第39話 夜明け前の誓い

 お風呂をあがってからいろいろしていると、いつもなら眠っている時間になっていた。でも私の全身は絵を描きたいという情熱に満ちている。眠気をこらえながら画材置き場を覗くも空っぽだった。車に置いていること思い出してため息をつく。


「……しかたないか」


 玄関に向かおうとした時、五十嵐に声をかけられた。


「夜更かしはだめですよ。創造性にダメージを与えますから」


 肩を落とす私の手を五十嵐が握る。そのままベッドまで引っ張っていった。でもやっぱり描きたいという衝動は消えてくれなくて、顔をしかめてベッドをみつめる。


「今寝たら熱が消えちゃいそうな気がするんだ」


 理性的じゃない。そう簡単に消える炎じゃないって分かってはいる。でも今すぐに薪をくべなければ落ち着かない。焦燥感が消えてくれないのだ。


 そわそわしていると五十嵐が頭を撫でてくれた。笑顔で優しく言い聞かせてくれる。


「大丈夫ですよ。きっと天宮さんが何度だって蘇らせてくれます。あの人の牧野さんへの熱量は途方もないですから。私なんて比べ物にならないです」


 寂しそうな笑みだけれど、天宮への信用が強く伝わってくる。


「それに、昔の牧野さんのこと私はそんなに知りませんけど、今日のことを思い出せば簡単に消える炎だなんて思いません。もう少し自分のことも信用してあげてください」


 これまではずっと自分自身を疑っていた。嫌っていた。憎んでいた。でも五年越しにまた立ち上がって夢を追うことを選んだのだ。絵には作者の心がにじみ出てくる。自信もなくさまよう臆病者の絵なんて、誰も美しいとは思ってくれない。


「……ありがとう。その通りだね。どんな障害にだって消させたりはしない。才能の壁はまた私を苦しめるだろうけど、今度は絶対に諦めないよ」


 自分でも驚いてしまうくらいには力強い声だった。小さなころの子供らしい万能感とは違う。大人になった私は強い信念が折れた先に待つ苦しみを知っているのだ。それでも立ち上がることを選んだ。今の私はかつての私よりもずっと強い。


「だったら私も頑張らないとですね」

 

 五十嵐は暗い笑顔でベッドに横たわる。私も掛布団の中に入り横になってから五十嵐をみつめた。


「お父さんと真正面から向き合います。仲直りできるのか分からないですけど、それでもずっと今のままなんて嫌なんです。ありふれた親子みたいに仲良くなりたいんです」

「怖いのならいくらでも頼って良いからね?」


 そっと頭を撫でてあげると長いまつげを伏せてほほ笑んだ。


「きっと私の運命の人って、牧野さんなんでしょうね」

「……いきなり恥ずかしいこと言うね」


 ちょっとだけ顔が熱くなる。心の中ではますます愛おしさが膨らんでいって、欲情とは違う純粋な感情で満たされていく。……人生の全てを賭けてでも五十嵐を救いたい。心の底から笑えるようになって欲しいのだ。


「牧野さんが助けてくれたから、何度も何度も救ってくれたから。……だから私はまだ生きていて、前を向くために頑張ろうって思えてるんです。もしもあの日、橋の上で牧野さんに出会えなければ私は……。考えたくもないです」


 恐怖に顔を引きつらせている。あの日の五十嵐の孤独や悲しみを想像するだけで辛くなる。神に愛された女の子は、それ故にありとあらゆる人に憎まれていて、自分に生きる価値なんてないんだって思い込んでしまっていた。


 頬にキスを落としながら思う。この三日間でほんの少しくらいは救えただろうか。五十嵐は寂しそうな顔のまま、か細い声でささやく。


「……私の運命の人は間違いなく牧野さんです。でも牧野さんの運命の人って誰なんでしょうね。それも私ならいいんですけど、……まだ怖いです」


 恐怖から逃げるみたいに、不意に私の唇にキスを落とす。触れるだけの優しいキスだった。目が合うとためらうみたいにうつむいて、そのまま私の胸元に顔をうずめた。


「全てを諦めるように仕向けてしまいました。ほとんど自分のためにですよ。天宮さんすらも拒ませて完全な孤独に閉じ込めれば、私たちの世界を侵すものは何もなくなる。橋でのあれは、私のエゴだったんです。牧野さんのためなんかじゃなかったんです」


 声が震えている。五十嵐も天宮をまぶしいと感じているのかもしれない。天宮の光は時に毒になる。心を満たす闇をより醜いものだと感じさせてしまうのだ。震える背中を優しく撫でてあげる。


「それが普通だよ。誰だって自分が一番大切なんだから。というかむしろ五十嵐にはその考え方をもっと大事にして欲しい。私よりも自分のことを一番に思って欲しいんだ」

「……守られてばかりですね。牧野さんの優しさに」 


 抱きしめても震えが止まってくれないから悲しくなる。全然気に病む必要なんてないのに。五十嵐はまだ子供で本来なら大切に守ってもらうべき女の子。悪いのは五十嵐じゃなくて、苦しいことから救ってあげなかった周りの大人なのだ。


