憧憬の星

秋田健次郎

第1話 紅茶とラズベリー

「これより、発射シーケンスを開始します」


 無機質なアナウンスが操舵室に響く。タバコのリキッドをスロットに差し込むと旧型の分厚い宇宙服の内側は脳をしびれさせる香りで満たされる。アンドロイドには真似できない、人間に残された数少ない特権だ。


 息を吸うたびに脳天が熱くなる。もし、今チェスの試合を申し込まれたなら最速手で負けるだろう。しかし、問題はない。一人でチェスの試合は出来ない。


「転送先の指定が完了しました。良い旅を!」


ねぇ」


 フェイクレザー製の椅子でふんぞり返りながら、独り言ちる。計器類の大半はメインルームに備えられているため、操舵室は不自然なほど、こざっぱりとしていた。一人用の宇宙船は操舵室とメインルーム、それからエアロックという必要最低限の機能のみを提供していた。全長も統一規格のコンテナと同じくらいしかない。


 宇宙船外部に取り付けられた赤外線センサが取得したデータはマシンに処理されて、可視光の映像へと変換される。船に組み込まれたマシンたちからすれば、赤外線の生データの方がよほど扱いやすいに違いない。彼らは特に何をするでもない人間である俺のために、非効率な変換をせこせこと頑張っているのだ。そう思うと、王にでもなった気分だ。


 船をぐるりと囲むように鎮座するワームホール発生装置が空間ディスプレイに投影されている。この巨大な機械は俺一人のために膨大なエネルギーを消費している。


『ビー』という安っぽい警告音と同時に、ディスプレイに投影されていたリングが姿を消す。音も加速度も感じない。しかし、この船は間違いなく光速を超える速さで移動している。いや、移動というより、放り出されたと表現した方が正しい。


 銀河中に張り巡らされたワームホールによるネットワークの外縁。フロンティアと呼ばれるそのエリアに存在するのは、大量の宇宙ゴミと事実上の捨て石であるコロニスト、それからアンドロイドよりもアンドロイドらしい公社の連中のいずれかだ。


 ワームホールの目的は当然『移動』である。つまり、行って帰ってくることが前提だ。しかし、ワームホールネットワークの外縁は方の装置だけが完成している。したがって、公社の建設隊以外が外縁のワームホールを利用することはない。普通の頭ならそう考える。


 しかし、世の中には頭のおかしな連中がいるもので、未開拓地の先行者利益のために半ば捨て石に等しい形のコロニストを派遣する企業が存在する。俺の雇用主もそういった頭のネジが数本外れた野郎の一人だ。

 当然、そんな連中が人命という概念を理解しているはずもなく、アンドロイドよりも安くつくという理由で田舎から死んだ目をした若者を引っ張ってきては、宇宙の彼方へ吹っ飛ばすのだ。


 宇宙の彼方に吹っ飛ばされた俺たちはと言えば、指定された惑星の調査を行ない、その結果を本社セントラルの連中に報告する。帰りはワームホールではなく、冬眠ハイバネーションを使う。


 ちなみに、冬眠ハイバネーションは宇宙開拓の最初期にこそ使われていたが、構造的な問題点から使用者の数%が死亡することは避けられない。また、使用者本人による認知と外界における実時間の経過に大きく差異が生じることから、精神疾患を発症する可能性も高い。

 そのため、冬眠ハイバネーションは違法でこそないものの、そう遠くないうちに禁止されると噂されている。そして、本社セントラルの連中は、禁止される前に使わないと勿体ない、と言わんばかりに冬眠ハイバネーションを利用したフロンティアでのコロニスト派遣を増加させている。


 なぜそんな危険な仕事に就いているのかと聞かれると、金払いが良いからとしか言いようがない。どうも、俺たちコロニストは安く買いたたかれているらしいが、僻地で生まれ育った俺からすれば、十分に命を懸ける価値がある対価だ。与えられる宇宙船は自分だけの城のようだし、リキッドコンポーネント付きの宇宙服まで支給される。元々、惜しくもない命なのだから、最後に人類の誰も見たことがない未知の惑星に触れてから死ぬのも悪くない。


「リングからの給電が終了しました。慣性移動に移ります」


 抑揚のない機械音声のアナウンスが流れる。それを適当に聞き流すと、空になったカートリッジをスロットから取り外して足元へ捨てる。新品のカートリッジを差し込もうとしたが、直前で止めた。連続で使うと、耐性がついて感度が落ちる。


 安物の重力発生装置しか積んでいないせいで、ずっと重力が不安定だ。体感では0.9Gと1.1Gの間を行ったり来たりしている。これがずっと続けば、宇宙酔い待ったなしだ。


 *


「目的地に到達しました。これより周回軌道を開始します」


 もう、そんなところまで来たのか。体感ではほんの数分に感じた。ワープ航法の仕組みも相対性理論も理解していないが、宇宙空間における時間と距離の感覚がまるであてにならないことだけは理解している。


 空間ディスプレイにはご丁寧に、目的の惑星の全体像が投影されている。表面は錆びた金属のような赤褐色をしていて、所々でかすかに色の薄いがうごめいている。大気中に粉塵が混ざっているようで、地表の様子は確認できない。送られたデータを見るに、惑星はガス型ではなく、岩石型らしい。もしかすると、資源利用だけでなく入植すら可能かもしれない。ならば、報酬も弾むはずだ。


 宇宙船が周回軌道上で表層のデータを解析する中、王である俺は暇を持て余していた。これまで一度も試していなかった紅茶ティーリキッドをスロットに差し込んでみる。密閉された宇宙服の内側に上品で芳醇な香りが広がる。タバコの刺激とはまるで違う。これはこれで悪くない。宇宙空間はラズベリーの香りがするらしいから、このリキッドとは相性が良いかもしれない。


 そんなことを考えていると、アナウンスが船の高度を下げる旨を告げた。惑星に降り立って実地調査を行なう。これこそが、人間のコロニストをわざわざ派遣する理由なのだ。


 船は高度を下げていく。船体表面の温度は急激に上昇するが、船内は一定の温度を保っている。船外の様子を表示する空間ディスプレイがしばらく赤褐色のみを映したのち、急激に視界が開けた。遥か遠くまで赤茶けた砂漠が広がっている。雄大さを感じる光景だ。


 船が逆噴射を行うと、落下速度が緩やかになる。わずかな衝撃は船体が着陸したことを告げていた。


『下船シーケンスを開始します。エアロックへ移動してください』


 アナウンスに従い、エアロックに入ると外気が注入される。


『与圧が完了しました。規定に則り、船外活動を開始してください』

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