第18話 五日目② ~仕事・刺青~


 医務室への順番待ちの列の中で私は目覚めた。

 持病に糖尿病のある標的ターゲットは毎日、夕食後ぐにインスリン注射を受けている。


 本来私の仕事は夜の間に為されるべきものだ。昼の間は人との接触が必至で、まさか憑依と勘づく者なぞはいないだろうにしても、違和感を与えてしまうのは避けられない。詰まらぬことから警戒心を持たれては想定外の不都合が出来しゅったいするかも知れぬ。

 それを今回夕食を抜いてまで早めに仕事を始めたのは、インスリン注射に細工するためだ。


 この時間帯、医務室は様々な治療を受ける囚人たちでごった返して、医師も看護師も多忙を極める。まさに猫の手も借りたい彼らの目には囚人でさえも労働力に映ることもあるのだ。やたら騒ぎ立てる荒くれ者を大人しくさせたり、隙あらば順番を破ろうとする身勝手な者どもの交通整理は力ある囚人にまかせている。

 インスリン注射も囚人の手をることの可能な作業だ。慣れれば患者自身でも打つことのできるインスリン注射は、此処でも従順な囚人には自分で処置させているらしい。標的ターゲットの男は、その従順な囚人の一人である。


 事前の情報通り、看護師は無造作に私に注射針を渡した。ところが受け取ろうとした私はうっかりそれを落として、あまつさえ踏んで折ってしまった。

 不機嫌に顔をしかめる看護師――私は彼女を制して、勝手知ったるものと自分で戸棚から新たなインスリンを取り出した。彼女はふんと鼻を鳴らして別の患者へ向き直った……。

 そうして私はまんまと、規定量の十倍のインスリンを注射したのだった。後は意識を保つよう努めながら独房へと戻る。

 部屋の扉を閉めた途端に気が遠くなった。このままたすけを呼ばなければ今夜の内に、この躯は低血糖のために死に至るだろう。


 心残りと云えばあの看護師に罪の意識を与えはしないか心配だが、本来やはり囚人自身に薬なり注射針なりを戸棚から取らせては不可いけなかったのだ。これを機に彼女の医療ミスへの意識が改善されるのであれば、罪深き此の男も一命を以て浮世に最後の貢献を為したと云えそうだ。



  * * *



 私が自分の躯に戻って来たのは、もう日付が変わる直前だった。

 車の中で待ち草臥くたびれたクリスティナさんは、早くご飯にしようと云った。真夜中に開いている店があるのか疑問だったが、彼女は心配御無用という表情かおで笑って云った。

「また肉ですけどね」


 ブラジル人は肉がお好きなようだ。宜しい、受けて立とう。



 深夜、日付も変わった頃に連れていかれたのは庶民的なコステラオン。此処は二十四時間営業なのだと云う。

 コステラオンとはコステラ(アバラ骨肉)専門レストランのことだ。

 席に座り、ビールとオレンジジュースを注文オーダーする(クリスティナさんにはこのあと運転の仕事が残っている)。

 すると、頼まなくてもコステラが勝手に運ばれてきた。まったくブラジルのレストランは、食べ放題が基本であるかのようだ。

 細身のナイフで脂たっぷりの身を骨から切り離しては口に運ぶ。脂の甘味が口中に広がる。心の疲れに呼応するようにりついていた口に、漸く水気が戻ってきた。ついでに精神にも潤いが戻ることをねがう。

 肉のともはブラーマと並ぶ庶民派ビール「スコール」だ。重たい仕事を終えたばかりで気分よく酔えるものではないが、こってり脂まみれの肉に詰め寄られた日には、などか飲まずにられよう。


 二十四時間絶やさず燃え続ける窯でじっくり焼かれたコステラは、軟骨もスジも脂もとろとろで柔らかい。豚のブロック肉やソーセージや鶏肉も皿に乗ってくる。こちらが食べ切れるかどうかなどは気にしないようだ。

 塩のシンプルな味付けだけに、肉の旨さが引き立つのはステーキと同じ。まったく昨日から肉続きだ。それでも飽きないのは、この国の豊かな肉食文化の為せる業なのだろうと思う。


 みそぎのデザートは、プリンとバナナフライ。大皿に目いっぱいのサイズで作られたドーナツ型のプリンも、この国でよく見られる名物だ。バナナフライは表面に砂糖とシナモンがまぶしてあって、私には甘きに過ぎるが大多数にはこのぐらいがいのだろう。


 皿を運んでくれる店員は腕から脹脛ふくらはぎから頸に貌まで全身刺青が入っている。勿論彼は無法者でも凶賊でもない。ブラジル人にとって刺青は誰もがするファッションなのだ。

 恐らく成人の九割には刺青があるだろう。如何いかな紳士、臈長ろうたけた淑女であろうと体の何処かに一鱗の刺青を刻さない者はく、日本であれば大親分にしか許されないような派手な龍虎や花吹雪を極く普通の青年の健康的な筋肉の上に見かけることも珍しくない。

 彼らにとって刺青の目的は威嚇でも露悪でもなく、只管ひたすらに美意識である。と云うことは、クリスティナさんも――

「ええ、してますよ。おへそに、蝶を。うちでしていないのは妹だけ」


 年齢としの離れた妹さんは日本留学を目指しており、日本では何より温泉巡りを楽しみにしているのだと云う。那辺どこから聞いてきたのか刺青があると温泉に入れないらしいと知って、断然きっぱり刺青はしないとめたのだそうだ。


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