第9話アンマリアの試練

 強がりを言うわけではないけれど、泥翅の登場の仕方はひどく意外なものだった。少なくともレギンからしてみれば、失敗とさえ思えた。何しろ、アンマリアたちが何より恐れていたのは奇襲による不意の一撃、だというのにこの怪物は、ただ真正面から突撃してきたのだ。酷評もやむなしというものだろう。


 とはいえ、不意打ちは不意打ちだ。


 いっそ背後から忍び寄られる方が、この悪夢じみた姿を見なくて済む分いくらかマシだとさえアンマリアは思った。顔を見なければ、兎人の脚力を存分に使って、ただ蹴り上げるだけでいいのだから。

 だがあいにく、敵は正面から襲ってきた。

 なるほど怪物らしい仕草だとも言えるだろう、自らの領域に侵入してきた者に対して真っ向から対決するつもりなのだとしたらだが。或いはこちらが妖精ではないと判別して、小細工などなくても踏み潰せると考えたのかもしれなかった。


「…………あ」


 …………実際、泥翅の選択はどう考えても愚行だった。けれども、アンマリアに対してのみ、それは極めて有効な選択となった。


「あ、あ、あぁ…………」

『アンマリア?!』


 レギンの声が遠く、ひたすらに遠く感じるほど、アンマリアの意識は怪物の姿に釘付けられていた。見れば見るほど、泥翅の姿は兎人の少女にとって最悪の記憶と重なっていたのだ。

 影がそのまま魂を得たような、厚みの無いのっぺりとした漆黒の身体も、支えを求めるように突き出されている枯れ枝じみた細い両腕も、見詰めていると果てしなく落ちていきそうな眼窩も、何もかもが幼かったあの日、母様ににじり寄る死の影そのものだった。


 怪物。怪物。怪物。


 自分の呼吸がどこか遠くから聞こえている。

 心臓の鼓動が頭の中で鳴り響き、ごうごうと唸りを上げて血が、血管ではなく喉の奥を流れていく。肺が息で満たされて、膨らまないし萎まない。

 身体の感覚がでたらめに暴れまわっているように、アンマリアには思えた。恐怖。目に映る現実の恐怖と心に刻まれた記憶の恐怖とがない交ぜになって、アンマリアの精神を深く重く閉じ込めようとしている。


 相手の片方が手強く、もう一方がそうでもないことに気が付いたのか。

 泥翅の顔が傾き、アンマリアの方をぎょろりと、視た。


『アンマリア、アンマリア!!』


 虚無の視線が少女の身体を縫い留める。


 泥翅は完全に目標を切り替えたようだった。

 レギンを押し退けるように両腕を振り回しながら、アンマリアの方へと突進していく。狩る――獲物を前にした捕食者の本能だろう、短い、だが断固とした意志を込めて、泥翅は大きく吠えた。


「―――――――ッ!!」

『グッ…………!』


 その声は、ヒト世界に存在するあらゆる動物の鳴き声とは全く違っていた。


 どちらかといえば、洞窟を吹き抜ける風の音に近い。自然に存在する意思の無い金切り音でありながら、世界中の『憎しみ』と訳される言葉を全て同時に叫んでいるような、矛盾する性質を併せ持った絶対的な呪いの咆哮。

 聞く者すべてに呪詛を叩きつける、対生命の一撃。

 魔術師として精神を守る鍛錬を積んだレギンでさえ怯み、集中を乱されてしまうような声だ。ただでさえ怯えているアンマリアには致命的だろう、レギンは悲劇を予想しながら、歯を食いしばって少女の方を見た。


 レギンが見たのは彼が予測した通り、茫然としているアンマリアの姿だった。眼鏡の奥の瞳は信じられないものを見た、とでも言うように大きく見開かれ、口は閉じる力を失ったかのように開かれたままだ。

 普段の彼女が大切にしている王国淑女の慎み深さというやつが、そのまま何処かへ消えてしまったかのような状態。恥じらいはおろか、目前に迫った危険を知覚している様子も無い。


 あぁ、とレギンは内心絶望の声を上げていただろう――せめて彼女に持たせた魔具を使ってくれれば。既に香炉の周囲にたなびく魔力の白煙は消えて、造られた目的を果たすべく待ち構えているというのに。あとはただ、香炉を相手に投げつけるだけで良いのだが、姿に精神を傷つけられ咆哮で止めを刺されたアンマリアには、そんなことは出来もしないだろう、歴戦の魔術師はそんな風に考えているに違いなかった。


