第2話 出発の日
急遽に決まった旅行にもかかわらず、僕の旅の準備は想像よりもずっと順調だった。というか、そんなに用意するものがなかった。
財布には普段より少し多めに現金を入れて、必要最低限の着替えとヘアワックス、スマホの充電器を詰めただけで、他に手に取るものがなくなった。
こんなもんで十分だよな……?
随分と身軽で逆に不安にもなったが、スマホと現金があれば大抵のことはなんとかなるだろう。
旅行用と言えるような大きなカバンは持っていなかったけれど、部屋にある一番大きなリュックで十分だったし、何なら荷物をつめてもスペースに余裕があるくらいだった。
僕は待ち合わせのために、じいちゃん家の最寄り駅へ向かう。
とても、これから五日間の北海道旅行に行く人とは思えない身軽さだ。
僕は今回の旅の目的を聞かされていない。
それどころか、北海道へのルートも、北海道のどこへ向かうのかも知らない。
"じいちゃんの旅の付き添い人“という名目で同行するわけだから、特別困ることはないのだけれど、やっぱりなんだか落ち着かないからじいちゃんに会ったらせめて行き先くらいは聞いておこうと思う。
北海道には十以上の空港があるらしいが、おそらく到着先は新千歳空港だろう。便が多いし、札幌にも近いから何かと便利だ。
これから羽田空港に向かうなら夕方には北海道に着く。
じいちゃんがどこを巡ろうとしているのかはまだ知らないけれど、北海道がいくら広大な土地とは言え、五日もあればかなり足を延ばせるに違いない。
旅行の話を聞いた時はどうやって断ろうかと思った僕なのに、いざ出発を控えると自然と気持ちが弾んでくる。はじめての北海道を存分に楽しもう、と意気揚々にじいちゃんの元へ向かった。
しかし、僕が勝手に膨らませた旅行プランはあっけなく消え去った。その衝撃の大きさは、行き先を尋ねることをすっかり忘れさせるほどだった。
先に待ち合わせ場所についていたじいちゃんと軽く挨拶を交わし、じいちゃんが持っていた旅行バッグを「僕が持つよ」と言って受け取る。そんなに重くはないけれど、やはり僕のリュックよりは荷物が詰まっているようだ。
僕は当然のように空港へ向かうルートに進む気でいたのだが、すでにそこから間違っていたらしい。じいちゃんは意外な目的地を口にした。
「晋太朗、まずは東京駅へ行く。そして高速バスで大洗港に行くぞ」
……ん? 今なんて言った? 東京駅から高速バスで……大洗港? 大洗港って茨城県の? 北海道へ行くというのは、僕の聞き間違いだったのだろうか?
「えっと……茨城に行くの? 北海道じゃなくて?」
僕のポカンとした顔が可笑しかったのか、じいちゃんは「あぁ、晋太朗には言ってなかったか?」と笑い、そして「茨城の大洗港から北海道に行くんだよ。船で」と付け足した。
……船で?
聞いてないよ! 完全に初耳だよ! 僕、当然飛行機で行くと思ったから実はひそかに空港の情報とか調べちゃってたよ! と思わずツッコミそうになったものの、よく考えると船旅だって初めてなので弾む気持ちには、まぁ、変わりなかった。
僕は冷静さを取り戻したフリをして、船で行くと聞いて一番最初に浮かんだ疑問をじいちゃんに投げかけた。
「僕、船旅ってはじめてだ。船で北海道ってどれくらいで着くの?」
「んー、大体十八時間くらいだったかな」
「十八時間!?!?」
今度は思わず大きな声で聞き返してしまった。移動に十八時間もかかるなんて、僕はこれから外国にでも行くのだろうか。確かニューヨークやメキシコでも、十三時間程で行けるはずだけど。
しかし、驚くのはまだ早かった。
「十八時間ってのは、船だけの時間だけどな。前後の移動もあわせたら二十二~三時間くらいかかるだろうなぁ」
おいおい、嘘だろ? 国内旅行でそんなにもの時間が必要になるなんて思っていなかった僕は絶句した。
飛行機なら前後の移動をあわせてもトータル四時間程で行けるはずなのに、なぜわざわざ不便なルートで行かなきゃならないのか。
五日間の旅行の日程のうち、大半が移動で消えたんだけど……。
あれ? これ、1日観光できる日って水曜しかないんじゃないの?
しかし、あくまで僕はじいちゃんの旅の付き添い人だ。
旅費も出していない僕が言える文句などないだろう。黙ってじいちゃんの計画に従うことにした。
電車とバス、それから船を乗り継ぐ長旅は想像よりも少しハードだった。
二十時間を超える移動時間のほとんどを座って過ごすせいで、とにかく尻が痛い。
船は個室を取ってくれていたから睡眠をとるには十分なベッドがあったけれど、揺れが少ないとはいえ常時動いている船の上で熟睡することはできなかった。なんなら、慣れない船で軽く酔ったくらいで、帰りは絶対に酔い止めを飲もうと心に決めた。
そんな軟弱な僕とは対照的に、じいちゃんはタフだった。何の不調を訴えることもなく、快適な睡眠をとり、適量の食事を摂っていた。健康体そのものだ。
慣れているとまでは言わないけれど、落ち着きを払うその様子に僕はある疑問が浮かんだ。
「じいちゃん、船で北海道に行ったことあるの?」
思えば何とも間抜けな質問だが、じいちゃんは微笑みながら「あぁ。五十年以上前の話だけどな」と答えてくれた。そして「当時に比べたら信じられないくらい快適でびっくりだ!」と笑った。
そうだ、じいちゃんの故郷は北海道だった。
北海道に行ったことがあるのではなく、北海道から来たことがあるのだ、船で。
半世紀ぶりに同じルートでの里帰り。そりゃ、当時よりも快適な旅になっていて当然だ。おそらく移動時間も短くなっているのだろう、これでも。
ここにきて僕は、改めてこの旅の目的が気になった。
じいちゃんは、死ぬ前に生まれた土地を見ておきたい、って言ってたけれど、五十年も経てばその地は間違いなく激変しているだろう。ここが同じ場所だ、と言われても信じられない位の変貌を遂げているかもしれない。いや、その可能性の方が断然高い!
その変化を見たいのか? 生まれも育ちも東京の僕には、生まれ育った場所に帰りたいというノスタルジーは分からなかった。
ただ、北海道に近付くにつれてじいちゃんが緊張していくように見えたから、不安になったのだ。
どうしてそんな表情を? それに、北海道に着いてからの予定を一切話さないことも気になった。
別に予定を共有して欲しいわけではない。
でも、楽しみにしている旅行なら、行き先やスケジュールを教えたくなるのが自然なんじゃないか? と思っただけだ。
しかし、じいちゃんは何も言わなかった。表情のこわばりはごく僅かな変化だったと思うけれど、小さな頃からじいちゃんっ子だった僕には分かる。
何度も見上げたじいちゃんの顔は、徐々に目線が近くなり、今では僕の肩辺りにある。角度は違えど、いろんな表情を見てきた。でも、そんな表情は知らない。
そんな、緊張感の漂う、切ないような悲しいような、じいちゃんの苦しそうな表情を僕は知らない。
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