第24話 女皇来訪

 フレイヤが静養の為、ヨトゥンヘイムを訪れたのは、武術競技会の二週間後の事だった。

 随行したのは女官長と二人の女官、それに総勢三十名ほどの侍女・侍従たちである。

 フレイヤが滞在するのはヨトゥンヘイム王都にある離宮で、スリュムがフレイヤとの結婚が決まった際に彼女のために造らせたもので、ヨトゥンヘイムにあっては異質と言える程に優雅な作りになっている。


 オリアスからフレイヤの護衛を命じられたヒルドは、緊張した面持ちでフレイヤ一行の到着を待っていた。

 無論、フレイヤの護衛にあたるのはヒルドだけでは無いが、たとえ非常時であってもフレイヤの寝所に立ち入ることを許される男はスリュムの他にいないので、女戦士であるヒルドはフレイヤの寝所の控えの間に詰めることになっていた。


「この離宮に来るのは初めてか?」

 柱の精緻な彫刻や庭園を飾る幾何学模様の花々に目を奪われていたヒルドに、同僚の側近護衛官が訊いた。

 彼もフレイヤの護衛を命じられた一人だ。

 狼のように白の混じった灰色の髪と、狼のように薄い琥珀色の瞳の持ち主で、武術競技会の時、オリアスに事態の報告に行けと、ヒルドに指示した男だ。

「自分は初めてでは無いような口ぶりだな」

 ややむっとして、ヒルドは言った。


 ヒルドはオリアスの側近護衛官になって数年しか経っていないが、この離宮はフレイヤがヨトゥンヘイムを訪れる時にしか使われないし、その機会は滅多に無い筈だ。

 つまり、その滅多に無い機会を得た事がないからと言って、経験不足扱いされる謂れはない。


 ヒルドの態度に、その男――スルト――は軽く笑った。

「そう、聞こえたか? 俺も初めてだと言いたかっただけだが」

 ヒルドは一旦、口を噤み、相手を見遣った。

 周囲の男たちから下心をもって接せられる事が少なくないので警戒しがちになるが、スルトの表情には下卑たところは見られないし、口調も穏やかだ。


「来たのは初めてだ。はっきり言って、ヨトゥンヘイムにこんな城があるなんて思ってもいなかった」

 同僚に対して無意味に喧嘩腰になるべきではないと思い直し、正直にヒルドは言った。

 俺もだ、と、スルトは頷く。

「フレイヤ様というのは絶世の美女らしいな。驚きのあまり呆けた顔を晒さないようにと、ヴィトル殿から注意された」

 子供のような笑みを浮かべ、スルトは言った。

「私はそんな注意は受けていない」

「そりゃ、お前は女だから」

「女だって、想定外に美しい人を見たら驚く」

 オリアスに初めて会った時の事を思い出しながら、ヒルドは言った。

「だがアルヴァルディ様のお母君だと思えば、相当にお美しい方だというのは容易に想像がつく」

「その容易な想像の範囲を超えてるから、ヴィトル殿がわざわざ注意したんじゃないのか? どれ程の美女なんだか、楽しみだ」


 嬉しそうに、スルトは言った。

 相変わらず子供のような笑顔で、狼を思わせる容貌と不釣合いだ。

 ヨトゥンヘイムの男にしては珍しく髭を生やしていないし――そのせいで無邪気そうに見えるのかも知れない――体格も他の戦士に比べてすらりとした印象だ。

「スリュム様のお妃様に対して失礼だぞ」

 スルトも自分と同じく妖精の血を引いているのかも知れない――内心でそう思いながらヒルドが言った時、視界に馬を駆るスリュムとオリアスの姿が現れた。

 ヒルドたちは口を噤み、姿勢を正す。

 オリアスのすぐ後ろには、いつものようにヴィトルが付き従っていた。


 スリュムたちが馬を降りると間もなく雅やかな馬車の隊列が現れた。

 フレイヤの一行である。

 片足の不自由なフレイヤの為に輿が用意されていたが、スリュムは手を振って輿を担ぐ侍従たちを下がらせ、自らフレイヤに手を貸して馬車から降ろすと、軽々と抱き上げた。

 ヒルドは、思わず息を呑んだ。

 フレイヤの肌は透けるように白く、長い金色の髪はしなやかに風に揺れ、陽を受けてきらきらと輝いている。

 近づくに従って、白い肌はただ白いだけでなく真珠のような輝きを帯びている事、長い睫毛に縁取られた二つの瞳は深い碧で宝石と見まごうばかりに美しい事、たおやかな身体は触れれば折れてしまいそうに華奢である事が見て取れた。

