「姫さん今日は?」

「んっ……今日は、ダメ」


 軽い口づけの後、姫は男の唇に人差し指をあてた。男は内心『今日もだろ』と悪態つきながら姫から離れる。


『姫が乗り気でない時は無理強いをしてはならない』というのが組内で周知されているルールだ。姫自身にはそれほどの価値はないが、姫の父親は組にとって貴重な人材だ。彼の機嫌を損ねるわけにはいかない。彼は医療面だけでなく、組の内情にも精通しているのだから。


 だからこそ、皆一物を抱えながら、小娘に適度に媚びへつらっている。

 まあ、なんにせよ中身はともかく姫の外見は最上級。組員の男連中が仕込んだ技もプロ級だ。何より、姫自身が快楽に貪欲なのがいい。ある意味ウィンウィンの関係だとも言える。


 しかし、そんな姫がここ最近禁欲的になってしまった。断られたのは男だけではない。他の連中もらしい。

 その理由に、男は心当たりがあった。


 ――――あんなおっさんのどこがいいっていうんだ。姫さんはあいつが生きていることを知らないはず。……死んだ男に操を立てているつもりか?


 そう考えただけでイラっとする。つい本当のことを教えたくなったが、あいにく上から『姫には知らせるな』『白金 猛には手を出すな』と言われている。


 白金サービスについての噂は男も何度か聞いたことがある。だが、どれも数年以上前の話だ。

 そんなに警戒しないといけない相手とは思えない。


 ――――まあ、上にも上の考えがあるんだろう。


 結局そう自分にいい聞かせるしかない。

 白金は怖くは無いが、組にバレるのは怖い。

 上の邪魔をすれば自分が消される。ヤクザの世界というものはそういうもの……少なくとも佐藤組は。


 から降りた姫は自宅へ向かって歩く。近所の人にバレないように離れたところで降りたので少し歩かなければならない。

 二人で暮らすには大きすぎる一軒家。しかも、いつも何かと忙しくしている父は家にいないことの方が多い。いつ帰ってきても冷たい家だ。でも、姫にとってはそれが通常。それに男を連れ込みやすいという利点もある。……今はとてもそんな気分にはなれないが。


