僕もそっちに行けるかな

さら坊

前編

 あたりは薄暗く、空は少し赤みがかっていた。今は夕暮れ時なのだろうか。


 足下を見ると、自分のつま先と黄色い点字ブロックが目に入った。少し目を前へ向けると赤黒い石ころと線路がみえる。気を抜くとそちらに吸い込まれてしまいそうな妖気を感じた。

 周りからはなんの音もせず、首を回しても人っ子一人見当たらない。無駄に広いホームで一人ぼっちというのは、開放感がありながらも寂しさと不気味さを感じさせた。

 ここは間違いなく駅のホームなのだから、きっと待っていれば電車が来るのだろう。そう思って時刻表と時計を探そうと歩き出そうとしたとき、さっきまで誰もいなかったはずの空間から声をかけられた。


「あなたですね」


 突然背後から話しかけられて驚いていると、更に驚くことが視界に起こった。

 声をかけてきた人間の顔が、認識できないのだ。

 目、鼻、口、耳、髪型。それぞれに注視すればするほどその靄は濃く、うねるように広がっていった。


「なんですか、わかりません」僕は後ずさりしながら警戒を強めた。

「いえ、間違いなく貴方です。現にここには貴方しかいませんしね」


 そう言って謎の黒服はどこから出したかわからないバインダーにペンを立てた。いくつか記入し、見えない顔をあげて僕を手招いた。


「こちらです。次来るのは三両編成なんです。そこは電車が来ませんよ」


―――次に四十九番ホームに参りますは、○×駅行きの普通電車です。終点まで各駅に停車します。特急への乗り換えは―――


 黒服に連れられて歩いていると、頭上から突然大きなアナウンスが聞こえた。終点の駅だけが、よく聞き取れない。それより四十九番ホーム―――? 横を見渡してもそんなにホームが続いているようには見えなかった。何かの間違いかと反対方向をみると、そこには合わせ鏡のように並んだホームが無限に続いていた。

 目を丸くしていると、左腕に何かに掴まれた衝撃を感じ、僕はその場でバランスを崩した。左手を見ると黒服が細い腕で僕の左腕を組み、僕の全体重を支えていた。


「色々と周りを見たい気持ちも分かりますがね、ここはホームです。本来よそ見厳禁なのは、貴方の世界でも同じことだと思いますけどね」


 目の前にはホームの真ん中に連立している柱があった。あと少しでぶつかるところだった。言い訳になってしまうかもしれないが、この駅に来てから足下が覚束無くなってしまうのだ。それなら尚更周りを見なくてはならないのだが、如何せん気になるものが多くて首を回してしまう。

 すいません、と小声で謝ると、黒服は聞き心地の良い声で次からは気をつけてくださいねと僕を持ち上げてくれた。


 黒服が再び歩き出すと、お、来ましたねとホームの奥側を覗き込んだ。その瞬間ホーム中に列車の音が鳴り響き、電車が少しずつ僕らの方に近づいてきた。

 ホームの数以外にそこまで変わった様子がない駅と同様に、電車も普段見たことがあるような電車が僕の隣に並んだ。古いわけでも、変わった色をしているわけでもない。車体はえんじ色に塗られており、それが血の色に似ているといったらそれまでだが、僕が見たことのある電車にもそのような配色のもがあったりしたので、特に気にならなかった。


 電車に乗り込んで驚いたのは、人の多さだった。あれだけ無人の駅に止まるような電車なので、一車両に数人いればいい方かと思っていた僕は面食らってしまった。向かい合わせになっている二列の長椅子は車体と同じえんじ色のクッションでできており、それらにはびっしり人が座っていた。