「久しいな。息災にしておったか?」

「ええ……。あなたも?」

 嬉しそうに問うスリュムにフレイヤはおっとりと微笑んでそう訊き返した。

 その声は澄んでいて美くしく、高すぎず低くは無く落ち着いており、外見の美しさを更に引き立てている。

 眩しいばかりの美貌に、目がくらみそうだとヒルドは思った。

 無意識の内に目を閉じ、深く息を吸う。

 鼻腔を馥郁たる香りが満たし、夢の世界に迷い込んだかのようだ……


「付いて来い」

 ヴィトルの言葉に、ヒルドは我に返った。

 スリュムたちは、既に離宮の中に入っていた。

 隣を見ると、スルトはやや興奮した面持ちで唇をすぼめ、口笛を吹く真似事をしている。

「呆けるな。行くぞ」

 スルトに言うと、ヒルドはスリュム達の後を追い、離宮内部に入った。


 フレイヤが居室に落ち着くと、オリアスは領地の視察があるのですぐに行かなければならないと言って、フレイヤを残念がらせた。

 去る前に、オリアスはヨトゥンヘイム滞在中にフレイヤの護衛にあたる側近護衛官を彼女に紹介した。

 フレイヤは鷹揚おうように頷いただけで、ヒルドたちに声を掛けることは無かった。

「お前は女皇陛下の寝所の控えの間に詰める事になる。不寝番だから今のうちに仮眠を取っておけ」

 居室から退出した後、ヴィトルがヒルドにそう、指示した。

 ヴィトルは他の護衛官にも指示を与えた後、オリアスと共に離宮を去っていった。



 ヒルドは一旦、与えられた控え室に入ったが、すぐに眠る気にはなれなかった。

 初めて会ったフレイヤのたおやかな美貌と、初めて足を踏み入れた離宮の優美さに心を奪われていたのだ。

 夜までには大分、時間があるし、、離宮の内部を実際に見ておいた方が警備に役立つという口実の元――持ち場と離宮内の主だった部屋についてはあらかじめ図面で説明を受けていた――宮中を散策する事にした。

 金糸を織り込んだ窓掛けや寄木細工を施した床板、壁を飾る緻密なつづれ織りに色鮮やかな絨毯――それらに見蕩れながら宮中を歩き回っている内に、中庭に面した明るい部屋の前にたどり着いた。