 鍵を開け、玄関の扉を開ける。中に入ると、覚えのない香りが一瞬鼻腔をくすぐった。

 ――――父が新しい恋人でも連れ込んだのだろうか。

 一応チェックしたが、父の靴も見慣れない女性物の靴も無かった。

 少しだけホッとする。別に父に恋人が出来てもいいのだが、そこはなんというか……複雑な子供心なのだ。


 一応、すぐにさっき送ってくれた男を呼び戻せるようにスマホを手に取った。

 できるだけ音を立てないように靴を脱ぎ、部屋の中へと進む。リビングから光が漏れている。一気に緊張感が増した。スマホのボタンを押して、バッグに突っ込んだ。


 リビングの扉を少しだけ開き、隙間から中を覗く。

 そして息を呑んだ。


 バンッ!と勢いよく扉を開く。


「猛?!」

「ようっ」


 ソファーに腰かけ、片手を上げる白金。唖然とした。

 あの日から、忘れたことは無かった。手に残る白金を刺した時の感覚。血の匂い。白金の苦しそうな息遣い。

 夢にまででてきたくらいだ。てっきり死んだと思っていた。自分が殺したのだと。


 それなのに、白金はぴんぴんしている。

 姫はふらふらと白金に近づいた。

 片手を伸ばし、白金の温もりを確かめようと頬に手を伸ばす。


 けれど、その手は白金の手に握られ遮られた。

 でも、それだけで充分だ。握られた手から白金の温もりが伝わってくる。姫は呆然と己の手を見つめ、次いで白金の顔を見上げた。


「なぜ、生きているの?」

「なぜって……死ななかったから……としか言えねえな」


 あの日、見つけてくれたのが黒井でなければ助からなかったかもしれない。が、それは姫には教えなくていいことだ。


「本物……よね? なぜ、誰も教えてくれなかったの」


 思わず呟いた。白金の死を確認するのが怖くて聞かなかったのは自分だが、それでも誰か一人くらい報告してくれてもよかったのに……と不満が込み上げてくる。


 白金は黙ったまま、肩を竦めた。

 姫は複雑な気分だった。白金が生きていて嬉しいような残念なような。白金から視線を逸らす。


「え」

「あ、やっと気づいた。眼中に無いにも程がありますって~」

「な、何よあんた達! いつのまにっ」

「最初からいましたよ。あなたの意識内にはいなかっただけで」

「お邪魔しています」


 ようやく白金以外のメンバーに気づいた姫が狼狽える。白金サービスの社員の顔は覚えていた。特に塚本の顔は。目が合った瞬間、顔を顰める。

 ――――この女。最初から気にくわなかったのよね。芋女のくせに猛の側にいるなんて図々しい。猛の隣にはもっと……


 その時、姫の瞳に初めて黒井が映った。視線が交差する。


 姫の心を揺さぶる『美』がソコにはあった。まるで芸術作品を目にした時のような、言い様のない高揚感。不思議な感覚に陥る。

 姫は、とにかく美しいモノが好きだ。自分のモノにしたくなる。


 ――――彼女こそ私の『友達』に相応しい。


 頬を紅潮させ、姫は黒井に近づこうとした。しかし、すぐに田中が立ちふさがる。

 姫はギロリと田中を睨みつけ「どきなさい」と命令した。そうすれば田中は言うことをきくだろうと。

 けれど、田中は平然とした顔で立ちふさがったままだ。姫の顔に苛立ちが浮かぶ。


 その時、


「田中さん。大丈夫ですよ」


 と田中の後ろから黒井の声が聞こえてきた。田中が戸惑った顔で白金を見る。白金は一瞬考えた後、頷き返した。田中はゆっくりと横にずれる。何かあればすぐに取り押さえる気で姫の言動に注意を払っている。


 黒井と姫が対面した。

 姫が興奮したように黒井に話しかける。


「あなた、名前は?」

「黒井 百合といいます。初めまして、藤田 仁美さん。それとも、佐藤 姫さんとお呼びした方がいいですか?」

「……私のこと勝手に調べたの?」


 ジロリと、塚本を睨みつける。塚本も負けじと睨み返し口を開こうとしたが、


「あんたが白金さんにしたことを考えたら当然だろ」


 田中が口を挟む。白金のことを指摘され、今度は姫がたじろいだ。


「ま、まあ、いいわ。百合……いい名前ね。私は百合って呼ぶから、百合は私のこと姫って呼んでくれる?」


 そう言って黒井に友好的に話しかけた。しかし……


「何故ですか?」

 黒井の反応は淡白。しかも、本気で言っている。


「な、何故って友達なら名前で呼び合うのが自然でしょう?」

「友達、ですか? 私が?」

「ええ! あなたは私の友達に相応しいもの!」


 いまいちピンときていない黒井。必死に自論を述べる姫。二人のテンションの差に困惑する周り。

 そんな中で、塚本は少々複雑な気分になっていた。

 そんなに自分の容姿はダメなのだろうか。と、顔には出さないがこっそりと傷ついていた。


「大丈夫。香さんは可愛いですよ」


 驚いて田中を見るが視線は合わない。気のせいだったのだろうか。でも、少しだけ心が軽くなった。気持ちが落ち着いた塚本は視線を二人に戻す。

 ちょうど、黒井が姫に頭を下げている所だった。


「丁重にお断りさせていただきます」

「え?」


 一瞬時が止まった。数秒後、皆我に返る。

 姫が詰め寄った。


「な、なぜ?」

「なぜって……なぜ、私が姫さんのような面倒な人とお友達にならないといけないのですか?」


 至極真っ当なことを言っているのだが、相手に面と向かって言うにはリスキーなセリフだ。姫が理解する前に、慌てて田中が二人の間に身体をねじ込む。


「私が面倒な人?」


 呆然と呟く姫に、田中の後ろから黒井がひょっこり顔を出す。

「はい。いつも姫さんの機嫌取りをしないといけないのは面倒ですし、機嫌取りに失敗して白金さんのように刺されたり、仲良くしていても突然俊さんのように殺されたりする可能性があるなんて嫌です。あ、でもこれは面倒な人……というよりは危険な人ですね」