 泥翅も同じ考えだったのだろう、無警戒に前進し、アンマリアに掴みかかろうと突撃していく。あの手が触れれば終わりだ、呪いで魔力は蝕まれ、身を守る術も無いまま哀れな兎人の少女はその首を捻り折られるだろう。

 それは実際、手堅い賭けになる筈だった。泥翅があくまでも怪物らしく、悪夢のように無言で少女に襲い掛かっていれば、アンマリアは過去の恐怖の揺り戻しに晒されたまま無抵抗に、その命を散らしていた。


 だが――


 咆哮がどんな意図で発せられたにしろ、それはこの泥翅の生涯で最大の過ちとなった。みすみす勝利を逃したのだ、彼はただ怪物らしくあればそれだけで良かったのに、呪詛を込めて声を上げてしまった。

 アンマリアは最悪の記憶を持つせいで、怪物という存在に深い恐怖を持ってしまった。死の影を目の当たりにした結果、多くのものが曖昧なまま浅く広い恐怖を感じる怪物という概念に、確固とした形を与えてしまったのだ。

 彼女の、怪物に対する恐怖は。母様の命を奪った死の影を恐れるあまり、怪物と死の影との間に完全な同一性を見出している。


 【怪物】イコール【死の影】。

 詰まり――。そんな、常人からすれば狂気の法則でしかない法則に、アンマリアは縛られている。


 そして死の影は無言だった。

 あらゆる抵抗を無視し、あらゆる交渉を無視し、あらゆる懇願を無視した。

 意思の疎通など不可能。最後の最後まで死の影からは、殺意を含んだ一切の意思というものをアンマリアは感じなかった。


 そして泥翅は吠えた。

 交渉は通じないだろう、懇願も聞き届けないだろう、だがレギンの抵抗は煩わしそうにしている。

 意思を感じた、強い呪い、怒り、憎しみ、殺意をアンマリアは感じ取った。


 そして、アンマリアは理解した。

 


 なら――何を恐れる必要がある?


「―――、?」

『…………え?』


 戸惑いの声は、同時。

 泥翅は確実に捉えた筈の獲物の姿が掻き消えたことへの困惑で。

 そしてレギンは、


 悲鳴はどちらからも、上がらなかった。そしてアンマリアは、泥翅の失敗から学んだように無言で、その頭を思いきり踏みつけた。


「?!?!?!」


 相変わらず記号化できない、けれども間違いなく悲鳴だと解る音が、泥翅の口から発せられた。アンマリアは踏みつけに充分な体重ではないけれど、ただ落ちるのではなく一旦天井に着地してからそこを蹴って加速するという、より効果的な方法で泥翅の頭部にブーツの底を叩きつけていた。


「…………チッ」


 アンマリアは舌打ちした。

 頑丈さが売りの熊人でさえ首の骨を折りそうな衝撃だった筈だけれど、相手は腐っても――文字通りの意味だ――妖精界の怪物。よろけながら数歩後退しただけで、まだまだ余力を残しているようだった。


『アンマリア、香炉を!』

 怪物の移動の余波だろう、上手く魔術を編めないらしいレギンが大声で呼びかける。『目でも口でも良い、そいつの中に放り込め!』

「え、あ、はいっ!」


 貴重な魔具なのではないか、怪物に対抗する魔術が組み込まれているのではなかったのか。

 幾つかの疑問が一瞬生まれたけれど、発言者は香炉を造り出した本人である。彼がそうしろと言うのなら、それが正しいのだろう。


 ふわりと音も無く着地するとそのまま、地面を蹴って泥翅との距離を詰めていく。床も壁も天井さえも、少女くらいの脚力を持っていれば全く違いが無い。

 正しく縦横無尽、一蹴りごとに位置を変える兎人の突進を止められる者など、王様の兵隊にだって居やしないだろう。そして泥翅は、奇襲こそ素早いもののそれ以外は鈍重で原始的な怪物だ。迎え撃つどころか、目で追うことさえ出来ていない。


