第13小節目、守れない約束

「こんな事、本当に引き受けてくれる人がいるだなんて、半信半疑だったんだけど」


(ぶっちゃけ、あなたの彼氏鬼畜に脅されてるからだけどね)


裏に潜む真実は、無意味な笑顔で誤摩化した。


には、本当に、なんてお礼を言ったらいいか。

でも、わたしの裏事情、さっきの話で理解してもらえたと思ってる。

デビューを控えてSNSとかに呟かれても厄介だしさ」


「うん」


「これは、わたしにとってどうしても掴まなきゃいけないチャンスだと思うの。

掴んだら借金返済の目処も立つし、ひいては関谷の家とも縁を切れるはず。

自分で何でも決めていい、そんな人生を送りたいの」


明石さんは、どさくさ紛れにあたしをファーストネームで呼んだ。

だからあたしも同じ気持ちで、同じように親しみをこめて返す。


「いいよ、わかった。には、伝説のグラン・ジュテを見せてもらったから、それでいい。

心の底からスカッとした」


それが、もうひとつの真実だもの。


細いからだに溜め込んでいるおびただしい量のエネルギーを、一気に放出するような、そんな美優のグラン・ジュテ。

いろんな事にもやもやしてたあたしも、その一瞬、ものすごく解放されたような気持ちになれた。


「伝説って、 それ、あらたが言ったのね」


美優はまた、空を見上げる。

だからあたしもつられて、同じ方向を見上げた。


「あの人にも、逃げ場がないの。 いろんな事に雁字搦めでさ。

あたしはそんなこんなで他人どころじゃあないからお先に逃げおおせるけど、どうかあらたをよろしくね」


「うん」


まだ70パーセントくらいの夕焼けが残る空の下、あたしたちは小さく手を振って別れた。




あらたをよろしくね』


残念ながら、その約束だけは、守れないだろう。

それにしても、今日、殆ど初めてちゃんと絡んだって言っていいあたしなんかに、彼女がなぜ、きっぱりとそう言い切るのかーーー。


うっかりもののあたしは、その時はまだ何も気付けずにいた。


★★★


お風呂に入って、ごはんを食べて、勉強するとか言ってまた再び自分の部屋に籠っても…。

あたしはその日の夕焼け空を引き摺って、ぼんやりしたままだった。


(綺麗な横顔だったな)


おもむろに、床に放り投げっぱなしの小さめのクロッキー帳を拾って、さっきの記憶を頼りに、コンテを走らせる。

オレンジのダイヤモンドリングに象られたように産毛が煌めく、美優の横顔の記憶。


全く計画性のない位置から描き出した落書きだったが故、ある程度形が出てくると、左上の無意味な空白が妙に気になり出してくる。


意識的にバックを処理しようと、その部分に少しづつ手を入れ始める。

はみ出した線、摩擦でついた汚れ。

そういう些細なきっかけを頼りに、紙の上の世界は無限に広がっていく。


すると、いつのまにやらそこに人影のようなものが現れ始めた。

あたしは、昨日、気絶する直前に見た、ムンクの絵を思い出していた。


(あの、キスの絵。

色恋なんて、まだいまいちぴんとこないけど、あの刹那な世界。

何て言ったらいいんだろう…何て)


手がかりは、次々と現れる。

だから、どんどん描き進めていく。

無心、というのとも、違う。

だって、それを少しも逃さずいようとするから、緊張で汗がびっしょりだ。


衝撃の朝の教室での出来事、彼の変化自在の表情、彼女といた風景。

一瞬にして消えてしまった、儚い場面の数々が、スライドのように、点滅しながら切り替わっていく。


★★★


次の朝、結局あたしは、床の上で目覚めた。


ほぼ描き切ったその絵を、開けっ放しのカーテンから差し込むまだ弱々しい朝日がほんのりと照らす。


男女が抱擁して、くちづけするシーン。

描かれているのは、既に、美優でも、西園寺さいおんじでもなかった。


まあ、ちょっとムンクの影響が強過ぎるかな、とも思うけど、悪くないと思う。


(ほらね。 あたしにだって、少しなら多分あるんだよ。 才能ってやつが)


そう思ったのは、明石美優という、今はまだ何ひとつ敵いそうもない少女への小さな対抗心だったのだろうか。


とりあえず、あたしはその出来映えに、この時点では心の底から満足していた。


正直な話、工業デザイン科を志望するあたしが、受験の準備の為にするデッサンは、鉛筆を使うからかチマチマしていてもどかしく、いまいち食指の向かないものだった。

頭と手のタイムラグに、激しく違和感を感じていたのだ。


もうひとつの課題である色彩構成は、それ以上にあたしをうんざりさせるものだった。

枠の中をアクリルガッシュで凹凸なくきっちり塗りつぶさなくては、なにも始まらない、この課題・・・。

絵の具を使うのは大好きなのに、これがとっても苦手で、悩みの種でもあった。


だから、この時あたしは、最近忘れかけていた、白い紙を前にしてのトキメキみたいなものを取り戻したかの様に感じ、心が沸き立つ思いだった。


(この調子でスランプを抜け出せないかしら)


あたしが意識した、焦燥感みたいなものが上手く出せたのではないかーーーとついほくそ笑みながら、何度も何度も繰り返し、その奇跡の1枚を、右から左から、上から下から眺めていると、勉強机にあったスマートフォンが、突然ぶるぶる震え出した。


それを手に取って、画面を覗き込む。

絵麻からの、昨夜から放置しているメッセージが2件。


そして、たった今入ってきたのは…。



[鬼畜]

今から家を出る。20分後にそっちにつくから、ジャストで出れる用意しとけよ



(えっ、20分?! まずーい!)


鬼畜・西園寺新からのメッセージがあたしを急速に現実に引き戻す。

あたしはビックリ顔のスタンプを片手で即座に返し、慌ててその辺のものをかき集め、適当に鞄に詰めると、洗面所に向かってバタバタと走り出した。


第一楽章、完

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