魔性伝

BISMARC

第1話 二人の皇子

 世界には九つの大国と、数多あまたの小国があった。


 アースガルズに住まう者は自らをアース神族と呼び、ヴァナヘイムの居住者は自分たちをヴァン神族と称した。

 彼らは対立するヨトゥンヘイムの住人をその体格から巨人ヨトゥンと名付け、ヘルヘイムを支配する者たちを、巧みに魔術を操る事から妖魔と呼んだ。


 巨人と妖魔、小人ドヴェルグたちは総称して、『魔性のもの』と呼ばれていた。


 ***


 その日、ヘルヘイムの皇宮は奇妙な空気に包まれていた。


 ヘルヘイム皇宮の大広間は白大理石で造られ、壮麗ではあるものの、何も無ければ見る者によっては冷ややかな印象を受けるだろう。

 が、その日は隅々までかぐわしい花々で飾られ、高価な絹や宝石で身を飾った多くの男女が笑いさざめき、広間と同じ白大理石のテーブルの上には銀食器と希少な酒の壜が所狭しと並べられて美食が運び込まれるのを待ち受ける様は、この世の贅と享楽と華美の全てを象徴するかのようであった。

 だがそれにも関わらず――と言うよりむしろだからこそ――その場に招待された貴族や廷臣たちはたわいの無いおしゃべりにも言葉を選び、そつのない愛想笑いを浮かべて内心の不安と困惑を隠そうとしていた。


 その日はヘルヘイムの第一皇子にして皇太子であるアグレウスの末の子息である、アールヴの成人の儀が執り行われようとしていた。

 ヘルヘイム皇家では、百歳で成人の儀を迎える際に皇位継承権を持つ親王、内親王の称号を与えられるか、さもなければ公子、公女と呼ばれる臣下扱いの者となるかの運命が分かれる。

 アールヴは母親の身分が低く有力な後ろ盾も持たないので、通例であれば公子となるべき生まれであった。


 だが、単なる公子の成人の儀にしては、この日の催しは大袈裟に過ぎた。

 アールヴの異母兄姉の全て、主だった貴族・廷臣の全てがこの場に姿を見せているだけではなく、ヘルヘイムの保護国であるいくつもの国の特使たちが、祝いの品を携えてそれぞれの故国の正装に身を包み、静かに控えている。

 その上、儀式にはアールヴの父であるアグレウス皇太子は勿論、祖母に当たる女皇フレイヤ、さらにはヨトゥンヘイムの王太子であるオリアスの臨席までもが予定されているのだ。


 ――父上の酔狂には驚かされる……。

 広間の奥に設えられた樫の椅子の中で不安そうに辺りを見回している末弟アールヴを見やり、ザガムは内心で溜息を吐いた。

 ザガムは皇太子アグレウスの第一王子であり、ヘルヘイムの親王の称号と共に、母の故国の大公の地位を与えられている。ヘルヘイムの皇位継承権は父の皇太子に次いで第二位になる――筈であった。

 伝統に従えば、ヘルヘイムの皇位継承権は直系の親王、内親王の順に与えられ、称号が同じであれば年長の者が優先される。

 だが今のヘルヘイムは百年戦争の末に大敗を喫し、敵国ヨトゥンヘイムとの連合王国となっていた。

 そしてヨトゥンヘイムには王位継承にあたって順位という考え方は無く、先王が指名した者が次の王となるのだ。


 アグレウスはヘルヘイム皇家の血族としての誇りが高く、ヨトゥンヘイムの風俗習慣を野蛮なものとして忌み嫌っていたから、通常であれば彼がヘルヘイムの伝統に逆らってヨトゥンヘイム流の後継者選びをする事は考えられない。

 が、悪いことにザガムは、その外見において父方の祖父――即ちヨトゥンヘイムの王であるスリュム――の血を、色濃く受け継いでしまっていた。

 ザガムの容貌を描写するには、ヒグマの一言で充分である。

 そしてその外見のせいで、ザガムは優美と気品を重んじるヘルヘイムの宮廷では浮いた存在であり、侍女たちの密かな嘲笑の対象であり、父である皇太子からも冷ややかに遇されていた。


