第三十七話 アントン・カスケードの愚行 ⑦ 

「ひいいいい――ッ!」


「きゃあああ――ッ!」


 その悲鳴を聞いたとき、僕は飲んでいた酒のグラスを落とした。


 ガチャン、とグラスの破片が散らばる。


「な、何事か!」


 僕は慌ててソファから飛び上がると、大声で外に向かって叫んだ。


 ここは僕の寝室であり、すでに時刻は夜である。


 夕食を終えて酒で気分を上げたあと、ミーシャを寝室に呼んで肌を重ね合わそうと考えていたとき、まさに今のような悲鳴が聞こえてきたのだった。


 尋常なことではない。


 ここはカスケード王国の中枢なのだ。


 万に一つも危険なことなどないはずである。


 直後、バンッと出入り口の扉が開けられた。


「ひいッ!」


 僕はその音に対して条件反射的に驚いてしまった。


「へ、陛下! 大変なことが起きました!」


 寝室に飛び込むように入ってきたのは宰相である。


「き、貴様! 無礼にもほどがあるぞ!」


 僕は宰相の顔を見た途端、カアッと顔が赤くなった。


 国王である僕の羞恥を、宰相に見られたからだ。


「も、申し訳ございません! ですが、今は平にご容赦を――それよりも、陛下。今すぐここからお逃げください!」


 宰相の狼狽っぷりも尋常ではなかった。


「だから一体、何が起きたというのだ!」


「ミーシャさまです!」


 と、宰相は高らかに叫んだ。


「み、ミーシャさまが王宮の者たちを――」


 そこまで言ったとき、宰相の態度に変化があった。


「ぐぐぐぐ……あが……ごが……あああああ……」


 突如、宰相は頭を両手で押さえながら苦悶の声を上げた。


 それだけではない。


 両目が血走ってきて、口からは大量の唾液をボタボタと垂れ流し始める。


「な、何だ……」


 その様子は異常を通り越して不気味だった。


 まるで変な毒薬でも飲んだように苦しみもがいている。


 やがて宰相はバタンとその場に倒れてしまった。


 だが、絶命したわけではない。


 床の上でバタバタと両手足を動かしている。


「だ、誰かおらんか! 宰相の様子がおかしい! すぐに治癒術師か医者を呼ぶんだ!」


 僕は全身を小刻みに震わせながら寝室を出た。


 一体、宰相はどうしたというのだろう。


 あんな状態になるなど、変な毒薬を飲んだ程度でなるはずがない。


 それに正気を保っていたときの宰相の言葉が気になる。


 ――み、ミーシャさまが王宮の者たちを


 そう、宰相は確かにミーシャの名前を口にした。


 ならば宰相の言おうとした続きの言葉は何だ?


 ミーシャは王宮の者たちに何をしたんだ?


 しかし、いくら考えても事実など浮かんでこない。


 こうなったら自分の目で王宮に何が起きたのか確かめるしかない。


「おい、誰かいないのか! このアントン・カスケードの声を聞いた者は、誰でもいいからすぐにここへ参れ!」


 そう大声で発したにもかかわらず、一向に誰かが来る気配はない。


 だが、ここから遠くの場所の悲鳴はずっと続いている。


 しかも、その悲鳴はどんどんとこちらへ近づいているのだ。


 それこそ、悲鳴を上げるほどの何かに追い回されているように。


 僕はその場から一歩も動かず、じっと立ち尽くしていた。


 いや、動かなかったのではない。


 動けなかったのだ。


 どこからか近づいてくる悲鳴と、肌感覚でわかるほどの恐怖が近づいてくるため、僕は蛇ににらまれた蛙のように微動だにすることができなかった。


 どれぐらい佇んでいただろうか。


 やがて、僕からずっと先にあった通路の奥から何かが出てきた。


 グチャッと動物の内臓を捨てるような音と、真っ赤な色をした液体が視界に飛び込んでくる。


 それは人間の死体の一部だった。


 男か女かなどどうでもいい。


 とにかく元は人間だった身体の一部が、グチャグチャになった状態で通路の中に投げ捨てられたのである。


 異様の一言だった。


 一体、誰が通路の奥から死体の一部を投げ捨てたのだろう。


 このとき、僕はパニックの極致に達していた。


 頭の中は事態を把握しようとフル回転しているのに、身体のほうは事態の把握を全力で拒否するように動かない。


 次第に頭がくらくらとしてきて、口内がカラカラに乾いてくる。


 ごくりと強引に喉を鳴らしても、口内に生唾など溜まっていないので胃の中には何も落ちない。


 すべての原因は恐怖だった。


 得体のしれない圧倒的な恐怖が、今まさに通路の奥に存在している。


 嫌だ!

 

 頼む、現れないでくれ!


 などと願った僕をあざ笑うかのように、得体の知れない圧倒的な恐怖は通路の奥から現れた。


「ひいいいいいいいいいい」


 その姿を見た瞬間、僕は恥も外聞もプライドもすべて捨てて悲鳴を上げた。


「そこにおられたのですね、アントンさま」


 通路の奥から現れたのは、ワンピース姿のミーシャだった。


 しかし、その全身は真っ赤に染まっている。


 血だった。


 むせるような血臭をただよわせ、大量の血を浴びて全身が真紅に染まっている異常な姿のミーシャがそこにはいたのである。


 けれど、僕がもっとも恐怖を感じたのは、ミーシャの背中から生え出ているだろう翼だった。


 しかもそれは鳥の翼ではなく、カスケード王国では不吉の象徴とされる蝙蝠こうもりの翼だった。


 僕が恐怖でガチガチと歯を鳴らしていると、ミーシャは血走った両目で睨みつけてきた。


「わたしの愛しい人に災いをもたらせた元凶のアントンさま。くそ忌々しかったアントンさま。もう大丈夫ですよ、その醜い心と身体を永遠にこの世から消すお手伝いをしてさしあげましょう」

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