 アンマリアは余裕をもって泥翅の間合いに踏み込むと、苦し紛れで振るった腕をかわす。お返しとばかりに怪物の腰辺りをしたたかに蹴り据えた。

 それが実際に腰だったかどうかはさておくとしても、身体の中央付近を兎人に蹴られた大半の相手と同じ反応を泥翅は示した。即ち、悶えながら身体を折り曲げて、昨日食べた物を吐き出すために地面を見ながら口を開けたのだ。


 アンマリアが、そしてレギンが望んだ体勢だった。そして、昨夜ディナーを楽しんだかどうか解らない怪物が顔を上げるより早く、少女はその口に香炉を押し込んだ。


「入れました!」

『離れろっ!!』


 それ以上の言葉は必要無かった。押し込める直前の一瞬だったけれど、アンマリアは確かに、香炉の中で光球が異常な加速で回転しているのを見たのだ。

 加えて、眼鏡の補正が無ければ碌に見えない眼よりも頼りにしている彼女の鼻は、香炉の中で幾つもの魔力の匂いが複雑に絡み合うのを嗅ぎ取っていた――その絡み合いが白熱し、いよいよ終幕フィナーレを迎えようとしているということも。


 アンマリアは全力で飛び退いて、それから自分の判断で目を閉じ耳を塞いだ。


 次の瞬間、


「っ、うあぁ…………」


 予想通り、香炉は泥翅の体内で爆発した。暴走した魔力の塊が炸裂し、激しい光とそれから音を放ったのだ。

 予想と違ったのは、香炉は怪物の身体の中心というよりそこに至る前、口の中で爆発してしまったこと。結果、泥翅の肉体で防がれる筈だった閃光と爆音は、怪物の頭部を巻き添えにしつつも周囲に溢れ出た。そして怪物に最も近く、また聴覚が最も優れているのはアンマリアだったわけで。


 耳の奥が痺れるような感覚が抜けない。

 耳を塞いだのは我ながら、素晴らしい判断だったとアンマリアは思うことにした。完璧な対応ではなかったけれど、少なくとも最善の対応ではあったのだから。


『…………こえるか、聞こえているか、アンマリア?』

「る、ら、えっと…………レギン様、えぇ、何とか」

 爆発で生じた魔力を吸収し回復に回しながら、アンマリアは何度か口を開け閉めして調子を整えた。「爆発するとは聞いていませんでした」

『もう少し安全に使える筈だったんだ。周囲の雲が泥翅の魔力喰いによって消滅すると内部魔力の安定性が崩れ、周囲に閃光をまき散らす。ただその際、衝撃が発生することを忘れてたな。あれだけの音は正直、想定外だよ』

「爆発が想定外です。あのまま私が持ったままだったら、どうなっていたと思いますか?」

『君なら乗り越えると信じていたよ。制限時間については、僕らの人生にはつきものだと思ってもらうしかないな』

「………………」

『さて、泥翅の方はどうかな? 僕の想定では影が全て消し飛ぶ筈だったが、思ったよりも小食だったな』

「頭部が吹っ飛んだように見えます、充分に致命傷なのでは?」


 アンマリアの言葉にレギンは、聞く者を不快にさせる技術のお手本のように、マスク越しでも聞こえるくらい鼻を鳴らして肩を竦めた。


『頭部や胸元を抉った程度で油断しないこと、怪物退治の基本だよ。まして奴は影に溶け込むようにして移動できる。肉体のどこに重要な器官を隠しているか、わかったものじゃあない。僕らと同じように心臓が一つしか無いという保証なんて、どこにもないんだぜ?』

「そうですか、それでは怪物退治専門家の目からみて、こちらの泥翅の一見死体としか見えない怪物のお姿は、どういう評価をなされます?」

『君たち素人が諸手を挙げて喜ぶような結果だよ、詰まり、間違いなく死んでいるということだが。僕としては、警戒は無駄ではないと何度でも言いたいがね、少なくとも今回は必要なかったようだ』


 肩を竦めるレギンは、復活した周囲の魔力を使って泥翅に火をつけた。

 青く燃える炎はすぐさま怪物の肉体を覆い隠すほど大きく燃え上がったけれど、アンマリアは熱波を感じることは無かった。恐らくは死者だけを燃やす魔術の炎だろう、季節の変わり目の魔力が多く飛んでいる日などに、墓地で似たような炎が燃えているのを何度か見たことがあった。

