第12話【箱】

 セラ・キールは純白のローブの裾をはためかせ、ふわりと、音どころか重ささえ無いかのように柔らかく着地した。


「御機嫌よう、アンマリア嬢。それとレギンさん――こうお呼びして問題ないでしょうか、魔術師殿?」

『【竜の骨】のセラ…………どうしてここに?』

「不思議なことを聞いてくるのですね、ここは陛下の城の地下ですよ? 詰まりは私の職場です」

『なるほど、ごもっともだ』


 このやり取りにアンマリアは、レギンの緊張を感じ取った。上位妖精の職場の真下だということさえ忘れるほど、セラ・キールの登場が予想外だったのだろうか。それとも、何か不穏なものでも感じたのだろうか?

 不穏――自分自身の内側から出てきたその言葉に、アンマリアは驚いた。驚いたけれどしかし、改めて考えてみるとこれほど今の状況に相応しい言葉は無かった。

 泥翅を追った先で泥翅の親とでもいうべき存在を見付け、その場所は妖精女王の城の真下で、さてどうしようかというときに現れた女王の片腕。彼女が現れた目的に何か、こちらを害する可能性を感じ取るのはけして、被害妄想と評されることは無いだろう。


 セラ・キールの降り立った位置は、【箱】を挟んで向こう側。単純にテーブルを挟んで食事をしているような距離感で、詰まり、何かあった時には心もとない距離ということだった。


「驚いたのはこちらの方です、お二人とも」


 こちらの緊張に気付いているのかいないのか、セラ・キールは端正な顔に礼儀正しい笑顔を浮かべた。落ち着いたその態度に、他人の運命を左右できるという強者の余裕を感じてしまうのは、穿った視点の発露に過ぎないのだろうか。


「どうしてここに? マスクを着けていらっしゃるレギンさんはともかく、獣人のアンマリア嬢には少々居心地が良くないと思うのですが」

「…………レギン様の魔術で、臭いを防いでいます」

「あぁ、なるほど。魔術。便利なものですね、しかし、そうまでしてこちらに?」

『それこそ不思議な質問ですね、ミス・キール。泥翅の対処を僕たちに依頼したのは、貴女の方でしょう?』

「泥翅…………あぁ、そういうことですか。お二人を襲っていた泥翅は、この下水道に逃げ込んだのですね? それを追ってきたと?」

『えぇ、その通りです』

 レギンは、わざとらしく感じるくらい飄々と、肩を竦めた。『最終的には、意外な結末を迎えた、と言わざるを得ませんが』


 レギンが示した先に視線を向けて、初めてセラ・キールは哀れな泥翅の存在に気が付いたようだった。

 血の気が引き、両手で口を覆いながら半歩よろめくように下がる様子は、どうにも演技とは思えなかった。本気で、心から泥翅に怯えているのだ。あれほど弱り、崩れかけてはいても結局、泥翅は妖精にとっての最悪な怪物なのである。


「…………動きは無いようですね、随分と弱っている…………これは、貴方の仕業ですか?」

『この個体に関しては違います。彼は雇い主の無茶な要求に従わされた労働者のごとく、何も成しえぬままに消え去ろうとしている』

「この場所は女王陛下の魔力で満たされています、それに、恐らくはお気付きになったでしょうけれど、その魔力が永遠に尽きないよう工夫されています。泥翅にとっては毒の霧の中にいるのと同じくらい、苦しいでしょうね」

 まだ肌は青ざめてはいるもの、幾分落ち着きを取り戻したセラ・キールは視線をレギンの方へ戻した。「…………失礼、今『この個体に関しては』と仰いました?」

『えぇ。彼は単なる残党ですよミス・キール、他の二体を討伐した僕たちに言わせればね』


 今度こそセラ・キールは声を上げて驚いた。

 彼女は、尊き方に仕える淑女らしく常に隙を見せない妖精だったけれど、流石に怪物を退治したと聞かされては――それも二体もだ――矜持にひびくらいは入るらしい。


「何てことでしょう、レギンさん、それにアンマリア嬢! 我々妖精の騎士団が総掛かりで当たるような相手ですよ、それを二体も!」

『一体は僕が、もう一体は彼女が倒しました』

 レギンは紳士的な態度で、アンマリアの功績を高く主張した。『鮮やかな蹴りと、僕の魔具を組み合わせてね』

「主に魔具の力が大きかったと思います、私の力というよりは」

「お二人の…………勇気、そう言うのですよね? 素晴らしい勇気があってこそです、何て、何て素晴らしい!」


 セラ・キールの瞳には明らかに、感動の炎が燃え盛っていた。上気した頬や興奮した様子からは、登場したときに感じた不穏な空気はどこにも見当たらない。

 単純に、思いもよらないところにアンマリアたちがいたことに対する警戒だったのだろう。少女は、そして恐らくはレギンも、安堵の息をこぼした。


『とはいえ今のところ、最後の一体への対処を持て余していましてね。彼がご執心のあの箱が僕の想像した通りのものだとしたら、あまり手荒な真似は出来ません』

「なるほど、そこまでお見通しなのですね。であれば別に、隠すこともありません。そうです、ここが泥翅の元祖、輝きの妖精が封印された場所なのです」

『やはりそうですか』

「その様子では、輝きの妖精の末路もご存じでしょうね? 私たちはこの箱を、【黄金を沈めた箱アルカ】と呼んでいます。女王陛下の魔力で完全な終了を迎えた彼は、しかし、魔力に還り新たな妖精として生まれ変わることを拒み、闇と影と呪いの塊として変容してしまったのです。消し去ることは出来ませんし、触れた妖精は泥翅になりました。漏れ出る魔力も同じような属性を持っていたので、陛下は自らの翅を二本犠牲に、彼を封印したのです」