 数人立っている人たちはプラスチックのつり革をもってまっすぐ突っ立っていた。


「あら、今日は混んでますね。申し訳ないですが、今日の体験は立って行わせていただきますね」


 二人で車両の真ん中に立ち止まると、黒服は再びバインダーを出してペンで何かを書き始めた。その自然な流れに僕は”体験”という言葉を聞き流すことになってしまった。


 黒服から目を逸らし乗客を見渡すと、その年齢層はとても幅広いことがわかる。

 小さな子どもがいたかと思うと、すぐ隣には今にも力尽きそうな老人が座っていたりする。反対側の長椅子には学生が並んでいるが、全員違う制服を着ている。どれもこれも、見たことの無い制服だった。

 僕の隣に立っている人はスーツを着てカバンを持っており、いかにも社会人という出で立ちだった。見渡すと意外にもスーツ姿の大人もおり、ぱっと見ると、一般的な夕方頃の通勤電車、という印象だった。


 一つ異質なところがあるとすると、その電車内では一切会話がないことだった。

 確かに普段乗るような電車でも騒がしいということもないのだが、それにしてもこの電車内は人と人との心理的距離がとても大きいような気がした。

 

 まるで全員生活圏すら全く異なるような―――


「えーとですね、この電車が一日に何本出ているのか、という話なんですが、これは時期によって異なるというのが答えですね。特に一月から三月にかけては本数も車両数も多くなる、という傾向がありますね」


 隣でずっと黒服がバインダーを見ながら姿勢よく話していると、周りの乗客達がちらちらとこちらを見ていることに気付いた。それも当然だ。静寂が広がっている車内で、一人だけ淡々と説明口調でしゃべり続けているのだから。


「で、これが寒い時期に固まっているのですが、この理由というのが大体明らかになっています。それが―――って聞いてますか、この電車について懇切丁寧に説明しているのですが」


 よそ見を繰り返す僕に気付いたのか、黒服がバインダーを僕の顔の前で振って僕の視線を自分に向けようとした。


「ああ、すいません。聞きます、ちゃんと」

「しっかりしてくださいよ、ここからが濃い内容になりますので」


 そう言う僕の目は、吸い寄せられるように立っている社会人らしき人の目に移っていた。眉にはしわが集まり、僕たちを厄介者のように見ているのがあからさまに分かる。

 問題はそこではなく、彼の目にあった。目は濁り、光を失っていた。そこには力はなく、どこか落ちくぼんでいるようにも見える。

 自分はそういう場に居合わせたことはなかったが、本能的になんとなく分かったことがあった。


「乗客数の話でしたね、そう、この電車の乗客が増えるのはつまりこの電車が―――」

「死人、だ。この電車の乗客は、既に死んでいるんだ。幽霊みたいなものか」


 根拠は少なかった。幽霊と言われて思いつくような”透明がかっている”だとか”足がない”などの特徴は一切見られなかった。

 それでも、目の前で話を遮られたことに心なしかむっとしていた黒服が、おぉ、と感嘆の声を漏らしていることが、正解の証拠だった。


「そうです、よく分かりましたね。私が説明する前に気付くとは。素晴らしい洞察力です」

「そりゃあ、憧れだったんだ。妖(あやかし)に、会いたかったんだ、僕は。わかるさ」


 僕は社会人以外の目を素早く確認し、その度に口からは笑みがこぼれた。本物だ。ここにいる全員が、死人なのだ。

 死後にも、人間の意識はあるのだ。妖は、存在するんだ。



 僕は妖が好きだった。正確に言えば、人間以外が好きだった。

 目には見えないだけで実在しているのか、それとも見えないものはいないと同義なのか。何度も考えたけれど、僕は心の底から存在を願っていた。


 いつから僕は見えないものに縋るようになったのだろう。社会人になった今では、昔のことなどはっきりとは思い出せないけれど、小さな頃からそんなことを思っていた気はする。


 人間が怖い。自分以外の人間の心が、考えていることが、分からないのが怖い。一度そう思ってしまうと、自分にとって心地いい言葉も、笑顔も、差し伸べられた手も、何もかもが怖く感じてしまった。

 目の前の人が、心の底から自分のことを好いていると、どうやったら確かめられるのだろう。言葉だろうか、表情だろうか、行動だろうか。僕にとってはそのどれもが、作ることができるもの、だった。