 ザガムは改めて異母弟に目を向けた。

 癖の無い亜麻色の髪と、それよりも薄い色の瞳を持ち、ろくに日にあたらない者特有の白く無垢な肌をした華奢な少年だ。

 百歳になる者を少年と呼ぶのは不適切だが、それがアールヴを形容するならば違和感を覚える者はいないだろう。

 彼の母親がその身分の低さにも関わらずアグレウスの側室となったのは、その清楚でたおやかな美しさにアグレウスが惹かれたからだと噂されている。

 アールヴの母は既に故人であるが、アールヴは母親に生き写しだとされていた。


「何か手違いでもあったのか?」

 野太い声を潜め、ザガムは傍らに控えている側近のハーゲンティに訊いた。

 儀式の開始は予定の時刻をだいぶ過ぎているのに、広間奥の皇太子、女皇、そしてヨトゥンヘイム王太子の為に設けられた椅子は空席のままだ。

 いっそその三者の臨席がないまま儀式が行われるのであれば、アールヴに親王の称号が与えられる可能性も無く悩みの種が減るのだが……とザガムが内心でぼやいた時、高らかにラッパの音が鳴り響いた。


 皇太子アグレウスの入場である。


 臨席者たちは一斉に口を噤んで居住まいを正し、彼らの皇太子を緊張した面持ちで見つめた。

 夜のぬばたまのような艶やかな黒髪は優雅に背を覆い、白大理石のような肌の白さを一層、際立たせている。

 微かに灰色がかった薄い蒼の瞳は深く澄んだ湖を思わせ、長身を皇族のみに許される高貴な紫の絹に包んだ姿は一幅の絵のように美しい。

 広間の中央に敷かれた絨毯の上を音も無く歩く姿は気品に満ち溢れ、見る者を圧倒する程の威厳を感じさせた。


「父上…!」

 父の姿を認めると、アールヴは不安そうだった顔に満面の笑みを浮かべ、まっすぐ相手に向かって駆け寄った。

 その姿はいとけない幼子、と言うよりむしろ、久しぶりに飼い主に会えた仔犬の様であった。

 これだけの皇族・貴族・廷臣が列席している儀式の場で、皇太子を父に持つ身分の者の振る舞いとして、それは余りに常軌を逸していたが、宮中に出入りする多くの者にとって、それは初めて見る光景では無かった。


 アグレウスはたしなめるどころか眉をひそめるでもなく、末子の亜麻色の髪を優しく撫でた。

「父上、もう部屋に帰りたい」

「まだ儀式が始まってもおらぬのに、もう飽きたのか?」

「だって、たくさん人がいるし…」

 言って、アールヴは再び不安げに周囲を見回す。

「ここにいるのは皆、そなたの成人を祝う為に来たのだ。何も不安がる必要は無い」それに、とアグレウスは言葉を続ける。

「本日は女皇陛下もご臨席になられる。大人しくしていなければならぬ」

「…お祖母様はとても優しいのに」

「お優しいゆえ、そなたを叱る事はないが、それに甘えてはならぬ。本日で成人するのだから、そなたの立場も変わってくるのだ」

 穏やかに窘められて、アールヴは口を噤み、視線を落とした。


 ――気狂いかと思った事もあったが、ただの白痴か…?