 セラ・キールはその箱を、それから妖精神殿をぐるりと見回してから、誇らしげに微笑んだ。


「水路と神殿を作ったのは当時最高の職人妖精と、たまたま居合わせた魔女でした。彼女はレギンさんのように人形を操って呪いの塊を箱に入れて、封印に協力してくれたのです。神殿の設計図を頂いて暫くは、女王陛下は頭上の玉座からほとんど離れることは出来ませんでした。少しでも離れては封印が解けてしまうからです。ですが外から魔術師や獣人が来るようになり、街が生まれた頃に彼らは下水道を要求しました。陛下はその意見と、魔力を自動的に集める仕組みとの間に完璧な相互作用を見出して、これを作ったのです」

『実際見事な出来栄えでした』

 レギンは大きく同意した。『地下水路の作りも、後から思えば魔力をとめどなく流すために最適化した経路になっているのですね。魔法陣や【凍てつき山脈】の迷宮も、参考にされたのでは?』

「そうかもしれません。陛下はその魔女と随分長い間――妖精からしてもそう感じるくらいには長い間、色々なお話をされていましたから」

『やはり。とするとその魔女とは、まさか…………いや、だとしたら証拠は残っていないかもしれないな』

 アンマリアの怪訝そうな顔に気付いた魔術師は、軽く首を振った。『妖精にとっては昔話だろうが、僕たち魔術師にとっては伝説さ。そして伝説といえば、必ずと言っていいほど登場する魔女の名前があるんだ。最終的に彼女は何処かへと消えて、最も強き王の時代に舞い戻ると言われている。まあ、良くある御伽噺だが、彼女が絡んでいるのならここの完璧さも頷ける』


 なるほど、とアンマリアは納得した。

 妖精たちの時間に対する価値観がヒトのそれとはかなり異なっていることには、アンマリアも気が付いていた。そんな彼らが『長い間』と感じるのだから、百年や二百年、もしかしたら千年くらいは古い話なのだろう。千年前のヒトの世界なんて、下手をしたらまだ各地に神が居たかもしれないような頃である。伝説の魔女が妖精女王とお茶をしていても、おかしな話ではない。


「では、セラ様は封印の様子を確認に?」

「えぇ。何しろ泥翅が地上に現れたのですからね」

 セラ・キールは翅を鳴らしながら肩を竦めた。「一応ここの様子を見ておこうと思ったところなのです。城での通常の仕事を終えてから来たのですが、もう少し早く来たらお二人の活躍を拝見出来たでしょうね」

『それはどうでしょう、僕らが泥翅と出くわしたのは下水道の途中でしたから』

「なるほど。私一人では地下通路の暗闇に入ろうとは思わなかったでしょうね、ここを見回って異常が無いとみれば帰っていた筈です。そう考えると良いタイミングでした、お二人が慎重な対応をしてくださったことを含めてですが」

『勿論。偉大なる女王陛下の御足元で、狼のごとき蛮行を働くわけにはいきませんからね』

 ところで、とレギンは箱を見下ろした。『実際のところ、あの箱の強度はどのくらいなのでしょうか? 見たところ泥翅の行動は時間の無駄としか言いようのないものですが、放置しておくわけにもいかないでしょう』

「そうですね…………」


 セラ・キールも泥翅を見下ろし、それからその行動の影響を見定めるように目を細めた。

 アンマリアも二人に続いて箱を見詰める。ついでに耳を澄ましてみるけれど、箱の中からは何の音もしなかった。当たり前だ、箱に入っているのは遥か昔に妖精女王によって撃破された、妖精の死体だ。泥翅を生み出す能力があるらしいけれど、本体はもうすでに――、


「…………あれ?」


 ――すでに、死んでいるのなら。

 


「えっと、あの、レギン様?」

『どうした、アンマリア?』

 レギンは泥翅の様子を確認しながら、手持ちの触媒を確認している。『今、少々考え事をしていてね。急ぎでないのなら後にしてほしいんだが』

「あの…………」

『正直、妖精サイドに手段を期待していたんだがね。何しろここを管理してきたのは彼女たちだ、こうした事態が初めてとは考えにくい。個性的な、もしくは効果的な対処方法を持ち合わせているのが普通だ。勿論、妖精が相手だということをもう少し計算に含めるべきだったとは思っているとも』

「返す言葉もありません、レギンさん」

 おろおろと言い淀むアンマリアを他所に、セラ・キールまでもが会話に入ってきた。「ですが実際、泥翅はこれまでこの場所で発生していないのです。何しろこんなところにまで、妖精たちは入ってきませんから」

