第17話 引きこもりと覚悟

 館山家は道路に面している一軒家だ。家から向かって西側に玄関があり、その上の二階ベランダに物干し竿がかかっている。日が当たる午後が絶好の洗濯日和らしい。

 いつもは母親が家に帰ってきたタイミングで干し、出発直前で取り込んでいるが――。


「恭弥!」

「依里?」

「お母さんから頼まれちゃって」


 引きこもり、と言いつつも家に誰もいない間は自由に動けるらしい(家の中限定)。依里が洗濯物を取り込みながら帰りがけの僕に手を振ってくれる。


 家に帰ると、褒めてほしそうに依里が玄関前で待っていた。えらいえらいと犬のように褒めておいた。


「珍しいじゃん。依里が家事手伝いなんて」

「おばさんから花嫁修業って丸め込まれちゃいました……」

「いいことじゃない? 今後は独り立ちもするんだろうし」

「考えたくないですねー。とりあえず、私はもう寝ます……」

「昨日は遅くまで起きてたの?」

「いえ、さっきの重労働でパワーを使い果たしたので、体力が底をつきました……」


 重労働、とは。


 とはいえ、箱入り娘の依里だ。箸より重いものを持ったことがない可能性も否めない。


「ベッド、お借りしますね。寝たかったら私の使ってください。窓空いてるんで」

「今日は帰らないんだ」

「今帰ったら落ちます」


 僕の部屋と依里の部屋の間には、1メートルくらいの溝がある。元気がなかったり、油断していると落ちかねない。落ちても軽くケガする程度だけど、なるべくなら危険な橋は渡りたくない。

 ……といっても、依里は毎日窓越しに帰っているらしいが。僕の就寝後なので真偽は不明だ。


「ごゆっくり~」



 僕が返ってきてから時間差で千尋が返ってくる。時間差と言いつつ録画したアニメを6話視聴した後だった。


 千尋は駅前の塾によってから帰ってくるため、すっかり日が落ちてからの帰宅になる。今年に入ってからは夕飯当番は僕の担当がほとんどだ。受験勉強に勤しむ妹に無理はさせられない。


