言うと、侯爵は少し困ったような顔で娘を見た。

「――ヴェロニカ。お前はこの二カ月の間にすっかり大人びてしまったな」

 一瞬肩をビクリと揺らし、ヴェロニカはすぐに微笑んだ。

「ベッドの中で色々考えましたから」

「そうか」

 侯爵は手を伸ばすと娘の頭をなでた。


「ヴェロニカ。隣国へ行ってみるか」

「隣国?」

「魔術を使える評判の良い治療院がある。その傷が消えるまではいかなくとも、薄くできるかもしれない。王太子の婚約者という立場では国外へ出ることは難しかったが、これからは自由だからな」

「……はい」

「領地にも帰ってゆっくり過ごそう。行きたい場所があれば連れていこう」


「はい。ありがとうございます、お父様」

 ヴェロニカは笑顔でうなずいた。


  *****


「やっと帰ってきた……」

 屋敷へ戻り、自分の部屋に入るとヴェロニカはほっとして息を吐いた。

「良かった……これでもう、殿下とは関わりがなくなるのね」

 自分はもう婚約者ではないし、一度婚約破棄された者が再び王太子と関わることなどないだろう。


 ヴェロニカは姿見の前へ立つと自分の顔を見つめた。

 この二カ月間、何度も自分の顔を見ては違和感を覚えた。

 それは額の傷だけではなく、記憶にあるよりも幼い顔がそこにあるからだ。

 世間を知らず、嫉妬や憎しみといった負の感情を知らない、十歳の無垢な少女の顔。

(でも……『私』はそれらの感情を知っている)

 とてもつらくて、思い出すと今でも身体が熱を帯び、胸が締めつけられるように息苦しくなる。

(だけど……今日殿下に会っても、大丈夫だった)

 鏡の中の瞳を見つめながら、ヴェロニカは自分の心を確かめるように意識を心の奥へと集中させた。


 フィンセントと会い、彼の冷たい言葉を聞いて全く悲しくなかったといえばうそになるし、「過去」の感情を思い出しもした。

 だがそれが顔に出ることはなかったはずだ。

(そう、大丈夫。今の私はあの時とは違う)

 嫉妬の海に沈み苦しんだ二年間。そして冷たい床と粗末なベッドの上で孤独に耐え続けて力尽きた一年。

 同じようにフィンセントから婚約破棄を告げられたあの時は、怒りで気が狂いそうになったけれど。

 今はほっとしている気持ちの方が大きいのだ。


(あれは夢……だったのかな)

 何度も自問し続けてきた言葉を思い出して、すぐに首を振ってそれを否定した。

「そう、私は確かに十九歳で死んだの」

 鏡の中の自分に言い聞かせるようにヴェロニカは声に出して言った。


 あの時の心の苦しさ、肉体的苦痛を忘れられるはずはない。

 あれはそう、確かに夢ではなかったのだ。


  *****


 二カ月前、夏も終わり秋を感じられるようになった頃。

 ヴェロニカは馬車の事故にあった。


 前年、九歳の時に王太子フィンセントと婚約し、すぐにお妃教育が始まると、マナーや学問、ダンスといった課題をこなす日々が続いた。

 そんな勉強漬けの愛娘を心配した父親が、ある日少しは息抜きが必要だろうと街へ出る許可をくれた。



 目立ちにくいよう少数の護衛をつけての散策だったが、それが仇になった。

 ちょうど市が立っていていつもより人出が多く、護衛は小さなヴェロニカを見失ってしまったのだ。


(助けて……)

 護衛を探して一人で街をさまようヴェロニカの脳内に声が響いた。

 それはようやく聞こえるくらいの大きさの、女性の声だった。


「え?」

 ヴェロニカは不思議そうに周囲を見渡した。

(助けて)

 もう一度頭の中に声が響いた。

「誰?」

 見回したヴェロニカの耳に、人々の叫び声と不快な音が聞こえてきた。

 振り返るとこちらへ向かって馬車が猛スピードで向かってくるのが見えた。

「あ……」

 逃げなくては。とっさに走り出そうとしたヴェロニカは何かに引き止められるようにその足を止めた。


 すぐ側に、五歳くらいの少年をかばうように立つ、ヴェロニカと同じくらいの年頃の少年がいた。

 兄弟らしき黒髪の二人へと馬車が走っていくのが見える。

(助けて!)

 脳内で響いた声に弾かれるようにヴェロニカの足が動いた。


 激しい音が街中に響きわたり、駆けつけた護衛が見たのは頭から血を流し横たわるヴェロニカと、その側で怯えて泣く幼い弟の隣で呆然と地面に座り込んだ少年の姿だった。



 ヴェロニカはすぐに近くの診療所へ運ばれ、診療所の医師と呼び出された侯爵家かかりつけの医師の手当を受けた。

 馬車には接触しなかったものの、少年たちを助けようと突き飛ばしたときに転倒し、縁石に額をぶつけたのだ。

 傷は深く出血もなかなか止まらず、ヴェロニカは十日間ほど起き上がることができなかった。

 起き上がれるようになっても微熱が続き、ベッドから下りることはなかなか許されなかった。


 ベッドの中でヴェロニカは何晩にも続く夢を見ていた。

 それはこの先九年に渡る――長くて短い、「悪女」と呼ばれたヴェロニカの人生だった。

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