異世界老婦人探偵ちよ
はせがわみやび
第1話 星降る夜に聞かせて
1 異世界転移? あらまあ!
ちよはその日、八十歳になった。だが、まだまだ腰も曲がっておらず、歯もぜんぶ揃っている。やや小柄になり、顔には皺が増えたものの、健康だったし、頭もはっきりしていた。はっきりしすぎているくらいで、だから彼女は実はちょっとすごいおばちゃまなのである。
この歳まで独身だったけれど、養子にした娘がおり、その娘が子どもを産んだから、孫ひ孫たちに囲まれて誕生日を迎えることができた。そしてちよはケーキに丸く立てられた八十本の蝋燭をひと息で吹き消した。ちよは肺活量には自信があった。
気づいたら、ちよは四方が真っ白な壁に囲まれた六畳ほどの部屋に居たのである。
部屋の中央には何故か
「怖がらないで聞いてください、レディ」
声を発したのは
「あなたは世界の壁を越えてしまいました」
「あら、じゃああの、まるく並べられた蝋燭を左回りに吹き消してしまったのがいけなかったのかしら」
そうちよが言うと、イケメン紳士は驚きにぽかんと口を開ける。
「どうして判ったのですか……!」
「うふふ」
簡単な推理ですよ。ちよは内心でそう思っていた。何故ならここに来る前にちよがしたいつもと違うことはそれくらいだったからだ。
だから、あれが世界の真理に触れた瞬間だったのだろう。
驚くような推理でもない。ちよにとってはふつうだ。でもイケメンのびっくり顔を堪能したかったのでちよはにっこりと笑みだけ浮かべた。
「では、ここは世界のどこでもない部屋なのね」
「はい。正式な名称は〈時の狭間の部屋〉と言います。しかし、本当に驚かないのですね。なんと豪胆なレディだ」
「いえいえ、ちゃあんと驚いてますとも。じゃ、私は死んでしまったということですかねぇ」
「ご心配なく。貴女は生きてますとも、ただ、大変に申し上げにくいことなのですが。貴女はもう元の世界には戻れない」
「では、あなたは『案内人』というわけね」
ちよの言葉に紳士はさらに驚いた顔になった。
端正な顔がぽかんと口を丸く開けている様子は可愛らしい以外の何ものでもなくて、ちよは眼福だわーと内心で喜ぶ。
しかし、これも大した推理ではないのだ。ちよだって小説くらいは読む。これはあれだ「いせかいてんい」というやつにちがいない。異世界に主人公が飛ばされるというタイプのお話だ。そういう場合、何が起こったのか主人公に丁寧に説明してくれる案内役にあたる存在が登場するものなのだ。
「やはり聡明な方だ……」
「お世辞はいいんですよ」
「いえ。感服しました。そこまで現在の自分の置かれた状況を推測できるとは」
「れでぃの
「は?」
「いえ、こちらの話ですよ」
「ええと、どこまで話しましたっけ」
「あなたが『案内人』というところまで」
「そう、そのとおりです。私は、世界と世界の間に聳える壁に立つ『案内人』なのです。壁を越える者にひとことだけ助言をすることが許されています」
「ありがたいことですね。それで、どのような助言を頂けるのでしょう」
ちよの言葉に、若き紳士はすこしだけ言い淀む。辛抱づよくちよが待っていると、彼はついに口を開いた。
「貴女がこれから訪れる世界は極めて危険な場所です。命が幾つあっても足りないような……。そんな世界に高齢の貴女を連れていくのは心が痛みます……」
「危険なのね。判ったわ」
「……えっ?」
「判ったわ。助言をありがとね。綺麗なお兄さん。でも、せっかくここまで生きてきたのだもの、もうちょっと生きていたいわ。あなたの助言を心に刻んで頑張って生き残れるよう努力するわね」
呆然とした顔になった金髪イケメン紳士だったが、はっと我に返ると、慌てて言葉を付けたす。
「じょ、助言はこれからです!」
「まあ」
そんなに頂いてしまっていいのかしら、とちよは小さくつぶやいた。彼女は遠慮がちな性格だった。ごはんのお代わりの三杯目は控える、くらいには謙虚だった。
そもそも八十歳ならば小さなお椀いっぱいでお腹いっぱいになるところを二杯目まではふつうで三杯目だって余裕というところは、謙虚かそうではないかよりも議論すべきところではないかと言われればそう。だが、だからこそ異世界に跳ばされたと聞いても平然としていられるとも言えるわけで……閑話休題。
ちよは、おとなしくイケメン紳士の言葉を待った。
「世界の壁を越えたら、最初に話しかけてきた人を大切にしなさい」
ちよは首を傾げた。
「ええと……それはどういう……」
だが、答えは返らない。そのときにはもう、ちよの周りには光が溢れだし、部屋がゆっくりと消えてゆくところだったのだ。
「あら、あら、あら。始まっちゃったわ。ええと、どんなおっかない世界に行くことになるのかしら……」
周りの風景が舞台が暗転したかのように変化した。
光と音が戻ってくる。
「てめえが犯人だってぇ、もうわかってるんだ! 許さねえぞ!」
「だから何度も言っとるだろうが、おれじゃねえ!」
目の前で、上半身が裸の巨人と、鉄の兜を被った人の背丈の半分ほどの赤ら顔の小人がケンカをしていた。
「あらあら、喧嘩はだめよ。仲良くしなさいな」
そこが日本でないことも現代でないことも明らかだったけれど、ちよはいつものようにそんなことは気にせずにひとこと言ってしまった。
ちよはいつもひとこと多い性格なのだ。
その言葉に、いがみあっていたふたりがくるっと振り返る。
「「なんだ、ばばあ!」」
ふたり同時にそう叫んだ。
ちよはあらら、と困ってしまう。『案内人』の言葉を思い出したからだ。
──世界の壁を越えたら、最初に話しかけてきた人を大切にしなさい。
大切にしなさいって言ってたわ。
でも──今のはふたり同時だったわよねぇ。では、このおふたりを大切にすればいいということかしら? いつものように。
そのとき、ごおんとひとつ、鐘が鳴った。壁にかけられた柱時計が十二時を告げる。窓の外は暗いから真夜中の鐘だ。
「まあ、日が変ってしまったわ。ということは今日はクリスマスね」
ちよの言葉を耳にしても、いがみあっていたふたりの表情は変わらない。
それどころか、より目つきが険しくなった感じもする。
「なに言ってやがる」
「ひっこんでねぇと怪我するぜ、ばあさん」
凄むふたりにちよは微笑みかける。
「あなたたち、もうちょっと落ち着いてわたしに話してみない? そうしたら、わたしがあなたたちの抱えている悩みを解決してあげるわ」
その場所は、大勢の人々がたむろしていて喧噪に包まれていた。
老女にはなつかしい煙草の匂い。汗と酒の匂い。そこは酒場だった。
酒場の喧嘩から始まるのが異世界ふぁんたじぃってものよね。
ちよはそんな呑気なことを考えつつ、ふたりの答えを待つ。
だが、帰ってくる答えをちよは確信していた。
なぜなら──。
ちよは元の世界では世界最高齢の名探偵だったのだ。
★★★★★
というわけで異世界に世界最高齢の名探偵が転移して始まるミステリです。
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