「ただいま~……って兄ぃ? 珍しいね、リビングにいるなんて」

「そうか?」

「うん、最近はずっとあの女につきっきりだったから。何度呼んでも部屋から出てこないし」

「困っちゃうよな」

「兄ぃの話してるの」

「僕が?」


 そんな記憶はない……と思いたいが、千尋が言っているのならそうなのだろう。我が妹は記憶力に長けている。


「そーだよ。大した用ないからいいんだけどね。兄ぃのプリンやゼリー、アイスが消えていくだけだから」

「最近名前書いたのになくなってると思ったらお前か! 依里責めちゃったじゃねーか!」

「ごめんごめん。でも反応しない兄ぃが悪いし」

「名前まで書いてあるのに食うやつはないだろ!?」

「冷蔵庫、入りきらないんだもん。一番先に外に出されるのは兄ぃの保存食だよね」


 最近の千尋の夕飯担当はスーパーで売っている出来合いのお惣菜であることが多い。塾帰りにスーパーで買ってくるらしい。ちょうど安くなる頃合いなんだとか。


「しょうがないっちゃしょうがないけど、飯の前にそんな甘いもん食うなよな」

「どういう晩御飯にするかは千尋が決めるからいーの。あの女は? 今日は一緒じゃないの?」

「上で寝てるって」

「ベッドを新調したからなの……? ねぇ兄ぃ、あの女、どんどんダメ人間になってる気がするんだけど……」

「いや、まぁ……最初からああだったんじゃない?」


「曲がりなりにも昼間は起きてたでしょ……ここから生活リズム崩れたらいよいよまずいって」

「そしたら母さんと鉢合わせるだけだろ。あの人家のことでっかい布団だと思ってるかもしんないけど」

「それはあるかも……。とりあえず、千尋はあの女起こしてくるから。買ってきた総菜チンしといて」


 千尋が依里のことを気に掛けるほうが珍しい。なにか思うところでもあったのか、それとも今日は特段機嫌がいいのか――あるいは、悪いのか。

 乙女心は、僕にはわからない。


 階段を駆け上がる軽い足取りを聞く限りだと――大丈夫だと思うが。


「開けるよ」


 廊下の声はよく響く。ドアを閉めなければ声が外に漏れてしまうので、僕は徹底してドアを閉めるようにしているが――千尋はそうではない。


「まだ寝てるの!?」

「…………」


 依里の声は寝起きだからかあまり聞こえない。その分千尋の声だけが家中に大きく響く。


「兄ぃは家でダラダラしてるだけのクソ女見て、どう思うだろうね?」

「……仮に、私が――したとして、千尋ちゃんと仲良くできるか心配になってきちゃいました」

「昨晩、兄ぃと一緒に何してたの? 新しいベッドで!」

「…………」

「いやらしい!」


 ところどころ聞こえないが、なにもしていない。

 していない……よな?


「ギシギシ音一つしなかったじゃない!」

「いいベッドだからじゃないですかね?」


 上ではもしかして既成事実が作り上げられようとしている……?

 電子レンジの見張り番をしている場合ではなかったかもしれない。


「なにあの女!」


 ぷんすかと怒りながら千尋はリビングへと降りてきた。


「せっかく起こしに行ったのに!」

「今日は洗濯物を取り込んでくれたらしいから」

「それくらい――!」


 それくらい、千尋もやっている、と。妹は続けようとしたが、それは僕たちの事情だ。


「僕たちは人と普通に喋れるし、家事もいろいろやってるし、学校にも行ってる。でも――依里は喋れないし、できないし、行ってない。でも、僕たちには依里みたいな生き方の選択はできないし、家に帰れば家族がいるし、お金だって満足に稼げない」


 僕は、戻ってきた千尋と目を合わせずに、レンチンした総菜を食卓に並べていく。偉そうなことを言う資格は僕にはない。だから、この話はここまで。


「あったかいうちに食べよう。依里の分は――僕が持っていくよ」



「依里、起きてる?」


 自分の部屋とはいえ、ノックは欠かさない。同じ部屋に住んでいるとはいえ、自分一人の瞬間は気が抜ける。すこし気まずい瞬間は幾度もあった。ベッドに転がったまま顔を赤らめてスマホを見ていた依里と目があった瞬間なんかがそうだ。画面が見えたわけではないが、どんな話を切り出そうかは少し悩んだものだ。


「ん。起きてますよ」

「千尋に起こされたか?」


 ベッドの上でタオルケットにくるまっている千尋は、僕が部屋に入って行っても動こうとしない。僕のパジャマを無理やり来ているので、ダボついたズボンの隙間からはピンク色の布切れが見えて――いそうだったので、視線を逸らした。


「ねぇ、私って……このままじゃ、ダメなのかな?」

「千尋に何か言われたか?」

「ん――まーね。でも、大したことじゃないですけど」

「別にいいんじゃない? 千尋には言っといたから、これからはそんなに強くは言ってこないと思うけど」

「聞いてたんじゃないですか。いじわる」

「聞こえてないよ。何も」


 依里が何を言っていたのかは、ほとんど聞こえてこなかった。気の強いほうでもなければ、声が大きいわけでもない。だけど、どこか守ってあげたくなる――それが相星依里という僕の幼馴染だ。


「恭弥……」


 か細い声で、依里は僕の名前を呼ぶ。

 逸らし続けていた目を向けると、依里は起き上がっていた。いつものように僕の勉強机の上にご飯のトレーを置く。依里は出された食事について文句は言わない。


「もし恭弥が私に変わってほしいのなら――私は……」


 ふぅ、と依里は一度息を吐いて、それから息を呑んだ。僕は何も言わずに、依里の言葉を待つ。


「私、変わります。ここにいるだけの、みじめな存在になりたくないんです」


 依里の瞳には、決心が表れていた。


「今日の深夜、空いてますか?」


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