第2話魔術師の茶会

 キッチンから応接間へと戻り、十数分前の床と現在の状況とを見比べて、アンマリアは小さく頷いた。

 文句無しの合格、とまではいかないけれど少なくとも絨毯の柄を確認することはできている。勿論、ここがアンマリアのかつての勤め先で、チェックしたのがあのエミリー女史であったなら間違いなく不合格だろうし、鞭の何打かは覚悟する必要があっただろう。けれどもここは『偉大なる』ポー氏の応接間ではないし、チェックしているのはただの兎人の少女だ。


「お見事ですね、やればできるじゃあないですか、レギン様」

「専門家にそう言われると、皮肉にしか聞こえないな」


 そう言いながらも、レギンの口元はまんざらでもなさそうに緩んでいる。いつもは年齢以上に成熟した振る舞いを見せる魔術師だけれど、どうやら部屋の片づけを誉められるのには、そんなに慣れてはいないのかもしれない。


「いえいえ、見違えるようですよ」


 心に浮かんだ感想に多少アレンジを加えた返事を、アンマリアは選択した。魔術師という、気難しさの化身みたいな存在を相手にするときにはこうして、ちょっとやり過ぎかもしれないと思うくらいに甘く味付けするのが、円満な関係の秘訣だと少女はその短い人生経験から悟っていた。

 とはいっても、実際それほど大袈裟な世辞というわけでもない――ポー氏は掃除どころか、ごみが落ちていても拾ったりしなかった。掃除担当の使用人がいたのもあるけれど、単純に気が付いていないようだった。魔術師は自分の魔術をより高みへと導くことだけを考えていて、それがあまりにも難しいせいだろう、日常生活に向けられるほどの余裕が存在しないのだ。レギンもまた、少し前の部屋の様子を『効率的な配置』だと評していたくらいだけど、アンマリアの一言だけで片づけてくれたのは充分以上に評価できる。


「まあ、環境の違いかもしれないな」


 紅茶――あの葉っぱが申告通り茶葉だとするなら、だけれど――を載せたトレーは無事、テーブルの上に着地した。

 まずレギン、それから自分の分の紅茶を注ぐ。


 カップを受け取り、深みのある紅色の水面を覗き込むと、魔術師は指を鳴らした。一瞬ピシッと軋むような音がしたかと思うと、立ち上る湯気が鮮やかな虹色に染まり始めた。


「見ての通り、ここでは紅茶にさえ魔力が含まれている。まあ、茶葉を育てる水も地面も、妖精を生み出すほど魔力に満ちているから当たり前だが…………」

「魔術師にとっては理想的な環境というわけですよね」

 常日頃、魔力の薄さを嘆いていた元ご主人を思い出しながら、アンマリアはカップに口をつける。「これだけ世界に魔力が満ちていたら、何でも出来るんじゃないですか?」

「そうでもない。いや勿論、ただ魔術を極めたいだけの連中にとっては理想的な環境かもしれないが…………そうだな、無限に紙とインクが提供されると考えてくれ。どう思う?」

「え、そうですね…………まあ便利なのではないですか?」

「そうだな。文章を書くにしろ絵を描くにしろ或いはチリ紙にするにしろ、消費する分には実に便利だろう。小説家なら幾らでも物を書けると喜ぶかもしれない。だがそれは、『使ったら使った分だけ補充される』無限の場合だけだ。飲めば飲むだけ湧いてくるワイングラスなんかが、この類だな。だが、妖精界はそうじゃあない。ここの無限はな、『使』タイプなんだよ」


 アンマリアは手元のカップを覗いた。

 この紅茶が例えば永遠に湧き続けるとしたら。飲まなくてはあっという間にカップから溢れて、床は水浸しになり、それでも止まらずやがて世界中が紅茶に飲み込まれてしまうだろう。


 身震いしたアンマリアに、レギンは小さく頷いた。


「そういうことだ。使っても使っても紙は生まれるし、インク壺は溢れていく。普通のヒトはそれを使うことが出来ないから論外だが、例え小説家であっても使いきれる筈はない――腱鞘炎になるかアイデアが枯渇するかのどちらかだ。わかるか? 魔力を消費できる魔術師だって、無限に魔力があり続けたらやがて破裂してしまう」