 愛しているという言葉、柔らかい表情、自分のための行動。どれも自分のことを好いていなくても、できることではなかろうか。そしてほどんどの場合、これは被害妄想で終わることも、分かっていた。

 でもそうじゃなかったら、という可能性が少しでもあるだけで、僕は疑うことを辞められなかった。


 きっと僕は、人間の複雑さが嫌いだったんだと思う。好きなら好き、嫌いなら嫌い。そうやってストレートに表現して欲しかったし、自分もそうしたかった。

 ああ、そうだった。自分が一番偽って、飾っていたんだ。自信のない自分を隠して、我慢していたから、他の人もそうだと決めつけていたんだろう。


 だから僕は、僕が一番嫌いだったんだろう。


 それに比べて、妖はどうか。

 逸話や伝記などで見る妖は、どれもこれも例外なく”自分勝手”だった。己の快不快だけが行動指針だったり、自分より強い妖がいることが許せないというだけで、常に他の妖を滅ぼそうとしていたり。そうかと思えば人間とした約束を律儀に守り続け、その人間が死んだ後何百年もその人間を待ち続けていたり。

 これは僕が望み続けていた世界の住人だった。その世界が、たとえいつ襲われるかも分からないほど危険で、死と隣り合わせだったとしても。そこに住みたい、そんな存在と一緒に居続けたいと思うほどに、僕は彼らに美しさを感じていた。

 

 それが今、僕は死者と対峙している。これはあり得ないことだ。

 死後の世界。俗にいう天国と地獄。僕はこれらを信じていなかった。妖などが好きで、いろんな文献を読み漁り、調べていた時期もあった。だからこそ、そういった存在はきっといないんだろう、という結論に至っていた。

 人間の意識、いわゆる精神だったり魂と呼ばれるものはどこに存在しているのか。はたまた、存在しているものなのか。これは古から様々な考えが生まれている難題である。それらに仮の答えを出し、人々に広めていったものが宗教や逸話だと僕は理解している。


 もし、精神や魂が脳で生まれているものならば、死後にそれらが残っていて、外に出るなんてことはあり得ないだろう。なぜなら死んでしまった時点で全身の血流は止まり、脳は血液が流れずに機能を停止する。つまり”無”となるのだ。この考えは、個人的になんの矛盾もなく、納得しやすいものだと思う。


 しかしこの考えは一般的に言えば恐怖を感じるものだろう。あなたは死後、完全に無となり意識も魂も全てがストップします、と言われて素直に頷ける人間ばかりではないのではないだろうか。


 だからその恐怖から逃れる為に死後の世界が生まれた、と考えれば自然な流れだとは思わないだろうか。死んでも魂は残り、身体から出て地獄の裁判にかけられて、なんやかんや使命を終えれば輪廻転生してまた現世に戻ってきますよ、と言われれば、死は終わりではなく経由点と捉えることができて恐怖が少し和らぐだろう。


