HURT

@shakes

第1話

第一部


     1


 かつてコンビニ店員だった男が敵対者に出会ったのは十一月だったはずだ。寒かったし、敵対者も黒っぽい化学繊維素材の防寒着を着ていた。店員は長年コンビニで働いていた。カクテルのレシピを無数に覚えたり器用にダブルチーズバーガーを拵えたりするのは店員には無理だった。電子レンジで温めた弁当とかを袋に入れて渡すだけの仕事はシンプルで気軽だった。ただ長年やってたら、やることはあまり増えなかったが覚える事は増えた。覚えるべきことはメモ帳に書いていたが紙だと枚数に限りがあるので、その内容を全部パソコンで入力してから携帯電話に移し、更に覚えるべきことが増えたら携帯電話のワードファイルに直接入力した。オペレーションが変更される度にその自作マニュアルを書き換えた。店員の自作マニュアルにも本部の公式マニュアルにも敵対者に対する対応方法は全く書いてなかった。当然だ。店員が敵対者に攻撃され彼の精神が深刻な損害を被ったとしても本部は痛くも痒くもない。店員には自分で戦う以外の選択肢は残されていなかった。

 客には店員の気持ちなんか分からないよ。人間が虫の気持ちを理解出来ないのと一緒さ。大抵は人が虫を殺す。そりゃあそうさ。蚊に刺されるのはとても嬉しくないからね。ただ、稀に虫だってヒトを殺すよ。猛毒を持った虫だっているからね。それに、アフリカじゃあ、蚊でさえヒトを殺すって話だ。店員はクラブのカウンター席でホステスにそう言うと、ウィスキー・ソーダを一口飲んだ。彼はピストルで敵対者を撃ち殺せたら、どんなに清々しくいい気分だろうと思った。店員はピストルなんか持ってなかったし、どうやって手に入れるのか皆目見当も付かなった。別にピストルじゃなくてもいいか。他にも手はある。店員はそう思いながらグラスを口に運んだ。

 敵対者が店に来た日、店員は昨年まで高校生だった若い女子と二人で働いていた。店員はそれほど若くなかったが、大学の夏休みがいまだに続いているような感覚で暮らしていた。店員は女子に訊いた。

「ねえキミ、理科得意だったよね」

「はい」女子は答えた。「理科得意です」

「ミチオ・カクって知ってる?」

「いいえ、知りません」

「最近人気の理論物理学者なんだけどさ。結構面白い本書いてるよ」

「へえ」女子は好奇心に眼を輝かせた。

「その人によるとさ、もう原子レベルだとテレポーテーションって出来るんだってよ」

「出来るんですか。すごーい」彼女は乾いた音を奏でる軽やかな拍手をした。その心地よいテンポはモーツァルトの室内管弦楽のように店内を幸福で満たした。

「で後その人によると、宇宙ってなんか数学に強い知的存在が作ったとしか考えられないって」

「え、じゃあ、その知的存在って、数学どうやって勉強したんですか?」

「多分相当頑張ったろうな。なにしろ宇宙作るくらいだからな。ほとんど寝てないんじゃないか」

 宇宙を作った数学に強い知的存在は有機生命体ではないだろう。それは概念的に仮想され得る非物質的な形而上的存在だ。きっと何かの数式で表現出来そうだ。女子とそんな話をした後、敵対者は現れた。彼は概念的でも非物質的でもない有機生命体だった。それはメタファーでもダークマターでもない悪それ自体だった。より具体的に書けば肝臓が悪そうな顔色をした五十過ぎの痩せたゴロツキだった。厄介な客が来る。厄介な客は厄介なことを言い厄介なことをし、やがて来なくなると、別の厄介な客が来る。きっと地下に厄介な客の巣があるに違いない。そこで厄介な客は厄介な卵を生み厄介な客を繁殖させ新たに誕生した厄介な客の子孫はその血統を脈々と受け継ぎ、優性遺伝と適者生存の法則に従いつつ厄介なルネッサンスや厄介な産業革命を経て厄介な文明が栄える。そうなる前に手を打たなくてはならない。

 敵対者が出現したのは午後八時だった。女子はちょっと遅めの休憩中だった。彼女はそのコンビニないしはそれ以外全てのコンビニで売っている最もおいしい食品を味わいながら紅茶を飲んでいた。その食品はフワフワの白いパンの間にしっとりとした柔らかい物質を層状に重ねることによって構成された食品で、かつて誰かがそれをサンドウィッチと名付け、現在でも全く同じように呼ばれている。そのサンドウィッチに挟まれたしっとりとして柔らかい物質をより具体的に書けば、チーズ、茹で卵、レタス、ハム、ツナ、マヨネーズ、タマネギだった。それらは話が弾んで仕方が無い仲良しグループのように相性が良かった。

 無論、店員と敵対者は相性が悪かった。水と油だった。コーヒーとコーラだった。かつて店員はコーヒーとコーラを試しに混ぜて飲んでみたことがあった。味は食器用洗剤と同じくらいまずかった。食器用洗剤を飲んだことは無かったから比喩としては的確ではないかもしれないが、きっと同じくらいまずいだろうと思えるほどにまずかった。仮にその比喩に重ね合わせるとすればコーヒーは敵対者でコーラが店員だった。何となく年齢的に店員が年下だから、若いとやっぱりコーラっぽく、年配だとコーヒーだと考えるのが妥当であるような気がした。敵対者がコーヒーだとしてもアイスコーヒーでもなければカフェラテでもなく、ましてや決してフラッペチーノでもなかった。アメリカンでもない。忘れられない過去の辛い思い出のように苦く熱いエスプレッソだった。砂糖もミルクも入っていない。無論、シナモンパウダーも無しだ。