 当たり前に享受すべき親の愛を、努力しなければ勝ち取れないなんて。


 もしも私が五十嵐ならまともには生きていけなかった。でも五十嵐は命が尽きる寸前まで必死で頑張っていた。追い出されるまでは家出もしなかったし、寂しい学校も頑張って通っていた。


 一人ぼっちなのに、辛いのに、必死で生きてきたのだ。たくさんたくさん頑張って来たのだ。それなら今は私に全力で甘えればいい。いい加減に少しは報われてもいいはずなのだ。


「それでいいんだよ。今はまだ守られてればいい。子供なんだから」

「……子供?」

「そうだよ。まだ17歳でしょ。たくさん私に頼ればいい」


 五十嵐は私の胸に顔をうずめたままだ。だから表情は分からない。でも震えは止まっていた。なのに不安をこらえるみたいに、私のパジャマの袖を握り締めてくる。


「早く大人になりたいです」 

「急がなくていいよ。置いていかないから」

「……約束してくれますか?」

 

 私は小指を差し出して頷いた。


「約束するよ」

「……また牧野さんのこと、縛っちゃうんですね」


 自嘲的な笑みで、小指を絡めてくる。 


「絶対とか、約束とかそんなのばかりです。……大丈夫です。もう励まさなくてもいいです。今はただ抱きしめて欲しいです。牧野さんがそばにいるってこと、体温で教えて欲しいです。苦しいくらいに抱きしめてください」


 表情は笑顔なのに悲痛さしか感じられなかった。胸が痛くなるのを感じながら、リモコンで電気を消した。不安そうな顔をしていた五十嵐をすぐにぎゅっと抱きしめる。隙間ができないくらいに密着して、絶対に離れないって気持ちを伝える。


「おやすみなさい。牧野さん」

「おやすみ。明日もたくさんいちゃいちゃしようね?」

「……そうですね。たくさんたくさんキスしましょうね」

「それでいつか本当に幸せになれたのなら、たくさんえっちもしよう」 


 息をのむ音が聞こえた。そのあとすぐに照れくさそうな笑い声が暗闇に響く。


「……ふふ。いやらしい人ですね。その約束も守ってくださいよ?」 

「絶対に守るよ」


 頬に一度だけ唇が触れる。五十嵐の背中をしばらく撫でていると、安らかな寝息が聞こえてきた。部屋は静まり返っていて五十嵐の熱だけを感じる。


 天宮は五十嵐のお父さんも番組に出るのだと話していた。現代の巨匠という呼び名の印象通り、メディアへの露出は少ない人だ。きっと天宮が視聴率のために手を回したのだろう。私の知名度を飛躍的に上昇させるために。


 顔を合わせることもこれから先あると思う。言いたいことはたくさんあるけれど、一番最初に伝える言葉はもう決まっている。


『あなたは五十嵐の親失格だけど、まだ間に合う。今からでも遅くないから五十嵐を愛してあげて欲しい』


 ただの他人で無名な私の言葉なんて少しの威力もないんだろう。人の家のことに首を突っ込むのも常識はずれなのかもしれない。


 でも私にできることなら、なんだってしてあげたいのだ。私の大好きな五十嵐には、この世界の誰よりも幸せになって欲しい。


 絵が人生すらも変えてしまうってことを私は知っている。挫折は怖い。でも五十嵐のためなら、現代の巨匠にだって負けるつもりはない。何度打ち負かされそうになったって、そのたびに立ち上がってやる。


 小学六年生の私がかつて見つけた夢。それは賞賛を集めることではなく自分の感じた美しさを表現して、みんなを笑顔にすることだった。


 あの展覧会で何度感動させられたか分からない。自分もこんな素晴らしい絵を描いて、鑑賞してくれた人を幸せにしたいって思ったんだ。

 

 あるときは夢を抱かせ、ある時は夢を奪い。またある時は不幸のどん底に叩き落してしまう。絵は楽しいことばかりじゃないってのは分かってる。それでも私は人を幸せにできる絵を描きたい。


 凡人な私の武器は情熱しかないけれど、それでも五十嵐の才能は呪いなんかじゃないって証明したい。どれだけ時間がかかっても絶対に救ってみせる。いつか心から笑えるようにしてみせる。


 五十嵐の頭を優しく撫でる。眠っているはずなのに嬉しそうに微笑んでいるから、口元が緩んでしまう。いい夢をみてるのかな。でもその夢だっていつか現実にしてみせる。辛い現実なんて全部ぶっ飛ばしてあげるから。


「……もう少しだけ待っててね」


 そっと五十嵐の頬にキスをしてから、私も目を閉じた。


 第二章 燃え尽きた太陽と焼かれた翼 終


〇 〇 〇 〇


 ※ここまで読んでくださりありがとうございました。


 第三章の投稿に関しては未定です。幕間として1話だけ投稿します。


 牧野が五十嵐に胸を揉まれる話です。

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