わたくし時間共有サービス、時刻差20年

小林蒼

アキレスと亀

わたくし時間、午前九時となっていますが、貴時間、午後四時の藤原様はご在宅でしょうか」

「お待ちください、時刻差、現在十二分となっております。保留音のあいだ、お待ちになりますか」

「ではそれで」

 コーヒーを作ってしばらく待つことにした。サザンオールスターズのTSUNAMIが流れているあいだ、デスクに座り込んで、コーヒーを飲み干すと、くるくる回る気晴らしのオモチャが私の心を和ませる。出社時間まではしばらくあるというのに、もうすでに六割の社員がタイムカードを切っている。デメキンの異名を持つ上司、勅使河原てしがわらはすでに出社済みと。

 かつて時間の神さまが、言葉を乱した神さまのように、人々の時間を乱した。私たちには共有できる時間など無く、テクノロジーで、時間を共有するようになった。時刻共有サービスがまさにそれだ。どういう仕組みなのかは交換手しか知らないことだが、私たちの時間のズレを誤差三時間まで埋めることができるらしい。

「藤原です、西村様でしょうか」

 思考が途切れていることに慌てて気づき、電話へと意識を戻した。途端にどっと緊張して、話すことメモを見ている。予定アプリに視線を移す。きょうは花火大会か。行けないだろうな。雲がタイムラプスで動いていく。

 星の見えない外の明かりは、無数の反対側の街の明かりでいっぱいで、星など見えなくてもいいのだと、私の心に風を吹かせる。時刻共有サービスにもう一件、連絡するところがある。それはずっと前に旅立った、彼との電話だ。

 もうずっと前、二十年前の春に、桜の木の下で私と彼は約束した。何を約束したかは思い出せない。ただ幼い、あどけない私たちはきっとつまらない約束をして別れたのだと思う。彼の微笑みの裏に何が隠されていたのかは知りようもない。

 私たちは電話を時々した。

「いる? 透君」

「原田か、何かあった?」

 相変わらず、朗らかな声色だ。もう彼の顔も写真で確認しないと分からなくなっているけれど、声はそのままな気がする。原田と呼ばれるのも久しぶりで、なんだかくすぐったい。

 相川透は私にとって何者なのか。友達だ。ずっと繋がっていたかった友達だ。でも時間のズレが局所異常を起こした結果、彼の相対時間速度はふつうの人間のマイナス一乗遅く進む。私が時刻共有サービスを以てしても、せいぜい二十年の差が関の山だった。それを良いことに大人達は相川透の意識を深宇宙探査機ヘルベイオンに格納し、地球と外宇宙の連絡係パイロットとして運用している。私は相川透との思い出が懐かしくて堪らない。もう一度彼に会いたかった。

「原田、聞いてる? ゴジラ松井って凄いんだなぁ……」

 もう誰も驚かなくなったホームラン王の話をする相川君を見ると、子どものときテレビのまえで一緒に野球観戦した思い出が深く蘇る。今だったら大谷翔平が凄いんだよ、なんて子どもの私なら言ったかもしれない。

「古くさいよ、いまどき松井の話なんて誰もしないよ」

「早く大人になっちまったのはそっちのほうだろ?」

 交換手が時を告げる。

「時刻共有サービスです。こちらの電話番号は残り十分で、通話時間が限度を超えます。続けてご使用なさる場合は一を、止める場合は二を押してください」

 何度だって帰れるかもしれない。あの時に、あの場所に、桜の木の下でなにを彼と約束したのか思い出せるかもしれない。彼に一度聞いてみたけれど、はぐらかされるばかりだった。

 勅使河原がどっさりと書類のデータを置いていったのが、勅使河原時間で午後五時のことだった。時間の差こそあれ、時刻共有サービスでそれほど時間が経っていないことを説明すれば、なんとか誤魔化せるかもしれない。私は書類の束を処理しつつ、勅使河原に時刻共有サービスを使ってみる。

 ――イヤミな声だ。

「西村か、何の用だね?」

 ねの音の語尾が下がる。勅使河原がすごく苦手だ。

「勅使河原さん、すこし書類の提出期限を延ばして頂きたいのですが……」

「西村、注文が多いとは思わないかね?」

 私は、はい、はい、を繰り返すばかりだった。作戦失敗だ。

 今日の花火大会、どうしてそんなに行きたいかというと、相川君が花火の話をしていたからだ。相川君の意識の見ている夏は、こんなに暑くなくて、むしろ夕方は涼しいくらいで、海風が心地よかった。潮の香りが川沿いを漂い、どこからか映画館のポップコーンみたいな色のついた匂いがして、心が華やいだ。

 思い出のなかの夏だった。

 もう過去になっている時間がいつだって問いただしている。もう期限切れの思いがどうにもポケットの中で疼いて離れない。相川君はどうしてるだろう。相川君は松井のホームランアーチを見ているかもしれない。私は夜がものすごい速さで迫ってきていることに動揺している。あっという間に私の就業時間で、人の影も、オフィスには見えないだろう。

 もうなんだっていいや。

 私は時刻共有サービスで相川君に電話をかける。二回ベルが鳴ってから、マンホールの形が妙に丸いなと思って、その下の水の音が川沿いに続いていく。私はあの時間に近づいている。相川君が見上げる花火の空は私の見上げる空とまったく同じなのだろうか。相川君の声が聞こえた。

「原田?」

 相川君は走っているようで、息が荒い。電話の向こうでなにが始まっているのかが掴みにくい。相川君の時と、二十年後かの私の時が花火の打ち上がる音と重なる。

「あ……」

「あ……」

 ふたりで同じ反応をしておかしくなってしまう。

 相川君がふふって笑って、私もふふって笑った。花火の色までは電話口から伝わってこないけれど、私たちは思い出を分かち合った。相川君の意識は遠い銀河のさきにあることを知っている。知識で知っていることと分かっていることは違う。彼はいつもの相川君で私が知っている親友だった。相川君が意識を変えたら、もう彼の時間は遠い旅路の果てにある。相川君は野球を見ている彼では無くなって、私は仕事場で黙々と仕事を熟す機械みたいな生活に戻るだろう。

 打ち上がった花火の音が頭の中で何度も鳴っては消えていく。時刻共有サービスが限度時間いっぱいになった。

 私は二度目のさよならを言う。

 相川君、また会えるよね?

 そう思って、会うことなんてできないと知っている。私たちの時間は桜の木の下から始まって遠のいていく。春の季節が何度巡っても、アキレスと亀のように私たちは追い抜かれることのないレースを走っている。

 この距離をどうにだって私たちは克服できない。

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