 扉が開いていたので中に入ると、フレイヤの侍女たちが何人かいて、一斉にこちらを振り向く。

「――失礼……!」

 慌ててヒルドが踵を返すと、目の前に一人の女が立っていた。

 服装からして、侍女より上級の官吏である女官というものらしいと、ヒルドは思った。

 ヘルヘイムの宮廷に詳しく無いヒルドにそれが判ったのは、フレイヤの護衛役に任じられた際、フレイヤの随行者たちについて、ヴィトルからある程度の説明があったからだ。


「あなた確か、オリアス様の側近護衛官よね?」

 会釈だけしてヒルドが脇を通り過ぎようとした時、その女官が言った。

 立ち止まって振り向き、ヒルドは改めて相手を見る。

 蜂蜜色の髪をした顔立ちの整った女で、弧を描いた細い眉と堅く結んだ口元に傲岸さが現れている。

 だが、何より目を引いたのは、その瞳の色だった。

 右目が淡い蒼で、左目は鮮やかな翠だ。

 ヒルドの瞳は光の加減や見る角度で蒼にも翠にも見える薄い色だが、この女官の瞳は左右で色も明るさもはっきり異なっている。


 女官は口角をきゅっと上げた。

「私はファウスティナ。少し、お話しましょう」

 それだけ言うと、ファウスティナはヒルドの返事を待たず、確固たる意思に導かれているかのように歩き出した。

「……待ってくれ。私には護衛官としての役目があるので、持ち場を離れる訳には――」

「あなたの持ち場って、女皇陛下の寝所の控えの間でしょう?」

 振り向きもせず、ファウスティナは言った。

「日中の寝所は誰もいないのだから、今は夜の寝ずの番に備えて休憩中ではないの? さっきの部屋にいた侍女たちも同じよ」

 あの侍女たちは寝所の次の間で待機する事になっているのと、ファウスティナは続けた。

「……休憩中は休憩中だが、それは仮眠を取る為であって――」

「でも宮中を歩き回るくらいの余裕はあるのよね? 私だって忙しいし、そんなに時間は取らせないわ」


 これ以上、逆らっても無駄だと思い、ヒルドは口を噤んだ。

 フレイヤの女官が自分に何の話があるのかは判らないが、ここで押し問答しているより、早々に話を済ませてしまう方が早い。

 ファウスティナの後について、ヒルドはややこじんまりはしているものの、高価そうな家具や敷物で優雅に飾られた部屋に入った。

「時間が無いから率直に訊くけど、オリアス様って、どんな方?」


 ヒルドに向き直って浅く椅子に腰掛けると、ファウスティナは言った。

 一瞬、何を訊かれたのか判らなかったが、すぐに「オリアス」というのは自分の主君のヘルヘイムでの呼称であると気づく。

 そしてその質問余りの単刀直入さ加減に、ヒルドは面食らった。


「……あいまいで漠然とした質問だな。一体、何が知りたい?」

「決まってるじゃない」と、ファウスティナは声に幾分か呆れたような色を滲ませ、だが表情は変えぬまま続けた。

「オリアス様のお好みはどんな花なのか、どうすればそうなれるのか――知りたいのは、それだけよ」

「花……とは、女性の事か?」

 思わず眉を顰め、ヒルドは言った。

「そんな恐い顔をしないでよ。私たち、お友達になりましょう」

 再び口角をきゅっと上げて――それで笑ったつもりなのだと、ヒルドはその時、気づいた――ファウスティナはヒルドの手に指先で軽く触れる。

「私の祖父はレオポルドゥス公爵なの。公爵家だから当然、皇家とも血縁があるわ。それでお祖父様から、アグレウス様かオリアス様、どちらかの妃になるように言われているのよ。私としては側室や御子が幾人もいるアグレウス様よりオリアス様に嫁ぎたいのだけれど、オリアス様はめったにヘルヘイムにいらっしゃらないから、お好みが判らなくて」

 だから協力して、と、ファウスティナは言った。

「……そんな事を言われても、女性のお好みなど……」


 判らないし、知っていたとしても口にすべき事では無いだろうと、ヒルドは思った。

 オリアスの護衛官としての立場からしても、ヨトゥンヘイムの女戦士という身分からしても、ヘルヘイムの女官相手にこんな話をするべきでは無い。


「それとも、あなたがその『花』なのかしら?」

 ファウスティナの言葉に、頬にさっと血が上るのをヒルドは感じた。

 羞恥ではなく、怒りの為だ。

「私は護衛官としてアルヴァルディ様にお仕えしているのだし、アルヴァルディ様は戦士を性別で差別などなさらないお方だ」

「女を女として扱う事のどこが差別なの? それに、女皇陛下の寝所の護衛を命じられたのは、あなたが女だからでしょう?」

 それとこれとは話が別だ――そう、ヒルドが言いかけた時、ノックの音が響いた。


 すぐに扉が開き、ファウスティナと同じような衣装に身を包んだ女が姿を現した。

 フレイヤに随行して来たもう一人の女官だ。


「女官長がお呼びですわ、ファウスティナ様」

 黒褐色の髪とハシバミ色の瞳をしたその女は、無表情で冷たく言った。

「ありがとう、エレオノラ様。すぐに参ります」


 エレオノラと呼ばれた女と同じように、冷ややかにファウスティナは答えた。

 それまでも殆ど無表情だったが、それでもくだけた雰囲気があった。

 が、今はそのわずかばかりの心安さもすっかり消えている。


「ヨトゥンヘイムの女性兵士と、一体、何を話しておられたのですか?」

 ヒルドを瞥見してからファウスティナに視線を戻し、エレオノラは訊いた。

 兵士ではなく戦士だとヒルドは内心で思ったが、口には出さなかった。

 ヨトゥンヘイムで戦士と呼ばれるのは兵士を指揮する立場にある上級職なのだが、そんな事をヘルヘイムの女官が知るよしもないだろう。

「エレオノラ様には関係の無い事ですわ」

「それは意外ですわね。私はオリアス殿下のご趣味について、聞き出そうとなさっていたものと思っておりましたが」

「それは面妖なお考えですこと。仮にそうであったとしても、やはりエレオノラ様には関係ないかと存じますわ」

「不可解な事を仰いますのね。ヘルヘイムの公爵家は、ファウスティナ様のご実家だけに留まりませんのに」

「最も由緒ある家柄の公爵家は一つだけですわ」


 それだけ言うと、ファウスティナは傲然と顔を上げ、先に立って部屋を出た。

 無表情のまま、エレオノラがその後に続く。


「……何だったんだ、今のは……」

 二人の女官が出て行った後、ヒルドは半ば呆れて呟いた。

 そして、二人の会話する姿はまるで小さく冷たい嵐のようだと思った。

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