 父と異母弟のやりとりを見ながら、ザガムは思った。

 彼がアールヴを初めて見たのは何かの会議の席だった。

 アールヴは寝着のまま部屋に乱入し、やはり今日と同じように仔犬のようにアグレウスに駆け寄って、幼子のように駄々をこねていた。

 その時にも、アグレウスは不快感を示すでもなくアールヴの髪を優しく撫で、穏やかに諭して自室に下がらせた。


 身分の低い側室が産んだ異母弟の存在を、ザガムはそれまで全く気にかけていなかった。兄弟として意識した事もない。

 だが、常軌を逸した非礼を働いたアールヴに対し、平素は厳格で冷徹なアグレウスが、異例としか言いようのない寛大な態度を取った事で、特別な寵愛を示したのだ。

 アールヴが格別な扱いを受ける理由は分からない。

 憶測だけならいくらも飛び交っているが、確かな理由ははっきりとしなかった。


 が、問題は理由ではなく、その事がもたらす影響である。

 アグレウスのアールヴに対する寵愛が明らかになると共に、宮中には皇太子が第一王子を後継には指名しないのではないかという噂が流れ始めた。

 だが、では誰をとなると意見が分かれた。

 いかにアグレウスに寵愛されているにしても、アールヴはヘルヘイム皇国の将来の統治者になるに相応しいとは思われなかったからである。


 ザガムが広間を挟んで向かいを見ると、彼の異母弟にあたる第二王子ダンタリオンが奇妙な表情をして、父と異母弟のやりとりを見守っていた。

 ヘルヘイム流の皇位継承順位であれば、ザガムが生きている限り、ダンタリオンが次の皇太子になる機会は無い。

 が、アグレウスがアールヴに特別な寵愛を示した事で、順位に無関係な後継者選びをするのではという噂が流れるようになり、ダンタリオンにも立太子の可能性が出てきたのである。

 であるから、父の異母弟に対する寵愛は彼に取って歓迎すべきものである一方、その寵愛が余りに過ぎるのであれば、後ろ盾や資質の問題まで無視してアールヴが次の皇太子に指名される可能性もある。

 無論、それはダンタリオンの望むところでは無い。


 ――浅ましい男だ。実に見苦しい。

 ダンタリオンの外見に眉を顰め、ザガムは内心で毒づいた。

 自分が父の後継者になれる可能性が出てからというもの、気に入られようとしてかダンタリオンは髪形をアグレウスと同じにし、許される限り服装も似せた。

 が、ダンタリオンの髪は髪質の硬い濃い茶色で瞳も同じ色、肌は浅黒く輪郭はごつく、美貌、優雅さ気品のいずれにおいても父親より遥かに見劣っていた。

 下手に似せようとしているせいで、却って違いが際立っている。


 ザガムは眉のあたりを軽くこすって、無表情に戻ろうと努めた。

 こういう席では誰が何を見ているか知れない。

 異母弟に対する嫌悪感が、自分の足をすくう事にもなり兼ねない。


 ダンタリオンの隣で面白そうに成り行きを見守っているのは第四王子フォルカス。

 明るい栗色の巻き毛に金色がかった琥珀色の瞳を持つ好男子で、背は高くないが均整の取れた体つきをしている。

 何より人当りが柔らかく耳に心地よい声を持ち、常に穏やかな微笑を整った口元に浮かべて話し方などもおっとりしているので、宮中の侍女たちからの受けは極めて良い。

 が、それだけだ。

 ダンタリオンはザガムと同じくヘルヘイムの保護国の王女を母に持ち、母の故国の大公の称号を与えられている。

 つまり、後ろ盾としてはザガムと同等の勢力を有している。


 一方、フォルカスの母の祖国はヘルヘイムとの戦の折に最後まで徹底抗戦を貫いた為、国としての体裁を残さないまでに蹂躙され、ヘルヘイム皇国の直轄地となり他民族の植民を受けている。

 そういった背景がある為、次期皇太子となる可能性は殆ど無いと見られていた。

 生まれつき病弱で、今日の儀式も欠席している第三王子マルバスも、病弱ゆえにその可能性はかなり低いと目されている。

 つまり、ザガムの当面のライバルはダンタリオンであるが、アールヴの存在にも気は抜けないと言える。



 アグレウスとアールヴが広間奥の彼らの椅子の前に立つと、再びラッパが鳴り響いた。

 広間は水を打ったように静まり、多くの侍女にかしずかれて女皇フレイヤがその優美な姿を現した。


 ゆったりと波打つ金色の髪は、身に着けた黄金の腕輪よりもまばゆく輝き足首にかかる程に長く、肌は透けるように白く朧月のようにかすかに青みがかった光を帯びて見えた。

 夢見るようなうっとりとした瞳は深い碧で、あたかも二つの極上の宝石であるかのようだった。

 たおやかな身体を金の刺繍で縫い取った白い絹に包み、ほっそりした右手には、真珠で飾った銀の杖をついている。

 フレイヤは生まれつき足が不自由で、杖をつかなければ歩く事は叶わなかった。

 だがそれにもかかわらず、緋色の絨毯の上をゆったりと歩む様は調和の取れた優雅さと気品に満ち、白銀の杖は不自由を補う為の補助具ではなく、その美貌をさらに際立たせ皇国の統治者としての威厳を加える為の豪奢な飾りに見えた。