 僕はそれが分かっていたから、死ぬのが怖かった。今の意識が無となるなんて、想像できないし、前例はあれど先駆者の話は聞けない。こんなに怖いことがあるだろうか。


 それが今、死後の世界があると分かった。それなら。



「あのう、興奮されるのはご自由に、という感じなのですが、私ガイドとしましては話を聞いていただきたくてですね―――聞こえてますか、おーい」


 黒服が僕の視界の中で身体をゆらして注目を促す。


「あの、先ほどからガイドだとか体験だとか―――これは何かのツアーか何かなんですか」僕は意識を黒服に戻し、何事もなかったかのように聞いた。

「あれ、そちらから申請があったのでこちらでそのように手配したはずなのですが―――手違いですかね」


 そう言って黒服は再びどこからかファイルを取り出し、ペラペラとめくりはじめた。ああ、あった、と呟くと再び首をかしげた。


「いえ、やはり貴方様の方から申請がありますね。この世界の体験プランを申請した覚えはございませんか」


 勿論そのようなプランに手を出した覚えはなかった。第一どこでそんなものに申請できるのかもわからない。


「うーん、まあここまで来てしまっていますからね、申し訳ないですが本日は最後まで付き合っていただけますでしょうか」

 ファイルを閉じながら僕に謝罪する黒服だったが、顔が見えないながらも不服そうなのが伝わってきた。


「いえ、僕自身とても満足しているので。是非最後までお願いします」

 そう告げた瞬間、体験という言葉が頭の中で疑問を生んだ。


「あの、体験ということは、僕は死んでないんですよね。こんなところに生者がいてもいいんですか」僕は自分の顔や身体に触れて、いつもと変わらないことを確かめながら言った。


「それに関してはこちらで調整しておりますのでご安心ください。貴方様の身体と魂の方にですね、すこし妖を混ぜさせて貰っております。ああ、安心してください、非常に弱い妖でして、人間に干渉させても問題ないものを使用しております。少し除霊に近い術を施すだけで取り除ける程度のものですので、気分を悪くされないでください」


 黒服は身振り手振りを加えながらそう説明すると、本来こういう内容も申請の段階で目を通して貰っているものなんですけどね、と付け加えた。

 自分の中に妖が入っている、という情報を聞いただけで、また僕の口元は少し緩んだ。取り除いて貰わなくても良いのだが、と言ってしまいそうになったが、許してくれないのがなんとなく分かったので口をつぐんだ。


「おい、その若いの」二人の空間に先ほどまで黙り込んでいた男が口を挟んだ。僕らの隣で立っていたスーツを着た男だ。見た感じ五、六十代に見える。

「お前だよ、生きてるんだろ、まだ。そんなやつがなんでここにいたがる」

「なんでって―――それは僕にも分からなくて」僕は気圧された。

「人間じゃねえやつが憧れだの、死んだ奴らを見学だの、何考えてる」


 男は虚ろな目を見開きながら僕に迫った。ふと黒服の方を見たが、この状況を止めなければならないとは思っていないようだ。死者との関わりも体験の内容の中に入っているのだろうか。


「何が気にくわないのか分かりませんが、僕もなんでここにいるのかは分からないんです。さっきまでの会話、聞かれてたんでしょう? 決して亡くなった方をからかいに来ただなんて微塵も思っていないことが分かると思いますが」

「違う、ここに来る原因を聞いてるんじゃない。お前の発言が気にくわないと言ってるんだ」男は僕に指を突き立てながら迫る。その剣幕からは、怒り以外の何かが感じ取れた。


 彼はきっと、僕の妖に対しての憧れや、死者のいるこの空間に対して満足感を感じていたことに憤りを感じているのだろう。


「そうですよね、皆さん死を望んでいたわけではないのに、この空間でヘラヘラするのは失礼だと思います。申し訳ございませんでした」僕は男と距離を取りながら頭を下げる。

「俺たちは、もう死んでる。だからいいんだ。死ぬことは仕方ない。残してきた人も、やり残したことも、山ほどあるがな、生まれてきたからにはいつか死ぬんだ。生きとし生けるもの、その事実は受け入れなきゃならねえ」

 男は少しうつむきながらそう言って、話を続けた。


「ただな、あんたはまだ生きてるんだろう。この空間然り、人ならざるもの、妖って言ったか。どうしてそんなもんに憧れる」

 それは、と言いかけて僕は言葉が詰まった。この人は死を経験しているのだ。僕の本音をぶつけても良いんじゃないか。妖が好きな理由よりも、話すことがあるんじゃないだろうか。


 そう悩んでいる間にも、男は黒服と少し話をしていた。きっと生者に話しかけてもいいのか、といった内容だろう。黒服は両手をみせる形でどうぞ、ご自由にと促していた。

 黒服は、どこまでも案内役であり、それ以上でもそれ以下でもないらしい。


「僕、ずっと死にたかったんです」


 二人にそう告げたとき、電車が少し揺れた。微動だにしない黒服に対して、男は少し深呼吸をしたようにみえた。

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