『ですが、泥翅になる素、呪いは出ているのでしょう?』

「漏れ出る魔力そのものは、神殿に満ちた陛下の魔力に抑えられています。そして例外があった場合、例えば排出される水に染み込むなどですが、その場合も神殿内部で何かが起こることは無いのです」

『外でなら対処も容易というわけですか。それは確かに、その通りですが…………』


 二人の会話に置いて行かれて、アンマリアはため息を吐いた。

 そして吐き終えた時点では、もしかしたらこれは大したことではないのかもしれない、と思い始めていた。何しろここにいるのは、魔術師宅に勤めていた元使用人の小娘を除けば歴戦の魔術師と妖精女王の片腕、専門家なのである。アンマリアが知っていることは二人とも知っているし、アンマリアが思いつくことなら当然思いついている筈だ。

 アンマリアは、教養のある王国淑女ならば誰でもそうだろうけれど、大衆小説を嗜む。中でも、身分違いの恋だとか悲恋だとかよりは、謎を解いたり分析したりする物語が好きだった。多くの淑女が小説のような恋に憧れている間に、彼女は、颯爽と謎を解き犯人を追い詰める探偵役に憧れていた。架空の王子様のプロポーズ方法に歓声を上げるように、謎解きの要となる気付きを素人の発言から得る場面に興奮したものだった。


 けれど、こうして実際に魔術師と話したり、事件の解決に立ち会ったりした経験から、アンマリアには解っていた。そんなことはあり得ないと。


 門外漢がパッと見ただけで気付くようなことくらい、専門家はとっくに気が付いている。気が付いていないように見えたとしたらそれは、今ここで考える意味が無いというだけのことなのだ。

 見落としなんてあり得ない。

 レギンはきっと肩を竦めてこう言うのだ――そのくらい解っているさ、アンマリア。それとも、今さら気が付いたのか、とか?


 そう、きっとそうだ。

 だから焦って言う必要も無いだろう。なんてことくらい。


『…………やはり、針か』


 どうやら結論が出たらしく、レギンの言葉にセラ・キールも頷いている。


『魔力を針状にして突き刺すことにした』

 ぼんやりとしているアンマリアを気にしたのか、レギンは丁寧に説明を始めた。『光の魔力ならば、貫通しても箱に被害は及ばないだろうからね。何しろ箱は女王陛下の翅から出来ているらしい。形は変わってしまっても、持ち主の魔力なら容易く受け入れるだろう』

「素晴らしい考えだと思います、レギン様。ある程度の早さなら、泥翅にも通じるでしょうし…………」

『…………君もそう思ったか、どうして?』

「え? それはそうでしょう」

 アンマリアは首を傾げた。「光だけなら耐えられる筈の泥翅が、香炉の爆発で吹き飛んだからです」


 爆発は、要するに瞬間的な体積の増加だ。

 香炉の場合は光の魔力が瞬間的に広がったことで爆発みたいになったのだけれど、それで泥翅の頭部が吹き飛ぶということは、彼はその時の魔力を吸収できなかったということ。そして泥翅は原始的な本能しか持っていないのだから、魔力を吸収する習性を都合よく発動させるさせないを切り替えたりはしない筈。


「それならば単純に、彼らの魔力喰いはある程度段階的に起こるということでしょう。空気に漂う魔力ならばその速度で吸っていても直ぐにゼロになりますが、爆発のように瞬間的に発生した大量の魔力は吸いきれないと考えられます。だから、固めた魔力を素早く打ち込めば、泥翅にはなす術もないだろう、と思ったのですけれど…………え、違いましたか?」

『…………いや。違わない。僕の考えと一緒だ、アンマリア』

 レギンは、彼が何かを考える時特有の低い無感情な声を出していた。『見事だ、本当に。だがそれは、まるで…………だ』

「レギン様、早く対処をしましょう!」

 だが、しかし…………ぶつぶつと、思考の部屋に閉じこもりかけたレギンにアンマリアは慌てて声を掛けた。「早くしないと、中の妖精が起きてしまうかもしれません!」

『…………ん?』

「え?」

「アンマリア嬢、どうか落ち着いて」

 不審そうなレギン、それから、あやすような優しさでセラ・キールが声を掛けてくる。「大丈夫ですよ。輝きの妖精はもう、とっくに…………」

『いや、待て。まさか…………そうか、そうなのか?』

 レギンの声が徐々に大きくなる、驚きと興奮、それから…………痛恨。『くそっ、そうだ、なぜ気付かなかった?』

?」


 今度はアンマリアが驚く番だった。

 気付かなかった? まさか、二人とも?


『さっさと泥翅を始末する必要が出てきたな。ミス・キール、貴女は陛下に連絡を…………』


 がこん、というその音は、兎人であるアンマリアでなくとも聞こえるくらいに大きな音だった。

 その意味は、音以上に大きかった。


 水路が注がれる箱の角。そこが、割れていた。

 泥翅の自己犠牲がついに報われたのだ。そして――そこから闇が一滴、ぽたりと

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