 母様も同じ炎で焼かれたのだろうか。アンマリアは少し記憶を遡ってみたけれど、強いショックを受けた前後の記憶は混乱しやすい、という当たり前な法則を再確認するだけに終わった。


『行くぞ、先ずは一匹。だが、まだ一匹だ。向こうから来たのだから、僕らは向こうに行く必要がある。幸い僕のゴーレムは使わずに済んだし、まだ余力はあるというものだ――君はどうかな、アンマリア?』

「勿論お供いたしますとも。足元で蠢く怪物を野放しにはできません、私の家にも、下水道とつながる道はあるのですからね」









 泥翅が来た方向へ、アンマリアたちは歩を進めた。

 城下町の全てを網羅する下水道は当然のように入り組んでいて、曲がり角の度にレギンは魔力を込めた石を幾つか放り、道を決めていた。その間もゴーレムと海月の明かりを維持しているせいで、彼の集中力というか精神力がどんどん失われていくのを、アンマリアは感じていた。


 とはいえ、代わるわけにもいかない。

 獣人は魔術を使ってはならないのだ――ポー氏はいつも言っていた。魔力の操作をヒトより遥かに簡単に、高水準で行うことの出来る獣人が魔術を使ってしまうとあまりにも強力なのだと。『はみ出るものは排除されるのだ、アンマリア。正しさの問題ではない、箱に収まりきらぬものは切り取られるだけなのだ』、そんな風に言っていた。彼がその法則にどんな思いを抱いていたのかは、知らないけれど。


 何度目かの曲がり角で、レギンは石を投げながら口を開いた。転がった石の行方と道筋から何か霊的なメッセージを受け取ろうというように、視線はそちらに向いたままだったけれど。


『しかし実際、君が動いてくれて助かったよアンマリア。泥翅を見た瞬間の君の目つきと言ったら、戦場で初めて会敵した新兵のようだった。残念だが今夜のディナーに君の席は無いのだろうな、と覚悟させるような顔だったよ』

「…………私も実際、もう駄目だと思いました。怪物が吠えるまでは」

『そこが意外なところだ。僕はあの咆哮こそ、君の精神にとって止めの一撃になるだろうと思ったんだが』

「時には心臓を強く殴ることが、蘇生のきっかけになります」

 会話が彼の邪魔にならないか不安だったけれど、話す方が気晴らしになるのかもしれないと思い直して、アンマリアは答えた。「私にとってはあの咆哮こそ、きっかけでした。あの瞬間、私の記憶から私を攻撃していた怪物は、死の影と大きく離れていったのです。詰まりもう、恐れる理由はありませんでした」

『ふうん?』

「私が死ぬほど――或いはそれ以上に恐れているのは、ただ死の影だけです。彼は唯一の怪物です。そしてあの瞬間私は理解しました、泥翅は、死の影ではないと」

『変わった理屈だな、だが、まあ結果は最高だったよ…………君のブーツは大丈夫だったか? 妖精にとっては泥翅に触れることも禁忌タブーなようだったが』


 言われて、アンマリアは自分のブーツを検分した。多少汚れはあるけれどそれは、この不愉快な環境によるものだ。臭いについては一旦考えないことにしている。そしてそれ以外には、変わった様子は無かった。


『やはりな』

「…………?」

『妖精への呪いは、妖精呪いだということだ。少なくとも呪いの影響はないらしい。良い情報だ、詰まり僕らは、あの怪物の爪や腕力にだけ注意すれば何とかなりそうだぞ?』

「詰まり、私が蹴れば良いのですね」

『淑女らしからぬ、と言いたいところだが、それどころでもないからな。頼りにさせてもらうよ、お嬢さん。僕は、道案内で役に立とう――もうすぐだぞ、アンマリア』


 アンマリアも、気が付いていた。

 自分たちは今まで一度も、行き止まりに当たっていない。詰まり下水道の終点、中心に向かっているのだということに。


 そこはちょうど、【白金の城】の真下に当たる。まさに女王の御膝下こそが、彼女を呪う泥翅が潜む場所なのだろう。それを偶然の皮肉とみるか、或いは――誰かの強い意図を、アンマリアは感じざるを得なかった。

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