 危険と言っているわりに黒井は怖がっているようには見えない。けれど、姫には効果覿面だったようだ。顔を赤くしたり、青くしたりしている。


「何も言い返せないところを見ると、金子さんを殺したのはやっぱりあんただったんだな。……あんたの男達も手伝ったんだろうけど」


 田中の言葉に姫が目を丸くする。


「な、なにを言っているの? 私がそんなことするはずないでしょ!」

「それだけ動揺して何を言っているんだか」


 呆れた顔になる田中。姫は口を閉じ、顔を歪ませる。

 今まで黙っていた白金が田中の背中をトンッと押し、塚本の方に押しやった。

 視線だけでそのまま塚本を護っていろと指示する。田中は黙って頷き返した。


 代わりに、白金が黒井の前に立ち、盾となる。

 姫は俯いて何かに耐えるように震えていた。白金はその様子に違和感を覚える。


「もしかして……おまえ、金子が死んだことも知らなかったのか?」

「そんなわけ……すんません」


 思わず口を挟んでしまった田中だが、白金から睨まれ口を閉じた。

 しばらくして姫はよろよろと顔を上げた。その顔は真っ青だ。縋るような目で白金を見上げ、口を開いた。


「確かに私はあの人達にお願いしたわ『俊が二度と私に近づかないようにしてほしい』って。で、でも殺してとは頼んでないわ。本当よ! ただ私の周りをうろつかないようにしてほしかっただけでっ」

「だから? 自分は悪くないって言いたいの?」


 塚本が軽蔑した目を姫に向ける。その視線を受け、姫がムッとした顔で頷く。

「ええそうよ。だって私は俊が死んだことすら今まで知らなかったんですからね」

「それはそうだと思います。でも……姫さんは知らなければならない」

「え?」


 押し止める白金の手を交わし、前へと出る黒井。


「な、なに?」


 黒井はおもむろに両手を伸ばし、動揺する姫の顔を引き寄せると有無も言わさず口づけた。皆が呆気に取られている中、黒井は目を開いたまま無表情で口づけている。姫の片手が空中に延ばされ、抵抗するように暴れる。けれど、誰も助けてはくれない。

 しだいに、姫の手は落ちていき、膝から崩れ落ちた。


 どうやら姫は意識を失ったらしい。黒井が姫から手を離し立ち上がる。

 そして、そのままリビングを出て行った。水音とうがい音が聞こえてくる。

 全員戸惑った表情で顔を合わせた。


 姫をソファーに寝かせ、白金サービスの面々は黒井が戻ってくると早々に説明を求めた。黒井は姫の様子を窺った後、小声で説明を始める。


「今、姫さんには追体験をしてもらっています」

「追体験?」


 田中の問いに黒井は頷く。

「はい。俊さんが過去に体験した出来事を、夢の中で体験してもらっているんです」

「ほへ~。そんなこともできるんっすね」

「それは……まさかさっきので、か?」


 白金にアレと言われ黒井の眉間に皺が寄る。思い出したのだろう。黒井は険しい顔で頷いた。


「ええ。今回はあの方法が最適だったので。私の体液を通して私が持つ力を少しの間だけ姫さんも使えるようにしたんです。今は姫さんに俊さんを憑依させ、強制的に同調力を高めている状態です」

「金子を追い払った時といい……強引な方法が多いんだな」

「私はが得意ですから」


 白金が呟くとしれっと肯定する黒井。

 田中が前のめりになった。片手を上げている。


「それって幽霊なんて全く見えない俺でも同じようにしてもらえば追体験ができるってことですか?」


 興奮したように頬を染め、目をキラキラさせている。しかし、その好奇心の奥には下心がひょっこり覗いている。

 塚本が田中の背中をぎゅうううううううと捻った。


「いってぇぇぇぇぇええええええ」


 思わず立ち上がる田中。慌てて己の口を手で塞いだ。姫を見れば起きていないようでホッとする。静かに座ると、黒井が田中に尋ねた。


「できますが。田中さんはしたいんですか? 車に何度も敷かれて死ぬ体験を」


 純粋な質問。その意味を理解した田中は青褪め、激しく首を横に振った。

 その時、


「っ! やめっ、っぐぁっ」


 意識の無いはずの姫の口から苦しそうな呻き声が聞こえてきた。皆口を閉ざして姫の様子を窺う。

 いったい、姫は今どんな体験をしているのだろうか。

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