 消化できなかった魔力はヒトの身体にとって毒なんだ、と魔術師はしかめ面を浮かべる。「君たち獣人は魔力を身体能力に変換できる、詰まり、生きているだけで魔力を消費することが出来るわけだ。妖精は論外だな、あいつらは逆に魔力が無ければ生きていけないわけだし。その点魔術師は、結局ただのヒトだからな。消化しきれない魔力に晒され続けたら、すぐに潰れる」

「なるほど…………」

「勿論どうにかする手はあるが…………僕はその手を打ちたくないからな。小細工で対応している」


 こんな風に、と袖口から半透明の結晶片を幾つか取り出して、レギンは紅茶に入れる。スプーンでかき混ぜると七色の湯気は徐々に薄くなり、やがて普通の白煙に変わった。


。適当な魔術を発動させて飲食物から魔力を消費して、取り込む量を減らしているんだ」

「楽園というわけではないのですね」

 アンマリアは朝方見かけた影を思い出して、ため息を吐いた。「ろくでもない影もうろついていますし」

「死の影、だったか。聞いたことが無いが…………どういったものなんだ?」

「母から聞いたのです、死が近い者の下へと黒い影が忍び寄ってきて、それに触れられる時寿命が終わると言われてるんだとか」

「死神のようなものか、それとも亡霊か? 王国の北には黒い犬の伝説があったが、それは吠えられると死ぬというやつでね。吠えられる相手が健康だろうが病人だろうが関係なく、呪いを与える存在だったが…………ふむ」

 無意味に紅茶をかき混ぜながら、レギンは尋ねた。「君まさか、余計な事件に巻き込まれているわけじゃあないだろうな?」

「いえ、そんなことはありませんけど…………」

「本当だろうな、『燃え盛る貴婦人レディ・スカーレット』事件のことは記憶に新しいぞ?」


 アンマリアはため息を吐いた。

 あれはまだほんの一年前。妖精界に来て直ぐに巻き込まれた、ろくでもない魔術師の起こしたろくでもない事件のことはさすがに、アンマリアもまだ覚えている。そこでこの青年魔術師がどれだけ活躍したのかも。

 兎人の少女が事件において多少なり貢献したとすれば、レギンは多大なる貢献をしたと言えるだろう――その碧眼に映った物はアンマリアと同じはずだったけれど、彼はそこから魔術師の手段とその対抗策を導き出していたのだから。


「ただ妙な影を見たというだけです、事件に関係なんてありませんよ。見間違えかもしれませんし、単純に魔術師が何かしてただけかも」

「ならいいんだが…………ふむ…………死の影か…………」

「何がそれほど気になるのですか? こう言っては何ですけれど、どこにでもある言い伝えでしょう?」

「まあヒト世界ならそうだが、ここでは違う。何しろここは妖精界だからな」

「妖精界だからあり得るんじゃないですか? 魔力は毒かもしれないけれど、燃料でもあるわけでしょう? 奇妙な魔術とか幻想生物の召喚とか、下手をしたら幻霊の創造だって出来るでしょうから」

「だから、妙なことに巻き込まれていないかと聞いたんだ。魔術師が何かしているなら、それもわざわざそんな不気味な存在を生み出すような輩なら、事件再びと思った方が良いだろ?」

「自然発生した何かでは? 色々な妖精が居ますし、もしかして、影の妖精とかかもしれないじゃないですか」


 断言したレギンに、アンマリアは眉を寄せた。

 何でもありなのが妖精界だ、奇妙な出来事であればあるほど起こりえる。ヒトの文化を好む妖精たちのことだから、幽霊話を聞きつけて再現したりするのはありそうな話だけれど。


 それに、影。


 妖精はヒト世界に存在する物の対として発生する。花の妖精、石の妖精、風の妖精までいるのだから、影の妖精だっていてもおかしくないはず。

 そう言うと、レギンは首を振った。


「先ず一つ。妖精が『死をもたらす者』を再現することはない――理解できないんだ、何しろ妖精は死なないからな」

「え、妖精って死なないんですか?」

「少なくとも僕らの思う死は基本的には存在しない。寿命のようなものはあるが、そこで終わりではなく、ある妖精の寿命が尽きると魔力に分解されて、新たに同種の妖精が生み出されるんだ。それを死といえばそうなんだが、結局総体として妖精は寿命で数を減らすことが無いし、個人としての感覚は比較的薄い――記憶も多少引き継ぐらしいし、そもそも妖精はその日その日を楽しむばかりだからな。寿命を忌避するという感覚が無いんだ。無いから、創れない」