 コーヒーがレジに来てコーラが接客した。コーヒーは攻撃を開始した。

「もっと大きな声で言えよ」

「サンマン・ニセン・ハッピャクエン・デゴザイマス」

 店員は敵対者にもっと大きな声でそう言った。もっと大きな声で言えと言われたからもっと大きな声で言ったが、敵対者は彼自身の指示通りの行動に対して憤慨した。

「お前、態度悪いな」

 もっと大きな声で言えと指示されてはいたが態度良くしろとは言われてはいなかったので、態度は限界まで悪かった店員は全く謝る気はなかったが、多少謝る義務があったので謝った。

「すいませんでした」店員は敵意を込めて敵対者に言った。

「お前なんかやめちまえ」

 三万二千八百円はネット上の敵対者のアカウントへのチャージ金だった。そのチャージしたカネからSNSアプリ上でライブ動画配信を生業とする人々(大概異性)に対し親密な言葉、あるいはそれ以上の何らかの代償を求めて課金を行うらしかった。彼はそのチャージをその後数十回に渡り繰り返した。それを繰り返すうちにサンドウィッチが好きな女子と話すようになりその目的を話し、その話を店員も女子から聞いた。敵対者はアカウントへのチャージ以外にスパークリングワインとポップコーンを買った。店員は会計を終了させた後、もっと大きな声で言った。より正確には敵意を込めて叫んだ。

「アリガトウ・ゴザイマシタ」

 それを聞いた敵対者は、戻って来て何か言った。

「何だお前、それは、あ? 表出ろ」

 そんな感じのことを言った敵対者に対して店員は反撃を開始した。

「テメェいい加減にしろよ、この野郎。警察呼ぶぞコラッ」

「おお呼べよ」

 店員は即座に110番通報した。彼は警察を呼ぶのには結構慣れていた。敵対者はそれを見て逃げた。店員は電話を切った。もう終ったと思ったからだ。何も終ってなかった。それは始まりだった。手始めに電話を切った少し後、警察から折り返し電話が掛かって来た。当然だ。ひょっとしたら人が死ぬような凶悪事件かもしれない。店員は電話に出て、誰も死んでないことを立証する義務があった。警察は何があったか尋ねた。店員は何があったか話した。警察はすぐに警官が向かうと言った。クラウンのパトカーで制服警官が二名来た。警官は敵対者の服装、年齢を尋ねた。クルマで来たかどうかも尋ねた。その時は分からなかったが敵対者は自転車で来ていたことがその後分かった。警官はこれから敵対者を探しに行くと言って去った。言っただけできっと探さないだろう。ただ、これだけ揉めたらもう来ないだろう――店員の予測は間違っていた。

 戦いが始まった。

 数週間後、敵対者は再来した。服装が変わっていた。防寒着がノースフェイスに変わり、スリムフィットのブルージーンズに白い革靴を履いていた。大人しくしていたので最初の数回の来店時には気付かなかった。だが、ある日態度が変わった。チャージ金の支払いの釣りを渡す時。敵対者は店員の手から乱暴に紙幣を取った。稚拙な嫌がらせだ。敵対者はその攻撃の効果を確認するように店員を睨んだ。

「どうかした」

「いいえ」

「お前、態度悪いな」

「え」店員は謝った。「申し訳ございませんでした」

「はい」

 敵対者はそう言って大人しく帰った。それからも彼は来店し続けた。買い物し大人しく帰ることもあれば、大人しく帰らないこともあった。大声を出すこともあったし、サディスティックな嫌がらせを繰り返すこともあった。不当な苦情を喚く迷惑電話を執拗に掛けてくることもあった。そのような攻撃は主に店員以外の他の従業員に向けられ、被害は拡大し、警察にも通報した。敵対者は従業員全員から危険人物と見なされた。店員は敵対者の攻撃で相当なダメージを被っていた。彼は明らかに損なわれていた。彼は敵対者の腹をナイフで刺し続ける空想を繰り返さずにはいられなかった――限界が近かった。


Cry ‛Havoc!‛ , and let slip the dogs of war.


 叫べ、「争乱だ!」、そして戦争の犬どもを解き放て。

       シェークスピア《ジュリアス・シーザー》三幕一場


 プーチン大統領の命令でロシア軍がウクライナに侵攻を開始した日、コンビニの店長は敵対者への攻撃命令を下した。事務所に張られた張り紙に書かれた言葉はシェークスピアが書いたマーク・アントニーのセリフと全く同じことを意味していた。


 重要

 Google playのトラブル多発してた方は正式に出入禁止となり                       

 ました。もし店の中、敷地内に入ったときは入店拒否してくださ  

 い。それでも言うこときかないようであれば、すぐ通報してくだ   

 さい。

                       2/24 〇〇


 やっちゃっていいってことだな。今までは仕方なく低姿勢で対応していたが、これからは堂々と攻撃出来るってことだ。ウエポンズ・フリーだ。店員はどんな風に言うかを映画アウトレイジ三部作を参考にして家でジムビーム・ソーダを飲みながら色々考え、練習してみた。「おい、お前、ここ、出入禁止だ。出て行け!」「喧嘩なんか売ってねえよ、この野郎。早く行け!」「テメェ破門しといて遊びにくんのかこの野郎、ブチ殺すぞコラッ!」等々だった。ウクライナにはウクライナの戦いがあり、コンビニ店員にはコンビニ店員の戦いがあるのだ。我々もウクライナ人の声に耳を傾けなければならないし、コンビニ店員も声を上げる権利はあるはずだ。ロシア人以外は殺してもいいと思う権力者も存在すれば、コンビニ店員をヒトと思っていない者も存在するのだ。叫べ、争乱だ! そして叫び続けろ! 

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