10月31日『既視感の始まり』

 10月31日『既視感の始まり』


 ……俺は浅い眠りから目を覚ました。目を開くといつもの天井が目に映る。 

 

 木目調の板が並べられた、よくある天井だ。

 かつては大地に根を張り生きていたであろう大木を伐採し加工された天井。

 その木目は、人の顔にも見えなくもない。今の俺には、木目に映る顔が、唯一の同居人だ。


「おはよう……」


 俺は同居人の木目の顔に挨拶をする。同居人は、俺の挨拶に決しては答える事はない。


 目覚めて間もなくアラームがうるさく鳴り響く。俺は苛立ちながら、アラームを止める。


 この頃は眠りが酷く浅い……朝方になると夢の中に、片足を突っ込んだままぼんやりと少しずつ、少しずつ覚醒していく。

 夢と現実の境界線を、ゆっくりと跨ぐように朝を迎える。

 もう若くない為か、目覚ましのアラームが鳴る前に目を覚ましてしまう事が増えてしまった。


(また目覚めてしまった……このままずっと眠っていられたらいいのに……朝なんてこなければいいのに……)


 朝を迎える度にこんな事を考える。毎朝、繰り返し、繰り返し同じ事を考える為、脳の思考回路にしっかりと刻まれてしまったみたいだ。


 それは、まるで呪いに似た祈りであった。


「もう、うんざりだ……」

 

 目覚めたばかりにも関わらず、俺は小さく呟いた。

 いつからだろうか?目を覚ます度にこんな事を思うようになったのは……


 おそらく妻が、去っていった頃からだろう……


 それ以来、目覚める度に妻が居ないのは、夢だったのではと現実を拒絶していたのだ。

 妻と離婚をしたのはもう一年も前になる。 

 酷い裏切られ方をされた……そして、俺の元から去っていった。

 強く離婚を望んだのは、俺の方だった。しかし最初に裏切ったのは彼女の方だ……俺の元から去っていったと言う方がしっくりくる。


 それ以来、眠りが浅い……


 もう若いとは言えない年齢もあり、離婚と言う事柄へ平気な振りを続けていた。

 しかし、心の奥底に少しずつ傷を付けていき一年掛けて、とても大きな穴を開けてしまったようだ。

 それは酷く爛れたような醜い穴だ、穴に触れる度に痛みが走る。


 俺は、その穴を塞ぐ術など知らなかった……


 たかだか離婚……現在では大して、珍しい事では無い。

 統計では3分の1の夫婦が、離婚する世の中だ。

 他人と他人が一緒に生きていくように人間は出来ていないのだ。俺は、その3分の1に入っただけだ。


 奇しくも俺の両親も離婚している。幼い頃は本当に嫌な思いをしたものだ。

 名字が変わる事を上手く回りに説明出来ずにいると、知り合いの同級生の一人が得意げに説明をしだした。

 俺は隣で聞きながら、恥ずかしさに顔を上げる事が出来なかった。


「どうして名字が変わったの?」


「どうして離婚したの?」


「ねぇ、呼びにくいよ」


 子供はとても残酷で口から出てくる質問には容赦ない。

 俺は幼いながら作り笑いを浮かべやり過ごすしかなかった。


 俺は家族と言うものに縁がない……


 幸せと言うものは掴めない……


 俺は独りなんだ……


 深層心理に焼き付いて、自己暗示を掛けてしまっている。

 自己暗示を掛け続けながら、俺は大人になった。

 そして今、案の定独りになってしまった。

 自己暗示が現実になってしまったのだ。


 寝起きの怠い体に鞭を打ちベッドから起き上がる。

 キッチンの椅子に座り、煙草に火をつけ、深く吸う。

 煙草を吸いながら、昨晩見た夢を思い出していた。俺のいつものルーティンだ。


 今日はこんな夢だった……


 夕焼けに染まった、真っ赤な空の下に団地がどこまでも建っている。

 団地の数も尋常ではなく、遠巻きに見ても何百、何千と団地が並んでいる、とても不気味な光景だった。

 団地の一つ一つは錆びつき、カーテンは破れ、窓は割れ、不穏な雰囲気が漂っていた。

 人が住んでいる様子にはとても見受けられない。


 夢の中の俺は、何処かの部屋に行きたがってるようだ。

 柵を通り抜け、雑草の中を掻き分け団地の入り口を探す。

 入り口の前に立ち、団地を見上げると最上階が全く見えない。

 団地は真っ赤な空に向かい、どこまでも高くそびえ立っているように見えた。

 茶色に錆びついた手すりを掴み、1段1段と階段を登っていく。

 足音は、何処までも、重く大きく響きこだまする。

1階、2階、3階と階段を登るが一向に目的地へ着く気配がない。

 階段と踊り場の同じ景色が、何度も何度も目に映るだけだ。

 辿り着かない事に困惑しながら、踊り場から見下ろすと小さな公園が見える。

 公園にはブランコに立ち漕ぎをしている少年が俺の方を眺めている。


“キィ……キィ……キィ……”


 ブランコは揺れる度に油の切れた、鉄と鉄が擦れる音が響く……神経に響く、とても嫌な音だ。

 少年はブランコから飛び降り、大きく俺に手を振っているようだ。

 なにやら口元が動いているように見える……何を言っているのだろう?


