第9小節目、悪魔なあいつ

「放課後に、屋上にこいよ」


簡易メッセージのやり取りをするIDの交換を事務的に済ませ、それだけを言い残して、奴は校舎の中に消えて行った。


「ああ、お弁当が」


あたしはそう、わざと声に出して言った。

黙っていると、後少しのところで涙がこぼれそうだったから。


泣かない。

あんな卑怯な奴の為に、あたしは絶対に泣いたりしたくない。


さっき、咄嗟に引き止めようとして立ち上がった瞬間に、無惨にも地面に散った、土の付いたお弁当の中身をひとつづつ拾い集める。


まるであたしの気持ちの欠片みたい。

食べてもらう前に、泥まみれなんてさ。


★★★


あたしには、おしりの付け根から太腿の裏側辺りまで、7センチ程の大きな縫い傷があった。


小さな頃、近所でもやんちゃ娘としてその名を轟かせていたあたしは、誰よりも高い所から飛び降りることに、毎日毎日命を燃やしていた。


今日は階段の4段目から。

明日は階段の8段目から。

一週間後には階段の一番上から、という具合に。


勇気を振り絞った分だけ結果が容易く目に見える遊びは、子供だったあたしの自尊心を存分に満たしてくれた。

だから、あたしはそれに夢中になった。


あれは、確か5歳の時だった。

無謀にも、いつも遊んでいた家の近くの小さな公園の滑り台の上から、同じ様に飛び降りようとしてバランスを崩し、支柱のついた植え込みに激突した時に出来た傷だった。


この時は傷も酷かったけど、頭の打ち所が悪く、その後まる2日程意識不明になったの。


そういえば、その日から、私は飛ぶ事をやめたのだ。

正確に言えば、パパとママより、絶対禁止を言い渡されたのだけど…。


その時の傷の写真が、あの形のいい手にすっぽり治まる程の端末に収められているという。

傷自体は、あたしにとっては何て事ない。

プールにだって、普通に行ったりしてる訳だし。


ただ、そこが撮影されてるとしたら…。

年頃の娘の、その場所の画像が暴かれるって事は、同時にあたしの破滅を意味する。



西園寺新さいおんじあらた

あの男はきっと悪魔だ。


ダンテの小舟に同乗している自分の姿が、脳裏を横切る。

そういう世界、あたしには無縁のものだったはずなのに。


…視界に入ってきたとたん、あんなにも引き寄せられたのは、生まれて初めてあたしが出会った「ひと」のかたちをした魔物だったからなんだ、きっと。




あたしはその日、初めて授業をエスケープした。

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