 そして、とレギンは指を二本立てた。「基本的には、と言ったからには基本じゃあないことも勿論、ある。それが、影だ」


 レギンがスプーンを持ち上げる。

 一言何か呪文を呟くと、スプーンで掬われた紅茶がふわりと浮かび、粘土のように形を変えていった。それは二度ほどのやり直しを経て、小さな妖精の姿を完成させていった。


「妖精は基本的に浮かんでいる。地面に足を着けたくないんだ。それが何故かというと、地面に触れるということは影に触れるということだからだ」


 スプーンの上で紅茶の妖精はふわふわと浮かんでいる。

 ほほえましい様子だが、確かに思い返してみれば、妖精が地に足を着けているのを見たことは無かった。


「『影に捕まる』というらしい」

 レギンはスプーンを動かして、妖精に近づけていく。「妖精は羽に影が触れると、影に飲み込まれてしまうんだ」


 こんな風に、とスプーンが妖精に触れると、紅色の妖精は小さな悲鳴を上げた。その悲鳴が消えるより早く輪郭を失い、次の瞬間にはただの紅茶に戻っていた。

 カップに落ちるぱしゃん、という音を聞きながら、アンマリアは口を開いた。


「影に飲まれると、妖精は死ぬんですか?」

「というか、変質するらしい。個性も記憶も意思も失って、たださ迷うだけの存在になるんだとか。当然それに触れられると他の妖精も同じく影に飲み込まれてしまうし、例え追い払ったとしても、新たに生まれなおすことは出来ない。魔力が汚染されてしまうからね」

「だから、影の妖精は存在しないというわけですね」

「正確には、もうそれは妖精じゃあないということだが」

 あ、とアンマリアは手を叩いた。「じゃあ、さっきの影は死の影じゃあなくて、影に捕まった妖精なのでは?」

「それも無い。いや、あってはならない、というべきか。君、飽きっぽい妖精たちがどうして住処を変えないのか、不思議に思わなかったか? 街づくりに嵌る前から、彼らは旅に出たりはするもののここで、妖精女王の傍を基本的には離れなかった。それはどうしてだと思う?」

「えっと…………」

 レギンは、ついさっきまで妖精だった紅茶を躊躇なく口に運んだ。「女王は妖精たちを安心させた、守っているんだ。この【白金の城】周りにおいて、妖精を蝕む影の魔力は存在しない。女王が弾いているんだ」


 我が事を顧みて、アンマリアは納得した。

 自分がヒト世界の中でも不快な魔術師の家に居続けたのは、そこで生まれたからでもあるけれど、何より安心があったからだ。そしてそれを与えてくれる母様が居なくなった時点で、アンマリアは妖精界、詰まり母の故郷に渡ることを決めていた。


「まとめよう」

 レギンは教師のように宣言する。「君の言う死の影が見間違いならば良し。そうでないのなら…………」

「問題ですね」

「いいや、。さっきも言ったが、妖精たちが気ままにその辺をさまよい適当に無軌道な無法をし続けない理由はただ、女王の傍なら影が襲ってこず安全だから、だ。それが崩れたのなら、妖精たちは容易く暴走する」


 紅茶を飲み終えると、レギンは立ち上がった。

 杖を振るってカップをキッチンに飛ばすと、代わりにクローゼットから紺色のコートを引き寄せる。それからマフラー、手袋、それから羽根つきの山高帽子を呼び寄せると、見えない使用人たちが魔術師の身支度を整えていく。

 外出するつもりなのか、アンマリアが不思議そうに見ていると、レギンは諦めに近い苦笑を浮かべた。


「その影とやら、さっさと調べよう。僕らは牛の群れの中心にいるんだ、暴走してもらいたくはないからね」


 アンマリアは頷いた。

 何でも出来る妖精たちが身近で、好き勝手に暴れまわるのを想像するくらいに想像力のある者ならば、誰だってそうするだろう。枷の外れた妖精ほど危険なものはないのだから。

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