第4話 灰色の仙人

(いた!)

エルは昨日の場所に男がいたことが無性に嬉しくなり、少し足早に歩く。

「おーい、おっさん。」

「む、だから私はおっさんではないと言ってるだろう?」

「ふーん。」

「ふーん、って。私に対する敬意がちょっと足りてないんじゃないかい?」

「いや、これでも敬ってる。」

(だってあんな綺麗な世界を見せられたらな。)

「…そうか?」

「まぁ、細かいことは置いといて。あれを見せてくれ。」

エルの目が爛々と輝く。その目に男は弱いのだ。

「仕方がないな。…スゥ。」

世界が水色に染まる、ように感じられる。

(凄い!、凄すぎる。俺も早く至れるようになりたい。)

「…俺も至れるかな?」

「それは何とも言えないな。入るきっかけは人によって違う。」

「そっか。じゃあ、ちょっとやってみるからアドバイスくれ。」

「全く。仕方がないな。」

エルはこれまでの人生で最も集中していた。だが、それでも入れない。

「あー、無理! どうしてなんだ!」

「…もしかしたら…」

そこまで言って男は言い淀む。もし自分の想像通りだとすると、それはあまりにこの子にとって酷だ。

「もしかしたら何? 言って!!」

「…」

男は言うべきか言うまいか悩む。これが切っ掛けにはならないかもしれない。だが、その一助にはなるかもしれない、何が正しいのか、分からない。

「…おっさん、頼む、教えてくれ。もう俺にはこれしかないんだ。」

普段、家の居心地の悪さを何でもないように振る舞っているが、エルはまだ十歳。背負うには早すぎた。心に亀裂が走っていた。


その姿を見て、男は決断する。いずれ、この子は仙人の領域まで行く。集中する様子を見ても並ではない。なら、早いか遅いかの違いでしかない。そうであるとするなら、救いの可能性がある以上、手助けするべきではないのか。

「エル、もしかしたら、もしかしたら深層意識がお前の心を受け入れていないのかもしれない。」

その言葉にエルの顔が固まる。一度指摘されてしまえば、気づいてしまう。世界の綺麗さに憧れているが、本当に心からそう思っているのか。世界に綺麗な面はあるとしても、それはほんの一側面でしかないのではないか。世界なんて本当は――


エルの固まる様子を見て、男は激しく後悔する。やはり伝えるべきではなかった。どんなに大人びていても彼はまだ子供。自分の心を真正面から受けとめるには早すぎた。

だが、彼の仮面笑顔を見て、もう戻れない事を悟る。

「…ちょっと考えてみるよ、ありがとう。」

エルはもと来た道を駆け戻るが、知らず知らずのうちに涙が溢れる。

(世界が綺麗? そんなわけあるか。この世は汚いものでいっぱいだ。欲にまみれ、愚かで、醜い、そんな人間しかいない。)

屋敷に着くと自室に籠もり、涙を拭く。

どれほど経っただろうか。エルはフラフラと立ち上がり、母の部屋へと向かう。

寂しくなったときは、何となくいつも行くのだ。寂しさが紛れる気がして。


「ガチャ」 


普段ならベッドの上で寝転がるが、今日だけは違う。たまたま見つけたベッドの下にある金庫。ここに全てがあるはずだ。

エルは魔力の刃を作り出し、思いっ切り斬りつける。何度も何度も何度も。

何度目だっただろうか。

「開いた。」

切れ目を慎重に広げていくと、中にはノートが入っていた。

震える手で掴み、ペラペラと中身を読んでいく。どうやら、日記のようだった。

しかしとあるページで順調に捲っていたその手がピタッと止まる。ついに見つけてしまった。


『子供がまたできた。あの男の子供と思うと可愛さが半減する。しかも髪は私の色。見るだけで吐き気がする。まさしく、私の子…。』

最後のページに書かれた真実。とうとう曖昧だった謎が解けてしまった。解けないままだったら、まだ救いはあったのかもしれない。しかし、もう結論は出た、揺らがないほど絶対的な。

(…母上は俺を愛してなどいなかった。…世の中、そんなものか。)

エルの瞳が青から灰色に変わり、世界も灰色に染まる。エルはようやく己の心を認識した。

(何もかもどうでもいいな。こんな世界、クソ喰らえ!) 

心が荒んでいくにつれて、髪にも灰色の部分が広がる。

そして世界のすべてが色褪せて見える。しかし残酷なことに、エルにとってはこれ以上なく澄み渡っている景色だった。

「ハハハハハハッ、これが俺の世界か。まさしく、この世とおんなじじゃねぇか。クク、ハハハ…。」

何故だろう、無性に涙が出る。ただ、自分も世界の綺麗さに触れたかっただけなのに。この違いは何だというのだ? 今までの積み重ねがこの差異だと言うならあまりに酷いではないか。


エルはひとしきり涙を流した後、ノートだけを持ち出して、金庫をもとの場所に戻す。

そして、再び花畑の、いつも昼食を食べる場所へと向かう。

が――

「エルグランド様、もう少しで剣の稽古です。」

よりによってこのタイミングで現れる、邪魔者。

「…」

「エルグランド様!」

「…るせぇ。」 

「は?」

「うるせえつってんだよ! 平民如きが俺に指図してんじゃねぇ!」

今のエルはこれまでにもなく荒れていた。人一人殺しても罪悪感を感じないくらいには。

「え、エルグランド様?」

慄くセバスを無視し、歩みを進める。

とんだ邪魔が入ったが、どうでもいいことだ。あれじゃ、自分には勝てない。


やがて花畑が見えてくる。色鮮やかな花が咲き誇り、見る者を幸せにしてくれる。かつてはエルもそのうちの一人だった。だが、今となっては寒々しく感じられた。

「エル…、お前。」

そこで待つ男もまた、エルが仙人の領域に達したことを感じていた。だが、それは筆舌に尽くし難い色だった。

「酷いだろう? でもこれが俺の色だったんだ。」

また髪に灰色の部分が増える。

「よせ!! あまり深入りすると帰れなくなるぞ!」

「それもいいかもしれないなぁ。」

「クッ…、エル…。」 

男はもう後悔しかしていなかった。こんなふうにしてしまったのは己。安易に世界を見せるべきではなかった。すべての元凶はそこにあった。

「おっさんは何も悪くない。だだ、俺の考えが甘かっただけだ。…それにいつかはこうなってた。」

(それに、…楽でいい。俺の世界はずっと安泰だろう。…俺だけの世界、…いい響きだ。)

エルは徐ろにノートを上に放り投げると、魔力剣で切り刻む。

いつもの数倍、速くなっていることに驚いたが、それだけ。

「エル、何を…」

「…ここは大切な場所なんだ。だからこそ、汚す必要がある、俺の手で。」

母の呪詛めいた言葉が書かれたノートを切れ切れにしてばら撒く。それで本当に綺麗な所が世界からなくなる。

細切れとなった紙片が太陽の光を受けて、キラキラと輝くこの光景をエルは一生忘れないだろう。自ら逃げる場所を無くしたこの日、間違いなくエルは灰色の仙人となったのだ。





 



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