「…………」


 聞こえない。


「……り……う」


 まだ聞こえない。


「……えり……ぼう」


 声が少しずつ大きくなっていく。


「おかえり……また遊ぼう」


 少しずつ声が大きくなり、遂には鼓膜を破く程の大きな声が耳元で聞こえた。

 夢の中の俺は、その声に驚きそして恐怖を感じた。


 恐怖の瞬間、場面が切り替わる。次は団地の中の一室だ。

 重い鉄製の扉を開け、狭い玄関に入る。冷たいドアノブの感触や埃の匂いまで妙にリアルに感じられた。

 玄関の横には木製の棚があり、一枚のメモが置いてあった。

 俺はメモを手に取り、内容を確認する。


“いますぐここからにげて”


 子供が書いたような字で、メモにはそう記してあった。

 俺はメモをポケットに入れ、玄関を通り部屋に入る。


 真っ赤な夕闇が窓から部屋を照らし出す。部屋には古びた椅子が一つ置いてある。

 俺は椅子に座り部屋を見渡した。土壁で埃まみれの部屋だ。

 どことなく、さっきまで誰かが居たような生活感を感じる。 


 床には、尻尾の長い首輪の付いた黒猫のぬいぐるみが落ちていた……俺はそれを手に取り眺める。

 そうだ……このぬいぐるみは昔、俺が大事にしていた黒猫のぬいぐるみだ。

 俺は、この黒猫のぬいぐるみをとても気に入っていた。

 失くした事に気づいた時は酷く落ち込んだものだ。


 俺は改めて部屋を見渡した……ブラウン管のテレビ、青いカーテン、ガラス扉の棚、そして今、俺が座っている椅子。

 かつて幼い頃に住んでいた団地の部屋だ。何故今まで気付かなかったのだろう?

 俺はこの部屋で幼い頃を過ごしていた。片親で母は働きに出ていた為、長い時間いつも独りだった。


 部屋の奥に半開きの扉が映る。そこはかつて俺の部屋だった。

 扉の向こうに誰かが居る……俺は本能的にそう感じていた。


 恐る恐る扉を開くと、公園で手を振っていた少年がそこに居た……顔は暗がりの中よく見えない。


「おかえり……」


 少年の声が耳元に響いた所で俺は目を覚ました。


 酷く不気味な夢だった……おかえりってなんの事だ?あの少年は誰だったのだろう?

 メモの“いますぐそこからにげて”とは誰からのメッセージなのだろう?疑問はつきなかった。

 

 俺は煙草を吸い終えると、夢占いをいくつか調べた。結果はこうだ……


 古びた団地の夢……不安の暗示、周りに頼れる人が居なく、生きる事への積極性や希望が失われている事を表す。


 階段を登る夢……人生で何かを積み重ねている事を表す。また辿り着かない場合は現状に対し苦悩している傾向。


 昔に住んでいた夢……現状に嫌気が差している事を表す。または“家族”そのものを意味する。


 ざっと調べてみるとこんな感じである……どちらにしても良い夢ではなさそうだ。

 何より夢を見て起きた後の気怠さがそれを表している。

 それに……あの少年は誰だ?何か懐かしくも感じるが俺には誰だか分からない。顔も思い出す事が出来ないのだ。


 顔を洗う為、立ち上がるとキッチンの扉が半開きになっていた。


「あれ?」


 俺は何か違和感に包まれた……前にもこんな光景を見たような……上手くは言えないが前にもこの“感覚”を体験している。

 デジャブ、既視感だ……キッチンの半開きの扉の光景を何かと重ねている。


 なんだろう……思い出せそうで思い出せない……


……そうだ夢の光景だ。


 夢で見た半開きの扉と重ねているんだ。不気味な夢とこの既視感……何か不穏な胸騒ぎがする。


 見た夢は、すぐに忘れてしまう。脳の仕組みでそうなっているらしい。

 俺は忘れてはいけないと本能的に感じて夢の内容をノートに書き出す。


 不気味な夢、この既視感、この日以来俺は夢日記を書く事にした。



“夢日記……夢の経験を記録する日記である。夢日記には、毎晩の夢、個人の内省、白日夢の経験の記録が含まれうる。夢や心理学の研究でしばしば使われる”

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