 だが、そこには一抹の不調和があった。


 本来であれば女皇の入場は臨席者の最後となるはずである。

 が、この国の第二皇子でもあるヨトゥンヘイムの王太子オリアスの席は空いたままだ。

 何かやむを得ぬ事情があって出席が取り消されたのかと臨席者たちが内心で考えを巡らせていた時、広間に駆け込んできた者の姿があった。

 長く艶やかな黒髪をなびかせ、初夏に原を渡る風のようにフレイヤの傍らに駆け寄ったのは、他ならぬオリアスだった。


「済まない、母上。遅くなった」

「まあ、あなたという人は…」

 窘める言葉を口にしながら、フレイヤの整った顔には非難の色は少しもなく、久しぶりに我が子に会えた喜びのみが表れていた。

「久しぶりだな、兄上、アールヴ」

「叔父上…!」

 名を呼ばれ、アールヴは少年のように満面の笑みを浮かべ相手に歩み寄ろうとしたが、それをアグレウスは視線で止めた。

 父の薄い蒼の瞳に、氷のように冷たく刺すような光が浮かぶのを見て、アールヴは不安げに俯いた。

 オリアスは、母に手を貸して椅子の側まで付き添った。


 広間に駆け込んで来てから奥に用意された椅子に辿り着くまでの一連の動きは流れるように優雅で、常軌を逸した行動であるにもかかわらず、その身分に相応しいだけの気品があった。

 アールヴの奇行が宮廷人たちにとってある程度、見慣れた光景であるように、第二皇子オリアスの勝手気ままな振る舞いも、これが初めての事では無かった。

「アールヴが飽きてしまわぬよう、堅苦しい儀式は早々に済ませてしまおう」

 フレイヤに言ってから、オリアスは父に窘められてしょげている甥に視線を移し、そして微笑した。


 アグレウスが、何よりも警戒し、危険視している微笑ほほえみだった。



 ――それにしてもよく似ておられる。

 ザガムの側近ハーゲンティは非礼に当たらぬ程度に広間奥の皇族たちを見やりながら、内心で思った。

 アグレウスとオリアスの兄弟は、髪と瞳の色を除けばヘルヘイム一の美姫と謳われたフレイヤに瓜二つである。

 フレイヤは既に五千年の歳月を生きてきたが、由緒ある家柄に生まれた者の常でその寿命は非常に長く、その外見にはわずかな衰えも見られなかった。

 そうして三人で並ぶ姿を見ると、母子と言うより三つ子の姉弟のようである。

 そしてそれだけ似ているにもかかわらず、アグレウスとオリアスが見る者に与える印象は全く異なっていた。


 アグレウスの肌が白大理石のような冷ややかな白さであるのに対して、オリアスのそれは象牙のような柔らかな温かみを感じさせる。

 アグレウスの薄い蒼の瞳が余りに澄んでいるがゆえに生き物の棲めない湖を思わせる一方で、オリアスの明るい翠の瞳は力強く芽吹く新緑のような瑞々しい生命の光が満ちていた。

 立ち居振る舞いが優雅で気品がある点は同じだが、アグレウスが人を寄せ付けない威厳を漂わせており、対照的にオリアスは気さくに振舞って親しみ易いと言えた。


「…ようやくお揃いか」

 低く、ザガムは呟いた。

 これだけ役者が揃ったのだから、アールヴに親王の称号が与えられるのはまず間違いあるまい。

「本日はめでたい席でございます」

 声を潜めて言う事で、ハーゲンティは彼の主が不服そうな表情をしている事を窘めた。

 誰に何を見られ、何を聞かれるかわからぬ場では、気を付けるに越した事はない。



 やがて廷臣が丸めた羊皮紙を携えて現れ、女皇フレイヤに恭しく捧げた。

 フレイヤはそれを手に取って広げ、厳かに宣下を読み上げる。

「ヘルヘイム女皇フレイヤは、第一皇子アグレウスの子息アールヴにヘルヘイム皇国親王の称号を与え、第二皇子オリアスをその後見とする事と定めます」


 広間に、声にならぬどよめきが走った。

 ザガムとダンタリオンは驚愕し、フォルカスは面白そうに笑った。

 そしてアグレウスは、全ての自制心を総動員して無表情を保った。

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